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碧と白の珠玉   作者: 真緑 稔
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⑯第一部 第四章 本能寺の変 四節 漁夫の利

 秀吉は備中高松城を眺めて有頂天だ。

 孤城が大きな湖の中に浮かんでいる。

 湖ができてもう十二日になる。

 城はやがて落ちるはずだ。



 高松城(現岡山市)は堅固で最新鋭の平城だ。

 城主の清水宗治(しみずむねはる)は名君である。

 城の周りは広大な湿地帯だった。

 三万の大軍で三千の高松城に何度も力攻めを試みた。

 だが、泥濘ぬかるみに足を取られ攻めきれない。


 黒田官兵衛は「湿地帯」という「障害」を「強み」に変える奇策を考え出した。


 奇想天外な案を現実にしたのは猿知恵だ。

 秀吉は金を惜しげも無くばら撒いた。

 金の力とありがたみを身に染みて知っているのだ。

 官兵衛は湿地帯の外側に点在する微高地を利用した。

 微高地と微高地の間を土盛りして堤防で繋いだ。

 高さ二丈半、長さ一里に亘る巨大な堤が出現した。

 五月八日に着手してから僅か十二日で完成させた。


 毛利軍は度肝を抜かれた。


 足守川あしもりかわの水が引き入れられた。

 雨が少ないこの地域には珍しい梅雨の長雨に加えて、折しも豪雨が降った。

 天運も味方にしたのだ。



 …堤の見回りは一刻も前に終えた。

 戌の刻前になっても秀吉は孤城を眺めている。

「殿。飽きませぬのか?

 そろそろ龍王山の本陣に帰りましょうぞ。

 日が長いとはいえ今宵も闇夜でございますぞ。

 それに今日という日は問題の六月二日ではありませぬか」

 石田三成に諭されているところに蔦屋宗次からの密書が届いた。

 午の上刻までの本能寺の有り様が記されている。

 秀吉は食い入るように読んでいる。


「ようし、よし、よし。これじゃ、これじゃ。

 これを待っておったのじゃ。

 明朝、卯の刻に出陣じゃ!

 支度はすでに出来ておろうな」

「吉報でござるか?」

「凶報じゃ!」

 秀吉は三成に耳打ちすると、

「佐吉(三成)、全軍に触れを出せ。

 腹ごしらえをして直ちに休ませい!」


 怒鳴りながらウロウロしだした。

 興奮した時の癖である。


「そ、それから秀長と虎之助(加藤清正)を呼んでくれ。

 市松(福島正則)もじゃ」

 密書を渡された官兵衛は鋭い目でじっくりと読んでいる。

「官兵衛、おぬしには大仕事を頼みたい」

安国寺恵瓊あんこくじえけい殿と繋ぎを取り、小早川隆景殿と最後の詰めをするのでござるな」

「頼む。全て任すでな」

「清水殿には詰め腹を切っていただく事になるがよろしいな」

「むむ、惜しい武将じゃがのう・・・」



 …日付けが変わった六月三日、丑の上刻。

 真っ暗闇の中を黒田官兵衛が本陣に帰った。


「ご苦労、ご苦労。して首尾は?」

「まだおやすみでござらなんだか。

 困りますなあ。

 明日からは強行軍でござる。

 しばらくは体力勝負ですぞ」


「すまん、すまん。首尾はいかに?」

「殿が起きておっては小姓や供回り衆が寝れぬではありませぬか」

「悪かった。気が気でないのだわ」

 官兵衛もなかなかしぶとい。

「殿は馬に乗っておれば良いが、(かち)の者もおれば重き荷を担ぐ者もおる。

 そのような事は、殿なればこそ嫌ほどご存知のはず」


「わかった、わかった。勘弁してくれ。

 興奮して眠れんのだわ。してどうじゃった?」

「上首尾にござる。

 小早川隆景殿ゆえ心変わりはござらぬ。

 後ろから攻められる心配もご無用」

「よし!

 高松城の仕置きは小早川殿に一任じゃ。

 いち早く光秀殿と三河殿の援軍に廻るぞ!」



「 その事でござる。ちと大事な用件が…」

「そうか・・・。

 佐吉、皆に寝るようゆうてくれ。

 酒も茶も要らぬ。おぬしも先に寝め。

 明日からはおぬしが頼りじゃで」


 しばらくすると陣幕の内が静まり返った。

 長堤の向こうの人工湖からの湿った風が運ぶのか、蝦蟇蛙がまがえるの鳴く音がかすかに聞こえて来る。

「して?」

「天下が取れますぞ。殿次第でござるが」

「天下とな・・・?」


 その時、闇の中から黒い霧のようなものが浮かんだ。

 膨らんだり縮んだりしながら漂っている。

 呼吸をしているかのようだ。

 蝦蟇の鳴く音に乗って湖の方から来たようにも見える。

 その黒い霧が音も無く秀吉の首筋の後ろにすーっと入るのを官兵衛は見た。

 (毛利勢の死霊か、生霊か・・・?)


 秀吉の猿面に狡猾そうな歪んだ笑みが浮かんだ。

 さすがの官兵衛も薄気味悪さを感じ一瞬たじろいた。


 気を取り直して話に入った。

「その一でござる」

「ふむふむ」

「このまま三河殿と明智殿の話に乗れば、殿は天下で三番目の地位を手に入れる事が出来ましょう。

 されどいっときは逆賊の汚名は被らねばなりませぬぞ」

「覚悟はしておる」

「柴田殿はじめ織田の諸将とは戦う覚悟も必要でござろう。

 しかしながら、明智殿と殿が一気に畿内を征圧して実権を掌握すれば、抵抗する者は意外と少ないと読んではおりますが」

「明智殿はわしと違って人望があるのでな」

「弔い合戦をお一人だけでもされるようなお方は、生真面目で人のいい柴田様くらいでござる。

 あとのお方は強い方になびきましょう」

「柴田様に刃を向けたくはない。

 が、民の事を思うならこのやり方がとりあえずは良い。

 毛利平定後はイスパニアと組んで唐入りまでもなされるとか。

 お屋形様がおわす限り戦さの世が続くでのう」

「ゆえに三河殿の賭けに乗るようにお勧め致しました」


「そこまではわしも承知しておる。

 して『天下を取れる』とは如何にすれば良いのじゃ?」

 蝦蟇の鳴く音が湖から地を這うように響いてくる。


「その二でござる」

「それそれ!」

「密書によれば、光秀殿は本能寺は落としたが、お屋形様の生首を取るのに失敗なされておるやも知れませぬ」

「とすると、流れが変わるかもしれぬという事か?」

「お屋形様が逃げおおせた可能性も全く無い訳ではござらぬ。

 あの明智殿が討ち漏らすとは考えられませぬが」

「密書によると、筒井殿には裏切りの気配がすでにあり、細川殿は様子伺いと見えなくもないのう」

「どうやら裏で別の何かが動いてござる」

「朝廷か?伴天連か?その裏のイスパニアやポルトガルも考えられるでな?」

「それとも、もっと腹黒い者かも知れませぬぞ?」


 官兵衛はさらに突っ込んでいく。

「万が一にもお屋形様ご存命の場合、『その一』の策では殿の命はございませぬ。

 光秀殿にお味方するつもりの方々とて皆そのように考えるのでは…」

「成る程。そこに天下を取る水脈があるのか?」

「嘘でも良い…。

 仮に、お屋形様ご存命の情報が至るところから発信されたらどうなりますかな。

『瀬田の唐橋の手前の膳所(ぜぜ)辺りまで信忠様とともに逃れた』

 というともっともらしく聞こえませぬかな?」

「疑心暗鬼になっておる諸将は堪えるじゃろう」


「天下を取れると申したのは、ここで殿が間髪を入れず明智殿を討つ策でござる。

 さすれば逆賊という汚名では無く、逆に『天下の忠臣』という大義を味方に付ける事が出来まする」

「今こそが天下を取る千載一遇の好機じゃ!!」

「もしお屋形様ご存命であっても天下第二の地位が入ります」

「力のある柴田殿、前田殿は上杉を相手の戦さゆえすぐには動けぬ。

 信忠様は討ち死。

 信雄、信孝様には人望がないでのう」

「そう、殿以外に明智殿を直ちに討つ力のある方はおりませぬ」



 蝦蟇の鳴く音が大きくなった。

「ただしこの策には三つの問題がござる」

「聞こう」

「一、お屋形様の生死のいかんに関わらず多くの血が流れる事」

「ふむ」

「二、毛利を騙した事になり武将としての信用を落とす事」

「ふむふむ」

「三、三河殿と明智殿を裏切り、お二方がされたご苦労の上前を掠め取ってしまう事。

 この三つは他人は騙せてもご自分は騙せぬゆえ、先々の大きな足枷になりますぞ。

 ましてその様な姑息な事を天がお許しになるかどうか」


「なるほど。その手があったか。

 官兵衛、おぬしの話を聞いておってわしの腹は決まった」

「どちらに?」

「わしの本心を明かすぞ。

『掠め取る』とおぬしは言いおったが、わしはそれでもかまわん。

 わしはな、実はお屋形様を恨んでおったのじゃ…」

「なんと?」

「お屋形様だけではない。

 猿、猿と皆の者に見下され笑い者じゃ…」

「おぬしのように良い家に生まれた者にはわかるまい」

「いくら武功を立てても、生まれの賤しい成り上がり者と白い目で見られる。

 いつか見返したい一心でここまで耐え忍んで来た。

 それゆえに第一の策にも乗ったんじゃて」

「なんと!」


「今が千載一遇の機会であるならば何が何でもものにしたい。

 わしは天下が欲しい!!

 どんな穢い手を使ってもわしは天下を取る!」



 ーーーやはりそうであったか。

 わしの話などちっとも理解しておらぬ。

 この方は武士に非ず。

 心は乞食ではないか。

 徳が無ければ、天下を取っても天下は修められぬ。


 官兵衛も竹中半兵衛も「戦さの無き世」を目指してここまで秀吉に尽くして来た。

 残忍な信長ではできぬ、民百姓の気持ちのわかるこの方ならばできると見た。

 他の武将にはない、日輪のように明るく無邪気なところに惹かれた。


 ーーーその器ではなかったようじゃ。

 無邪気な明るさの裏にはどす黒いものを宿しておったのか?

 その黒いものが先程の黒い霧のようなものを呼び入れたのか?


「軍師として一言、言ってこきますぞ。

『掠め取った天下』は長続きしませぬ。

 それでもなさるか?」

「良い!!

『掠め取った天下』でもわしは天下が欲しい!」


 すでに病に倒れた半兵衛もさぞや落胆しているだろう。



 …六月三日早暁、秀吉は満を持して備中高松の陣を引き払った。

 何かに取り憑かれたかの様に猛然と行軍した。

 街道は信長を迎えるためと称して、「石ころ」まで拾ってある。

 段取りは万全だ。


 先陣の二万は荒くれ者の多い尾張衆を中心に組んである。

 身軽にするために鎧兜、火器、兵糧は全て後陣一万に預けさせた。

 姫路城には先陣用の武器弾薬が蔦屋宗次と今井宗久によって用意されている。

 人馬さえ身一つで辿りつけば良いのだ。


 秀吉は先陣全員に特別手当てを与えた。

 さらに先着五千には倍額の報奨金を出した。

 このあたりは人情の機微に敏感な秀吉の得意技だ。


 先陣を引っ張るのは猛将加藤清正と福島正則だ。

 巨漢の二人が先陣争いをするので、否が応でも勢いづく。

 二万の群勢は走りに走った。

 殿軍(しんがり)を率いるのは秀長と緻密な近江衆を中心とした部隊だ。

 こちららは毛利軍を警戒しながら、荷駄隊を中心に着実に行軍した。


 …六月八日に先陣は姫路城にたどり着いた。

 陣容を整え六月十一日には兵庫に着陣してしまった。


 後に言う「中国大返し」である。


 世間には六月六日に備中高松の陣を出立と発表した。

 神懸かったかのような勢いに奇跡的な速さだと誰もが思った。


 諸将は圧倒された。


 家康と光秀との企ても闇の中だ。


 まして秀吉が一枚噛んでいた事など知るよしもない。

 秀吉ならではの根回しで、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶、摂津の高山右近、中川清秀、池田恒興を懐柔し寝返らせ、畿内を抑えた。


 六月十三日には京都の山崎で光秀を破ってしまった。

「天下分け目の天王山の戦い」と呼ばれる。


 勢いづいた秀吉は信長の仇討ちが旗頭であったにも関わらず、忠臣の柴田勝家も三男織田信孝も滅ぼした。

 天下を織田一族には返さなかった。

 やがて、四国、九州も征圧。

 北条氏を滅ぼし、伊達政宗を跪かせ東北も平定した。

 信長が目前にしていた全国統一をついに完成させた。

 信長が安土城の次に計画していた大坂城を本願寺跡地に築城。

「唐入り」まで真似てしまった。


「戦さ無き世への道」に秀吉が横槍を入れ、再び多くの血が流された。



 信長と光秀の行方は謎のまま…。

 秀吉は「掠め取った天下」にしがみついた。







二丈半(8m)

一里(4Km)

戌の刻(午後8時)

丑の上刻(午前1時半)

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