㉑第二部 第二章 如意宝珠 一節 初恋
一 楊柳
蛍が池の真鯉がピシャッと音を立てて跳ねた。
水面に漣が立ち波紋が広がっていく。
漣は春の陽射しを受けきらきらと光っている。
その光と陰が源氏の間の白壁で揺らいでいる。
(光と陰か・・・)
白壁に映る光の縞の揺らめきを見ながら、薄ぼんやりとこの世とあの世のことを考えていた。
光が当たれば闇が出来る。
裏無くして表はない。
神が天使を作られた時に悪魔も出来たのだろうか・・・?
悪魔がいる限り戦さは無くせないのだろうか・・・?
慶長四年三月一日(1599年3月27日)。
佐助が上田城にきて早二年になろうとしている。
信繁の薫陶よろしく白雲斎から与えられた三十冊をものにした。
六韜、三略、軍将図も読破、修験道関係の書も読み終えた。
真言密教の奥義に興味が湧いて来ている。
信繁から与えられた御利益は大きかった。
大坂城と伏見城には秀吉秘蔵の書がある。
それらを青虫が若葉を貪り食べるように読み尽くそうとしている。
佐助が大坂や伏見にいるときには、蔦屋宗次がちょくちょく佐助のところに顔を出す。
佐平や志乃の様子や世の流れを教えてくれるついでに 、足らない書物はどこからか調達してくる。
宗次は大坂の前田利家邸に頻繁に出入りしている。
その利家の具合が悪いらしい。
どうやら、利家は宗次に利家亡き後の事を託しているようだ。
昨年の八月十八日、秀吉は伏見城で生涯を終えた。
掠め取った天下にしがみつき、老醜を曝け出し、一身一家の先々の不安に悶々として…。
すぐに家康は朝鮮からの撤兵工作を仕掛けた。
石田三成を動かして十二月にようやく完了した。
それには信幸、信繁兄弟が大きく貢献した。
信繁が三成と親密であったのは言うまでない。
信幸は徳川方にもかかわらず三成にも深く信用されている。
家康にとって、父の真田昌幸は軒に作られた雀蜂の巣のような存在だ。
だが長男の信幸はそうではない。
沈着冷静にして誠実、さらに本多忠勝が惚れるほどの度胸も秘めている。
信繁はというと、一見信幸と同じ性格のように見える。
が、昌幸の持つ『山っ気』を隠しているような気配がなくもない。
本能寺の変から十七年。
潮目が変わろうとしている。
楊柳が湿り気を帯びた春風に靡いている。
若緑色の細い線が柔らかい。
源氏の間の縁側で横になったまま、佐助の頭の中は世の中の来し方行く末の事に変わっていた。
廊下が壊されそうな地響きを立てる。
襖が大きな音を立てて開いた。
音の主は清海だ。
「やはりここに居ったか。
世話役のわしの勘はいつも当たるわい。
猿飛御用じゃ!」
「大きなお世話役だが…」
「今すぐ遠乗りの用意をして、幸さまのところへ行け。
颯も喜ぶわい」
「ふむ?」
…「折角大坂から帰って来たのに出してくれぬ故、颯とて気鬱じゃろう」
二 困惑
「外は春風。
若菜摘みにお城の外に出てみとうございます」
幸が阿月に頼んでいる。
「また、清海さまの病気をもらいましたか。
今日は三月一日、 明後日は桃の節句。
お女中衆も皆楽しみにしております」
滅多にある訳ではないが幸が一度言い出すとまず止まらない。
乳母の阿月は口ではそう言っているが、心はもう諦めている。
「来月は閏三月で、もう一度三月がございましょう。
それに明日は必ずお手伝いいたしますから」
「仕方がありませぬ。
ようございましょう。
すぐに皆で用意を致しましょう」
「いえいえ、それには及びませぬ。
たまには、わたくし一人で馬にて山野を自由に駆け巡ってみたいのです」
「それはなりませぬ。
ご祝言の日こそ決まっておりませぬが、お嫁入り前の大事なお身体。
大殿に叱られます」
この正月に本多忠勝の取り成しで服部半蔵正重との縁談が決まっていた。
幸より四つ歳上だ。
昌幸の意向によるものだった。
…伊賀十二家評定衆であった服部家は、今や八千石を領する徳川譜代の旗本となっている。
正重の祖父、保長から徳川に仕え、父正成は本多忠勝らと共に「徳川十六神将」と呼ばれる活躍をした。
正成が前々年に亡くなり、正重の兄、服部半蔵正就が家督を継いでいる。
幸は全く気が進まなかったが、昌幸の決めた事ゆえにどうすることもできない。
それに阿月が異常なほど乗り気であった。
「そう言われると思いました。
阿月も心配でしょう。
では誰ぞ屈強な殿御衆にお供をお願いしては、お一人だけで結構ですから」
「そうですね。
では清海さまにお願いして参ります」
「清海さまは気を使わずに済みますからよろしいのですが、こ度は目立ち過ぎませぬか。
何しろあの大声は若菜摘みには似合いませぬ。
おまけに警護という点では隙があり過ぎます。
一昨年の剣術試合でもわたくしの目潰しの手中に落ちていたかもしれませぬ」
「やはり、そう言う事でしたか。
猿飛さまが昨夜大坂からお帰りとのこと。
では早速、清海さまにお願いして参ります」
「清海さまは・・・」
「はい、心得ておりますのでご安心なさせれませ」
阿月には良心の呵責があった。
阿月は清海を呼んだ。
「わしがしっかりと姫をお護りしようものを」
「清海さまは若菜摘みには似合いませんでしょう」
「そんな事はない。
が、猿飛ならば良い。
特別に許してしんぜよう」
佐助も幸の輿入れの件は佐助も承知している。
正月に信繁から話が正重より先に佐助にあったのだ。
昌幸には昌幸の思いがあった。
本田忠勝からの愛娘への縁談に昌幸は珍しく困惑した。
信繁と信幸には幸の気待ちが解っていた。
佐助が幸に好意を持っている事も知っていた。
…「とんでもござらぬ。ご好意はかたじけない。
だが拙者は修行中のただの若輩者。
真田の姫君とは身分違いも甚だしい」
三 十二単衣
颯は上機嫌だった。
二の丸にある幸の館の前まで乗り付けると幸が若侍の姿で出て来た。
「お早いですね、猿飛さま。
ご迷惑かもしれませぬがよろしくお願いします。
さあ、参りましょう」
「供は拙者一人でござるか」
幸に縁談が決まっている事を気にしている。
「お一人では自信がありませぬか」
「そういう訳ではない」
「場所はお任せします」
「烏帽子山が良かろう。
高山ゆえに高さに応じていろいろと旬の若菜が摘めるだろう。
近いので今日には向いている。
この風の匂いではやがて雨になるぞ」
「猿飛さまはお天気もお判りになるので」
「たいがいは」
烏帽子山には春霞がかかっていた。
佐助の言った通りに朝は快晴だった空に雲が出て来ている。
麓から中腹辺りにかけて山桜があちらこちらと咲き染めている。
「まあ、淡墨桜とはこの事でしょうか。」
「そうでござるな。美しい」
「まあ、恥ずかしい…」
「えっ。あ、そ、そうでござる。あっはっは」
佐助は笑ってごまかしたが急に胸がドキドキしだした。
鳥居峠で初めて見た時から幸に好感を持っている。
「さあ、颯と夕影を走らせてやろう。
四半刻で麓に着くぞ」
夕影は颯より一回り小さい牝馬だ。
名前の通り颯と同じ青黒色の名馬である。
二頭が東を向いて気持ち良さそうに走る。
烏帽子山は四阿山には及ばないが、太郎山の倍ほど高さがある。
登れるだけ登って繋ぎもせず二頭は自由にさせてやった。
山歩きをしながら、若菜を摘む幸の後ろをついていく。
「そういえば姉上と若菜摘みに行って昫を助けた時の事を思い出すな」
「あの立派な白狼ですね」
「今は太郎山にいる。
大坂や伏見にも来て私を見守ってくれている。
そうだ。昫を呼ぼう」
「会ってみたいですけれど今日は結構です。
猿飛さまお一人で充分」
佐助はまた胸がドキドキした。
中腹近くまで登ると山影にはところどころ残雪がある。
しかし、陽だまりのところには犬ふぐりや仏の座、はこべなどが咲き乱れて春爛漫だ。
土と若草の匂いが山育ちの佐助の野生本能をくすぐるようだ。
依然ドキドキはしているが少しましになってきた。
幸は健脚に任せてどんどん上に登っていく。
実は、幸の方は佐助以上だった。
早鐘を打つような状態だ。
なんとなく軽い気持ちでした謀事が、思った以上に上手く運んでいる。
思っても見なかった夢が現実となって今ここにある。
このあたり迄はなんとなく考えていたのだが、この後どうすれば良いのか判らない。
「あっ。十二単衣!ほらあんなに群がって」
青紫色の可憐な花が群成して咲いている。
その下の方には一面真っ白ななずなが群生している。
こちらは花の盛りを過ぎようとしている。
晴の陽射しが雲間から覗いて幸の横顔を照らした。
佐助は美しいと思った。
「春の七草をご存じ?」
「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろでござろう」
「まあ、よくご存じ」
「薬草の修行もしておるゆえ」
「それでは秋の七草は」
「萩、桔梗、薄、撫子、女郎花、葛、藤袴であろう」
「清海さまとは随分違いますね」
「清海には清海の良さがある。
『人間、ああは馬鹿にはなれぬ。それだけでもたいしたものじゃ。それだけでないかもしれぬ。ひょっとすると・・・』と若殿も申されておった」
「ひょっとすると、何でございますか?
幸は自分が何を言っているのか、うわの空になっている。
雲の上を歩いているのかもしれない。
「あと芹を採れば七草も揃います」
と踏み出した途端…。
「きゃっ!」
という声と共に幸の身体が消えた。
…若菜の摘まれた籠だけを残して。
四 雨音
幸は六丈もある切立つ崖から落ちていた。
あると思って踏み出した足の下には土も岩も無かった。
崖の端が大きく崩れ落ちていた。
葛の蔓の上に落ち葉がしっかりと乗り、よく繁った烏野豌豆でこっぽりと覆われていてわからなかったのだ。
天然の落とし穴に足を踏み込んでいた。
いつもの幸であればこんな失態はしない。
佐助も同様だ。
「時渡りの術」を使っていればもっと違っていただろう。
心が雲の上にあっては術は効かない。
というよりそんな術が使える事すら思いつかなかった。
しかし、佐助の身体は覚えていた。
「しまった!」
と思った瞬間より早く、身体は崖下に向かって飛んでいる。
逆さまに落ちながらなんとか幸の左手を佐助の右手が掴んだ。
左手が幸の身体を抱き寄せた。
幸の身体は佐助に抱かれたまま四丈下へ落ちた。
地面に当たると思った刹那、二人の身体が一瞬だけ浮いたように止まった。
その時佐助は見た。
白珠はお守り袋から飛び出ていた。
燃えているように見える。
炎が尾を引いている。
同じように尾を引いている碧い玉と合体している。
白と碧のおたまじゃくしが球体の中に入っているみたいな感じだ。
二つ巴の形だった。
落ちた地面はありがたい事に岩のない草むらの斜面だった。
幸は何が起こったのか判らないまま必死で佐助にしがみついている。
佐助は幸を護るために必死で抱き止めていた。
そのまま斜面を二人でごろごろと転がった。
その時の土と若草の匂いを佐助は今でも忘れない。
それとほんのりとしたおしろいの香りを。
幸は佐助の身体にしがみついて離れない。
首筋に透き通るような青い血管が脈打つのが見える。
…幸も御守り袋を首に掛けていた。
碧い玉はどうやら幸のお守り袋から飛び出したみたいだ。
震えている…。
襟元がはだけて胸元が見える。
佐助はどうすれば良いのか判らない。
その肌はうなじよりもっと白かった。
佐助は思わず視線を逸らした。
心臓の鼓動が耳まで聞こえる。
幸は涙に咽んでいる。
「わたくしは猿飛さまのお嫁になりとうございます」
幸はもっときつく佐助に抱きついた。
修行で鍛えられた厚い胸が幸の胸の柔らかさを感じた。
佐助は言葉を思いつけない。
幸が顔を上げる。
震える唇に佐助は唇を合わせた。
佐助は思いっきり幸を抱きしめた。
春霞の中をゆっくりと大きな夕陽が沈んでいく。
西の空は薄桃色だ。
豊かな茜雲がたなびき縞の様に光が漏れている。
愛馬を西に進める二人の若武者の影が信濃路の菜の花畑の中に長く伸びている。
二人は半分くらいになった夕陽を見つめている。
ともに無言だった。
佐助と幸はこの景色を一生忘れまいと思った。
夜になって佐助の予想より遅く雨になった。
春雨の優しい音を聞きつつ、甘い土の匂いを思い出しながら眠りについた。
佐助も幸も…。
白の珠玉はお守り袋に戻りすやすやと寝ている。
六丈(18m)