㉒第二部 第二章 如意宝珠 二節 潮満潮干の珠
一 空蝉の術
その夜の事だった。
一一一大和の国(奈良県)大峰山におる。
寂滅の時近し。
最後の伝授である。
直ちに来るが良い一一一
心話だ。
大峰山の頂上付近の庵の中で白雲斎が横たわっている。
大峰山は修験道の開祖、役小角が飛鳥時代に開いた霊場だ。
大坂と伊賀の中間にある高山である。
烏帽子山とほぼ同じ高さがある。
三人の武士が取り囲んでいる。
一人は蔦屋宗次だ。
光景までありありと佐助の心の中に映っている。
ーーー昫は呼んであるぞ。
佐助の隣で朝までおぬしの肉体を昫が護ってくれる。
「空蝉の術」を伝える。
肉体は上田に残したまま、魂のみこちらに来る。
わしの姿とこちらの場所を心にしっかりと焼き付けよ。
九字を切り印を結ベ。
白珠も目覚めておる。
白珠と気を合わせ魂を集中させよ。
「時渡りの術」と同じ呼吸じゃ。
さすれば扉が自ずと開くーーー
ーーー臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前、
唵阿忍智摩利帝曳薩婆詞ーーー
目の前に白雲斎がいる。
『久々じゃ』
『お師匠様!』
『わしもいよいよじゃ。
甲賀衆の上忍三人を紹介しておく。
蔦屋宗次殿は存じておろう』
『はい!』
『蔦屋宗次こと沼田天水でござる』
『山中地蔵斎にござります。
長寿の家系でござりましてな。
某はもう少しで百歳になりまする。
近江の海(琵琶湖)のほとりでもっぱら農に励んでおります。
我が一族は誰ひとりとして人を殺めた事がございませぬ』
『望月蔵人にござる。
望月六郎は信濃望月氏の一族。
信濃望月氏は吾等、甲賀望月氏の祖でございます。
ゆえに吾等は真田一族とも縁が深うござる』
…佐助は皆が心話で話している事にやっと気づいた。
二 甲賀の惣領
ーーー只今より其方を甲賀衆の惣領とする。
甲賀三郎兼家を譲る。
また、三百五十三代「磊無有」である。
俗世ではこれまで通り沢木佐助と名乗るが良い。
白雲斎の声には未だ生命力が漲っている。
臨終に向かう百三十歳を超えた老人とは思えない。
ーーーさて、惣領には三つの役目がある。
…一つ。
奥義を継承伝授する事。
一子相伝也。
一子とはおぬしの実の子であるかもしれぬし、そうでないかもしれぬ。
男子とも限らぬ。
陽を見るのではなく、陰、つまり霊性を見て決めるのじゃ。
…二つ。
甲賀衆を護るに非ず、この国の民を護る事。
甲賀衆は己れの事は自分達で護る。
甲賀衆の行動は上忍三人で決める。
惣領は指図をいっさいしてはならぬ。
仮に上忍三人が滅びの道を選んだとしてもじゃ。
三人より教えを請われた時のみ答えてやれば良い。
三人は心話が使える。
いつでもどこでも其方の力を貸す事が出来る。
依頼を受けた時は天の声を聞け。
それ以上は踏み込んではならぬ。
何故なら、惣領は人の命を殺めてはならぬからじゃ。
他人も吾もじゃ。
人の命を殺めると判断が狂う。
惣領の仕事は上忍三人を探し出し、その役割を決める事也。
天・地・人、それぞれ三人の名前に文字が入っておろう。
天の名前を貰うた上忍が甲賀衆の最終の意思決定をする。
地の名前を貰うた上忍は甲賀衆を束ねる。
人の名前を貰うた上忍は甲賀衆の生活の面倒を見る。
その名前は惣領がつける。
この事でひとつ頼んでおく。
天水殿のあとの上忍だけはわしが既に決めて今は修行をしておる。
やがて出会う事になるであろう。
歳若い惣領へのわしからの餞と思うてくれ。
…三つ。
生き抜いて生き抜く事。
自分の生命を心から慈しむ者こそが、他の生命をはじめて慈しむことができる。
残された時が今少しあるようじゃ。
…命ある限り少しでも伝えおこう。
三 地球の精
ーーー碧玉に出会うたな。
ーーー燃える如く尾を引き、白珠と共に二つ巴の形を為して一体となり、白と碧の二匹の「おたまじゃくし」のように見えました。
ーーー白珠が引き寄せたのであろう。
白珠は白珠石とも呼ばれる。
それは白珠石の持つ強い意思ゆえの事。
意思、すなわち石也。
石というものはどのような石であろうと、全てが意思を持っており力がある。
ごく微弱なものから天下を動かす力を秘めたものまで。
神々の聖なる息吹によるものから、魔界の邪悪なる力が凝り固まったものまでの…。
意思を持っておるものは石に限られておる訳ではない。
修行を積みし者は感じておるだろう。
禽獣虫魚から木石に至るまで、この世の全てのものには生命があり、意思と力がある。
この世は我々人間だけのものではない。
生きとし生けるもの全ての息吹の中にある。
本来なら清らかな息吹に包まれて、この世は極楽浄土であってもおかしくない。
人と人が殺し合い血を流し、恨みや憎しみの暗雲に塞がれるなど以ての外…。
白雲斎は暫く目を閉じた。
語れば語るだけ残された、時が削られる。
大峰山の庵には火が灯されていない。
全員が夜目が利くので佐助は気にもかけていなかった。
今日は朔日ゆえ新月だ。
外は射干玉のような闇夜である。
陽春の季節とはいえ、高山の頂上に近いのでかなり冷え込んでいる。
だが、囲炉裏の火も禁じているようだ。
ーーー飛行の術でどれほど昇った事がある?
ーーー六千尺程は。
ーーー二万尺程上がってみると良い。
大地が平らではなく、丸いということが目で見れる。
書物で学んだやもしれぬが、吾等が立っておる大地は地球という大いなる生命体の玉である。
地球は海原と雲で護られており、碧玉と同じ姿をしておる。
碧玉はこの地球の精である。
白珠もこの地球の精である。
碧玉は海原から、白珠は大地から生まれたと聞いておる。
碧玉は水の精、白珠は石の精也。
碧玉は陰であり、白珠は陽である。
碧玉は雌であり、白珠は雄である。
今朝、陰と陽、光と影、この世の表と裏について考えておったであろう。
それで其方の白珠が目覚め、碧玉を呼んだ。
そして碧玉が目覚め、幸姫を動かした。
其方の白珠は其方と気性がよく似ておる。
少々気が荒く烈しい。
ゆえに其方は陽じゃ
天水が竹筒を白雲斎の口元に運んだ。
竹筒の中身は岩清水のようだ。
白雲斎はしっかりと飲み干してしまった。
ーーー旨い。甘露かな。
ありがたい。
末期の水じゃ。
白雲斎の顔色が透明に近くなっている。
ーーー古事記の山幸彦、海幸彦の話は読んだかな?
ーーーはい。
ーーー潮満珠、潮干珠が碧玉と白珠也。
また、龍の絵を見た事があろう。
龍の鉤爪に握られておる珠も同じである。
この珠を御し得た者は、『邪を祓い、風水陰陽に気が通じ、財運を手に入れ、民を安んじ、天下を統べる』ことができる。
燃えるように尾を引き「おたまじゃくし」のごとく見えたのは、珠が発動した時の炎のような気の流れである。
尾の形は横、上下、全体と発動の状態で変わる。
天皇家に伝わる三種の神器や神社の御神体である勾玉は、烏帽子山で其方が見た「おたまじゃくし」の形を表したものである。
仏教においては如意宝珠と呼ぶ。
『意のままに願いを叶える宝』也。
…菩薩像や観音像が手に捧げている珠は、炎の如き気の流れが上を向いておる時の形である。
四 七つの軸
ーーーこの世には七つの軸がある
白雲斎の言葉の力にあきらかに陰りが見えはじめた。
ーーー「空蝉の術」は六番目までの軸を使った技じゃ。
地蔵斎殿。
解る範囲で良い。
わしの代わりに話をして下さるか…。
山中地蔵斎が枯れた声でゆっくりと語り始める。
ーーーあくまでも話で聞いておる事でござって、某が体得しておる事ではございませぬ。
…一つは東西の軸。
…二つ目は南北の軸。
これで平面ができまする。
…三つ目は高低の軸。
縦の軸でございますな。
これで空間が出来まする。
…四つ目は力の軸。
これよりは人の目には見えぬ軸となります。
物と物には引き合う力が働いておるそうでございます。
その力が働いて風や水や火の力となっておるとの事。
吾等が水の上に立つ事ができるとすれば、それは大地の力のせいであると聞いております。
“空を飛び、水を渡り、水に潜む”という技は、この四つの軸を制御なされる術と察する次第。
当然、ここからは吾等上忍では及ばぬところでござる。
…五つ目は時の軸。
この軸の中では、常人は皆同じ速さで先に進む事のみ出来ます。
しかし、往き来をする事は出来ませぬ。
「時渡りの術」は第五の軸の中を昔へ戻り、そして今へ帰って来る技と聞いております。
六つ目は魂の軸。
あるいは心の軸とも呼ぶもの。
「空蝉の術」はこの軸の扉を開けて成した技にございます。
第七の軸は無限の軸。
あるいは「無の軸」または「空の軸」と呼んでおります。
仏教で阿頼耶識と呼ばれている世界とも聞いた事がござる。
神仙の領域になると聞いておりますが、拙者ではご説明致しかねる世界かと存じます…。
俗に言う“虫の知らせ”あるいは“直感”または“天の声”というものが近いかもしれぬ、と己なりに考えております。
果たして……
ーーーさすがである。
よくぞ平易な言葉で説明してくれた。
三百五十三代殿。
其方は第四の軸、第五の軸、第六の軸の扉を開けた。
そして、常人では触れられぬ術の初手をものにしたところである。
白雲斎は一度呼吸を整える。
ーーー白珠と碧玉が鍵となる。
扉が次々と開れ、妙なる世界を知ることになろう。
六千尺(1818m)
二万尺 (6060m)




