㉔第二部 第二章 如意宝珠 四節 輿入れ
ひと月後の閏三月三日(4月27日)に前田利家が没した。
利家の死は安土桃山時代に終焉を告げるものだった。
秀吉の家臣団は分裂していく。
「文治派」と「武断派」とにである。
武断派は二度の朝鮮出兵で文治派に辛酸を舐めさせられたと思っている
その一方で「厭離穢土欣求浄土」の旗を立てる家康は新しい時代を見据えている。
秀吉と家康の歳の差は僅か六歳だ。
片や、保身という病いに侵され、それが老いを呼び、老醜のうちに没した。
片や、平和という新時代を開こうと、未だ静かな闘志を燃やし続けている。
時代が大きく変わろうとしている。
この年は佐助の身の周りでも大きな変化があった。
利家が没した日に昫が仔を産んだ。
七頭産んで一頭が白狼だった。
白狼の仔を太郎と名付けた。
太郎山で生まれた雄だからだ。
太郎の誕生日は慶長四年閏三月三日である。
昫は一匹狼で群れを作らなかったが、太郎は群れを作った。
九月頃には太郎山、東太郎山、そして西にそびえる虚空蔵山を仕切る大狼になった。
圧倒的な力の差を持ち既に数十頭を従えている。
(上田盆地には虚空蔵山が二つある。
一つは佐助が小太郎をひろった伊勢崎城のある小さい方。
一つは太郎が仕切る山で標高が三千六百尺ある)
小太郎も遅蒔きながらすくすくと成長している。
小助と雪乃の豊かな愛情を受けたせいもある。
普通の男子に比べて、もう少しという所まで回復して来た。
佐助よりはまだ三回り程は小さい。
「小太郎の方が信長公の生き写しじゃ」
と昌幸が囁く程の美青年になった。
薬草や医術に興味を示し、小助や侍医の青柳清庵から熱心に指導を受けている。
佐助が持ってくる専門書もこまめに筆写している。
信長の持っていた繊細な感性を受け継いでいるのかもしれない。
前田家には帰らなかった。
穴山小太郎として生きる事を選択した。
前田家に帰った場合の周りへの配慮など、小太郎なりに思うところがあるらしい。
利長も永姫も了解をしてくれた。
佐助は小太郎を兄上とは呼ばず、小太郎と呼び捨てにしている。
小太郎は佐助を猿飛様と呼んでいる。
性格の差がそうしている。
本多忠勝から再三の催促があり、幸は十月に輿入れをする。
家康が真田を取り込もうとしている。
幸は自分の御守り袋の中の碧い玉が如意宝珠である事を未だ知らない。
あの時、白珠も碧玉も勝手に御守り袋から飛び出し、勝手に戻っていた。
九月の半ばを過ぎた頃、小助が神妙な顔つきでやって来た。
「さんざん迷ったのだが猿飛には話しておかねばならぬと思うてな。
真田家中でも大殿と信幸様に若殿、そして八人衆だけが守って来た秘め事じゃ」
「わし等兄弟の秘密を探り出した時と同じ顔付きゆえ大事な話である事は判っておる」
「幸様の事じゃ」
「ふむ…」
「 実はな。
乳母の阿月殿は幸様の実の母なのだ」
「やはり」
「わかっていたのか」
「似ておるゆえ、もしやとな…」
「今から十八年前の天正九年四月の事。
伊賀は織田信雄軍五万に二度目の攻撃を受けて全滅した。
その話は以前にもした。
当時わしは十六。
惣領の百地様は二十四歳だった。
お若かったがゆえに奢りがあったとわしは見ている。
遁げる策をとれたのに敢えてとらなかった」
「惣領とて人であるからな。
しくじることもあろう」
「陽炎小平太だけでなく、百地様の惣領としての責任を責める者は多い」
「それももっとだろう。
惣領である以上、若さを言い訳には出来ぬ」
「百地様には三人の妹がおられた。
一番上が「月」と申されて十九歳、その下が「雪」で十七、末の妹御が「花」で十三じゃった。
百地様は討ち死、雪様も花様も亡くなった。
月様は奇跡的に助かった」
「ふむ…」
「月様はわしがお世話をして穴山一族の縁で秘密裏に真田に逃れた。
伊賀の惣領家の血はなんとしても絶やしてはならぬものと聞いておった。
わしも必死じゃった」
「月様は生き延びるために、大殿の側女となって渋沢郷に身を隠されたのじゃな」
「おぬし、そこまで見抜いておったのか」
「今聞いてそう感じた」
「その時、月様をお護りする命を内密に受けられたのが渋沢の親父殿じゃ。
鬼虎と呼ばれた親父殿は突然五十五で重職を捨て隠居された」
「成る程」
佐助に感じるものがあった。
少し間を開けて、
「月様の忍びの技は三太夫殿よりも上だったのでは」
「その通り」
「そうか、それで三太夫殿は今ひとつ自信に欠け焦りもあった。
ゆえに大事の決断を誤ってしまったのか?」
「そうかもしれぬ…。
その立場にならねば人の気持ちはわからぬ」
佐助はまた考えた。
そして、ポツリと、
「辛いな…」
「惣領の血は月様に流れていたのかもしれぬ」
「やがて身籠もられ幸様が生まれた?」
「そうじゃ。
そうなるといつまでも渋沢郷に潜んでおる訳には行かぬ。
表に出なければならぬ。
そこで月様は阿月という乳母になった。
幸様の母御は幸様をお産みになった時に亡くなられた事にした」
「幸様は自分が伊賀の惣領家の血を引いておる事も、阿月殿が実の母である事もご存じない?」
「が、素質は惣領家を引き継ぐだけのものがある」
「ふむ・・・それで同じ伊賀の服部家へ輿入れされるのか?」
「わかってないのう。
この様な事には鈍じゃのう。
月様も幸様も一番望まれておられたのは猿飛じゃ。
猿飛に断られて服部家を選んだのだ!」
(いや、わかっている…)
…秋晴れの空を百舌が強い声で鳴く。
「キイー、キイー、キイー 、キチキチキチキチ」
乾いた空気の中を鳴き声がよく響く。
佐助は本丸の甍の上で金箔の施された鯱鉾を背にして棟に跨がっている。
嫁いでゆく幸の行列がどんどん遠ざかっていく。
この春の甘酸っぱい記憶が蘇って来て胸が熱くなった。
(わたくしは猿飛様のお嫁になりとうございます)
幸の熱い息が耳元にまだ残っている。
…澄み渡る碧天を引き裂くような百舌の声は幸の心の叫びかもしれない。
虚空蔵山三千六百尺(1077m)、太郎山1164m、東太郎山1301m、伊勢崎城のある虚空蔵山673m