②第一部 第一章 出逢い 二節 ほのかな光
木漏れ日が志乃の頬で揺れている。
春三月。
信州鳥居峠の山深い断崖の小径にもようやく春風が吹き初めた。
甘酸っぱい梅の香りがほんのりと漂っている。
「姉ちゃん! あれは雪じゃあねえぞっ!」
「なりませぬ!佐助っ!!」
志乃は二十丈も下を流れる足元の谷川を覗き込んだ。
いきなり冷たい風が吹き上げて鬢が靡く。
足が竦む。
佐助はすでに跳んでいる。
藤蔓や蔦を伝ってとうに崖を半分ほど降りていた。
まるで猿だ。
息もつかずそのまま岩から岩へ。
谷川にザンブと浸かった。
川底の小石に足が滑り、急流に十間程押し流された。
だが右手はしっかりと白い漂流物をつかんでいる。
一尺くらいの動物だ。
雪の塊みたいに冷え切っている。
息をしていない。
そのまま懐の中に押し込む。
崖の上では志乃がまんじりともせずに待っていた。
「どうすりゃええ?」
佐助が漂流物を懐から取り出す。
手は蠟のように白い。
身体と一緒にワナワナと震えている。
「上だけでもお脱ぎなさい」
志乃は自分の蓑と上掛けを脱ぎ佐助に渡した。
頭の被り物の手拭いを外して、両手で小動物をさすりながら水気を取っている。
十二歳とはいえ佐助の身の丈は五尺五寸を優に越している。
身体だけは志乃より随分大きい。
志乃の上掛けを羽織り、裾をなんとか腰帯の中に突っ込んでいる。
蓑は志乃に返した。
「姉ちゃんが風邪をひくぞ・・」
抱き抱えていた小動物を佐助に渡しながら、
「心の臓も動いておりませぬ。息もないし身体は氷のよう」
…何とかしたい。
佐助の目が志乃に一心に頼んでいる。
「父上にすがるのです。懐へ入れて家まで思いっきり走りなさい!
一刻も早く父上を探すのですよ。父上は・・・」
とっくに佐助の姿は三十間も先にある。
跳ぶように走っている。
張り詰めていた気が抜けて志乃はその場にへたりこんだ。
「山のことならおいらだな。
姉ちゃんの知らねえ、うまい若菜を今夜おッ父に食わせるぞ!」
学問はちっともしない。
けれど佐助には妙にいつもしてやられる。
今日も家の近くで若菜を摘むはずだった。
気がつくと神川の上流の見知らぬ山奥まで連れ出され、結局はまた事件だ。
佐助の母親は今はいない。
九歳上の志乃が母代わりだ。
あのような冷水に浸かったら並のわらべなら死んでいる。
気力も体力も尋常ではない。
夜目も効けば勘がずば抜けて良い。
それだけではない。
佐助の性格がいまだに良く解らない。
捻くれ者ではない。
動物的勘で右と言えば左、左と言っても右に動く。
気性は竹を割ったように真っ直ぐだ。
芯は桁外れに激しい。
怪事件があった。
昨年の夏の終わりの事だ。
鳥居峠は上州(群馬県)と信州(長野県)の国境にある。
その麓の渋沢村で上州から侵入してきた盗賊が捕まえられた。
五人の賊達は褌ひとつで海老型に縛り上げられていた。
剥ぎ取られた着物は盗んだ物といっしょに国分寺の境内に放ってあった。
盗みのやり口は強欲で非情なものだった。
収穫前のはざかい期ゆえになおさらだ。
貧しい村人の家から容赦なく、米や金になる物を残さず掠め取っていた。
国分寺の三重塔の前には「ひもろの大木」が聳え立っている。
首領は枝の中に裸で吊るされていた。
余程腹に据え兼ねたとみえる。
ひもろの木は別名「ねずみ刺し」と言われる。
葉は硬く先が針のように棘っている。
和尚に縄を解かれた盗賊達は震えがおさまらず、やけに神妙だった。
何かに異常なほど怯えて、年の暮れまで黙々とただ働らきをした。
国分寺の除夜の鐘が鳴り終えるとどこかに消えたという。
その頃からだった。
「鳥居峠には天狗がいる」という噂が流れ出したのは。
志乃は佐助の仕業だったと思っている。
村の衆も勘付いているかもしれないが誰も口には出さない。
父親の佐平はそんな佐助を叱るでもなく、じっと見守っているだけだ。
佐平は村人とは交わらない。
村人達も佐平の家には決して近寄らないし近寄れない。
志乃の家は鳥居峠よりもさらに奥深い四阿山にある。
人が足を踏み入れる気など起こりそうもない所である。
佐助は所詮まだ子供だ。
だが怪童だ。
佐平の姿形は百姓だが挙止挙動はそうではない。
どちらも変人と思われ怖れられている。
走り出すと佐助の身体からは汗が噴き出した。
家に着いた時には湯気を立てている。
佐平を探し出し懐の動物を見せる。
裸の上半身に志乃の上掛けを着ている佐助を見て、佐平はおおよそを察した。
「生きておるぞ。
心の臓も微かだが動いておる。
息もある。ほら。抱いてやれ」
佐助はその白い生き物の鼻に顏を近寄せる。
…生きている!
澄み渡る青空が心の中に広がっていく。
「小鳥などの小動物は一旦死んでも手の中で温めてやると、人間の気の力で蘇生する事がある」
「・・・」
「おぬしの身体の温もりと無茶な走りが絶妙な薬になったのかもしれぬ」
「えっ」
「まして佐助の旺盛な気の力じゃ。蘇生せぬものなどおるまい」
ただただ嬉しかった。
頬を擦り付けたり、手で摩ったり、懐の中へ入れたり出したり。
「うむっ??」
懐の中の帯の上あたりに小さな塊がある。
真ん丸で真っ白い石の玉だった。
だが重さは感じない。
目には見えないくらいの無数の穴があるようにも見えるが、白い漂流物の吐き出した水に濡れている。
黄金にも銀色にも見える艶やかな光を出している。
佐平も手に取ってじっと見つめている。
「ふーむ・・」
「綿よりもかるい・・・?」
「それにこの硬さじゃ」
「かたいのにかるい・・?」
「おぬしの懐の中でこの仔が水を吐き出した時に出て来たのであろう・・」
…がっしりとした佐平の掌で白い石がほのかな光を発している。
二十丈(60m)
十間(18m)、三十間(54m)
一尺(30cm)
五尺五寸(167cm)