㉕第二部 第三章 真田征伐 一節 犬伏の別れ
一 義の人
風雲急を告げる書簡が届いた。
幸が嫁いでから一年もたたない、夏も終わろうとする頃だった。
この日昌幸が受け取ったのは『内府違ひの条々』といわれる文だ。
家康の悪事を十三か条に亘って全国の大名宛てに書いたものだ。
石田三成から家康への宣戦布告である。
昌幸は怒っている。
「治部少輔め、古狸にまんまと化かされおって。
『すぐにでも家康の伏見城を落とす』と添え書きがあるぞ。
急ぎ源三郎を呼び寄せい!」
書簡に目を通した信繁が、
「この書状、七月十七日の日付けですな」
「事を起こす前に相談せいとあれほど言うて置いたのに。
まだその時ではない。
短気じゃのう!」
…慶長五年(1600年)七月二十日(8月28日)の夜。
昌幸と信繁は下野国犬伏(栃木県佐野市)に駐屯していた。
家康から「上杉征伐」の命令を受けて、前日の十九日に上田城を出陣したばかりだった。
徳川本隊を率いる秀忠は同じ十九日に江戸を出発し、合流地点の下野国の小山を目指している。
家康は既に六月十六日に大坂を立っていた。
信幸も秀忠軍に合流すべく沼田を出陣していた。
翌二十一日夕刻。
先行していた信幸が犬伏まで引き返して来た。
早速父子三人での密談となった。
そこへ海野六郎が信繁の影武者姿でのっそりと現れると、
「七月十九日。
宇喜多秀家他四万、伏見城を攻撃始めたりとの事。
甚八からゆえ、確かな情報でござるぞ!」
「なにい!もうやりおったのか。
治部に六郎の血を分けてやりたいは」
昌幸はまだ機嫌が悪い。
「父上、ここは熟慮せねば。
六郎、しばらくは人払いじゃ。
両六郎と小助で結界を張ってくれ」
「畏まった」
「三成殿にも困ったものですな。
内府殿の思う壺でござる」
信繁が頭を掻いている。
「某からも軽挙を慎むよう申し上げておったのだが…」
信幸は眉間に皺を寄せている。
石田三成と真田家は深い信頼関係で結ばれていたが、最も親密だったのは信繁よりも信幸の方だった。
互いに「義の人」と呼ばれるだけあって心が通じ合っていた。
信幸がぼやく。
「伏見城まで落としてしもうたら繕いが効かぬようになる…」
「源三郎、おぬしもそう見るか」
「直江兼続殿も三成殿も、もう少し我慢をして貰いたかった、というのが本音でござる。
他の手がいくらでもあるものを。
あの二人は正義に走り過ぎる」
「上杉征伐」の引き金は上杉家の若き執政である直江兼続の書いた「直江状」だった。
秀吉の命令で上杉は越後から会津へ国替えをさせられた。
上杉景勝は国造りのために、会津若松に神指城を築城した。
領地も増えたので牢人の召抱えも必要となった。
それに家康が謀叛の因縁を付けた。
直江兼続は景勝の潔白を「直江状」と呼ばれた書状で舌鋒鋭く訴えた。
得たり賢しと、家康は豊臣秀頼の名前で全国の大名に「上杉征伐」命令を出したのだ。
二人の兄弟は全く乗り気でない。
信幸は、
「義を持ち出すと争いになるのは世の習いでござる。
要らぬ戦さに巻き込まれては迷惑千万」
「確かに。
正義と言うものはどちらにもあるものですからな。
「ここまで来ると、もはや収まりますまい」
「大戦さになるかもしれぬぞ。
戦さといえば聞こえが良いが人殺しじゃ」
『表裏比興之者』と呼ばれ、戦さ好きと思っていた父親の方がさらに嫌な顔をしている。
…二人の兄弟は言葉が詰まる。
二 上杉征伐
秀吉は常に家康を怖れていた。
暗い陰が心の奥底から離れなかったのだ。
…秀吉は家康から豊臣政権を守るために六本の楔を打ち込んだ。
第一の楔が家康の移封である。
三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を召し上げてしまった。
京、大坂からより離れた関東へ遠ざけたのだ。
しかし、家康の所領は百五十万石から二百五十万石に増やさざるを得なかった。
第二の楔として、畿内と東海道を豊臣恩顧の大名で固めた。
第三が上杉景勝の移封だ。
越後の雄であり、義に厚い上杉家を越後から江戸に近い会津に移封した。
そして、百二十万石に加増した。
家康を外側から囲い込むのが狙いだ。
第四が前田利家である。
豊臣政権で最高権力を持つ五大老の筆頭は利家と家康の二名とした。
利家には秀頼の傅役の権限と八十万石を与えて家康を牽制させた。
さらに政務は五奉行との合議制で行わせて牽制力を強くした。
五奉行は浅野長政や石田三成他の子飼いの大名で固めた。
第五は小早川秀秋である。
西の毛利を味方にするために、高台院(寧々)の甥である羽柴秀俊を小早川隆景の養子にして家督を継がせた。
羽柴秀俊は小早川秀秋と改名した。
小早川隆景は毛利元就の三本の矢の一人である。
当代きっての智将として名高く、毛利家の事実上の主導者であった。
第六が真田昌幸だ。
中山道の要塞として上田城に梃入れし大改修をさせた。
第一次上田合戦で徳川を破り、家康嫌いの上に、煮ても焼いても食えない昌幸に白羽の矢を立てた。
…昨年の閏三月に前田利家が没すると家康は六本の楔を外しにかかった。
真っ先に前田利長が狙われた。
しかし、利長は辛抱強く耐えた。
母親のまつを江戸へ人質に出してなんとか逃れた。
嵌ってしまったのは上杉景勝と石田三成だった。
上杉景勝が会津に移封加増されたのは秀吉が亡くなる直前の事だった。
東北諸大名と家康の監視と牽制という使命を与えられていた。
国替えをした景勝は律儀に国造りに励んだ。
それに家康が謀叛の因縁を付けた。
「上杉征伐」命令を出し、全国の大名に「下野国小山集合」という動員をかけた。
強行策だ。
これにより豊臣恩顧の大名は踏み絵を踏まされた。
家康は充分な手ごたえを感じている。
自らは六月十六日に大坂を出陣してわざと隙を作った。
その隙に乗じて、三成が家康の伏見城を七月十九日に急襲した。
こうして豊臣譜代の大名同士を闘わせるお膳立てが揃った。
…秀吉が薨ると家康は政治の中心を伏見城から秀頼の居る大坂城に移した。
直ぐに空になった伏見城に入った。
真田を含む諸大名達の居宅も伏見から大坂に移させた。
頃合いを見て伏見城を留守居役の鳥居元忠に預けると家康自身は大坂城西の丸に移った。
その西の丸には徳川の天守閣まで造ってしまった。
家康は世間から「天下殿」と呼ばれるほどの権勢を持った。
…三成の危機感には猶予がない。
三 報恩
「なんと薄情な。
源三郎、治部を裏切る気か!!
おそらく、あやつはおぬしだけは裏切らぬと思っておるぞ!」
昌幸は腹の虫が治らない。
信幸は徳川方に付かざるを得ない。
「義理を取れば情を捨てねばなりませぬ。
情を取れば義理が立たぬ事もござる」
「とは言え、兄上、親子兄弟が殺し合いをする事になりますぞ」
「もうこれ以上話しても堂々巡りですぞ。
父上らしうない!」
信幸が攻勢に出た。
「大義名分はどちらにもあるとせねばなりますまい。
第一父上は『表裏比興之者』という嫌みな褒め言葉頂くような、権謀術数に長けたお方。
今更、何をお迷いになる」
「確かにわしは謀略に長けてはおるが、親子兄弟を捨てた事は一度もない。
また、真の意味で人を裏切った事も一度足りともない。
悪いのは、苦労をし過ぎた狸親父と苦労が足らぬ三成じゃろうが」
「それはそうでござる」
「あの狸親父はどう転んでも起き上がるゆえ、源三郎が三成についてやれば良いのじゃ。
おぬし、治部とは源次郎よりも親交が深いじゃろう」
「そうすれば某の命はありませぬぞ。
稲に殺されるか、本多の親父様に殺されるか。
冗談ではありませぬぞ!!」
「では逃げれば良いではないか!」
「父上は恥というものを持ち合わせておられぬのか!」
「無い!!」
「清海入道のような事を抜け抜けと。
呆れたものですな。
ご先祖が泣きますぞ。
武士でござりましょうに!」
「おぬし、親に向かってちと言い過ぎであろう。
おぬし、ほんに解っておらぬのう。
恥などというようなつまらぬものに引っかかっておったら、ここまで生き延びておらぬわ。
己れの恥などどうでも良い。
大事なのは領民を守る事じゃろうが!」
「三成殿では内府殿には勝てませぬぞ。
真田の家が絶えてもよろしいか。
ちとお惚けになられたか!!!」
普段大人しい信幸が怒鳴り出した。
「真田の家など絶えても構わぬ。
一身一家の事より大事なのは天下国家じゃろうが。
それに、親子兄弟が殺し合いをしてご先祖が喜ぶものか!」
外で望月六郎が呆れ返っている。
「こんなに大声を出されたら結界の意味もなかろう。
まる聞こえじゃ。
馬鹿馬鹿しい」
海野六郎も、
「もう少し冷静にやってもらいたいものじゃ」
「仕方がないのう。
こう長々とやられては。
もう夜が明けるぞ。
座るだけ座っておるか」
小助も緊張感をなくしている。
「これもなかなかの見ものじゃぞ」
あまりの大声を聞きつけて家老の河原綱家がやって来た。
心配して中に入ろうとする。
「いけませぬぞ。
人払いですからな。
放って置いた方が良いようですぞ。
それに今は間が悪い…」
海野六郎の間の抜けた言い方では河原綱家は止まらない。
善意の塊だが、惜しむらくは空気が読めない人種はいつの時代にも存在する。
河原綱家もその一人だった。
陣幕を開けた瞬間、
「おぬし、それでも嫡男か!
治部がおらねばとうに真田は徳川に潰されておる!!
この薄情者め!」
という罵声と一緒に、中から下駄が飛んで来て綱家の顔を直撃した。
「河原様、大事無いか?」
小助が駆け寄る。
「ムム・・・」
「六郎が止めたのに・・・ 。
おっと、下駄で前歯が折れておる。
しょうがないのう」
「いよいよ、わしの出番か?」
海野六郎が下駄をぶら下げて、綱家の歯を拾うとのっそりと中に入っていく。
昌幸の前に下駄を置き、下駄の上に前歯をゆっくりと置いた。
いつもより間延びした物言いで、
「下駄などいつの間に持ち込まれたのですかな?
これからは結界を張る前に身体検査が必要でござる。
大事なご家老の前歯まで折らねば結論が出ませんのか?」
「・・・」
「・・・」
「平和が一番でござりますぞ。
あんまり長いと結界も決壊しますわい」
…駄洒落のついでに、ふわーっと大あくびまをすると、頭を掻きながら陣幕から出て来た。
四 治部征伐
ついに話はまとまらなかった。
昌幸と信繁は三成に味方し、信幸は家康につく事になった。
…二十二日朝。
信幸は小山へ向かい、昌幸と信繁は上田に引き返した。
…二十四日。
家康が小山に着陣。
信幸は直ちに家康に報告した。
父は離反し、信幸が家督を相続した事。
昌幸隠居の書状を見せ、徳川への忠誠を誓った。
忠誠の証に名前を「信幸」から「信之」へ改めた。
父からの独立、戦国大名から「徳川政権内の家臣としての真田」である事の意思表示である。
家康は多いに喜んだ。
「奇特千万」と賞し、沼田、上田の本領安堵を約束した。
二十七日付で安堵状も出した。
家康にとって見れば、中山道の要塞であり「苦手な真田」が割れてくれた事は大きな収穫だ。
…翌二十五日。
家康は軍議を開いて諸将の去就を問う。
後に言う「小山評定」である。
三成に敵意を抱いている福島正則が率先して家康支持を表明した。
豊臣恩顧の大名達は雪崩を打った。
掛川城主、山内一豊は「城明け渡し」まで申し出た。
将棋倒しに東海道勢が習う。
江戸から大坂に向かう東海道が開いた。
家康は「上杉征伐」を中止し「治部征伐」に切り替えた。
家康自らは一旦江戸へ引き返す。
そののち東海道を西上し、福島正則、池田輝政、黒田長政、細川忠興等の外様大名と合流する。
秀忠は徳川譜代を中心に本隊を率い、東山道の大名を集めて宇都宮から中山道に西に向かう作戦となった。
…一方、信繁は上田城への帰途を急いでいた。
ところが昌幸が我儘を言い出した。
「沼田から鳥居峠を通り迂回して上田に帰ろうと思うが。
孫の顔を見ておきたい。
これが見納めになるかもしれぬ」
「それがよろしいかも知れませんな。
中山道を帰ると小諸の仙石殿や松本の石川殿と出喰わす可能性もござる。
川中島の森殿とも会わぬほうが良い」
「吾等の監視役じゃからのう」
「つまらぬ戦さはできるだけ避けて、早く上田に帰り準備に掛かりましょうぞ」
「やはり籠城か?」
「地の利のある上田城での籠城も一策ですな」
「亀のようにか?」
「亀のようにでござる。
下駄を投げつける亀でござるがな」
沼田城下に着いた時は夜が更けていた。
城門は固く閉じて城内に入れる気配がない。
小松殿が城門の櫓の上に出て来た。
甲冑を付けて薙刀を手にし、勇ましい。
「伊豆守不在の事をご承知の筈。
前触れもなく真夜中のお越しとは不審にござります。
父上とは申せ、今や敵味方に別れたとの事」
「まだ戦さになってもおらぬぞ。
勘弁せい!」
「無理矢理城中に押し入る者は、このわたくしがお相手致す所存」
「この世の名残りに孫の顔を見たいと思うて立ち寄ったまでじゃ。
だがもっともではある。
わしの方に配慮が足らんかったわい」
「ではお引き取りを!」
「源次郎、正覚寺に先に行って言触れを頼む。
兵をここで野宿させる訳にも参らぬゆえに」
昌幸は軍を返し、やむなく沼田城から立ち去った。
「天晴れ、天晴れ。
部門の妻女はあれでなくてはいかん」
「正覚寺は手配済みでございますぞ」
「何じゃ、おぬし等読んでおったのか?」
「小助が勝手に手を打っておりました」
「『苦労は買うてでもせよ』か。
苦労人は一味違うな」
「父上には叶いますまい。
正覚寺とわざわざ言い残されましたな」
「おぬしも鋭いの。
孫の顔は見ておきたい。
そう言えば昨夜。
いや今朝になるか、六郎もやりおったわい」
「あれで兄上がいっぺんに冷めましたな」
「あんな無礼な事をしでかされたのに、わしとて怒る気にもならんかった。
狸に化かされたような気分じゃ」
「それでござる。
まさしく『狸化かしの術』という、人の心を操る術らしいですぞ。
八人衆は猿飛からいろいろと新しい技を引っ張りだしておるようでして…」
正覚寺に着陣して四半時も立たぬ内に、小松殿が五人の孫と兵の分までの酒と肴を持って現れた。
着物は改めている。
昌幸に酌をしながら、
「先程のご無礼お許し下さいませ」
「いやいや、夜分にえらい迷惑をかけた。
歳を取ると我儘になっていかん。
済まぬのう。
これで心置きなく戦さに臨める」
「どちらにも間者が紛れております。
今後に差支えがあっては、とあのような事をいたしました。
申し訳ございませぬ」
「さすが、本多平八郎殿の娘ごじゃ」
小松殿が引き上げた後…。
「源次郎、おぬしこの度はほとんど己れの意見を言わなかったのう。
腹の内を出して話したのは源三郎の方じゃった」
「この歳になりますと、墓まで持って行かねばならぬ事もござる。
ご容赦くだされ」
…「さもありなん。ならばもう聞くまい」




