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碧と白の珠玉   作者: 真緑 稔
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⑮第一部 第四章 本能寺の変 三節 予期せぬ事

 本能寺は辰の刻(午前8時)に焼け落ちた。

 その後、兵を二手に分けた。

 二千は斎藤利三が率いて妙覚寺の信忠勢五百を討ち取った。

 一千は左馬助秀満の指揮で信長の遺骸を捜索している。



 …六月二日の午の刻(正午)になっても信長の確認ができない。


 焼け焦げて判別できない遺体も多い。

 遺体の数が合わないのだ。

 本能寺には僧の密偵を入れ、総員の姓名まですべて把握してある。

 五体足らない。

 小姓衆は巨漢揃いだ。

 少なくとも良く知っている森三兄弟の巨体はない。

 信長と似た遺体もない。


 彌助だけは確認できている。

 二条御新造(にじょうごしんぞ)で利三が生きて捕獲した。

 何もわからないらぬ切支丹の黒人奴隷と侮り、その場で放免してしまっている。

 利三にしては安易過ぎた。

 捉えておいて吐かしてみるべきだったのだ。

 水も漏らさぬ網目をくぐり抜けて、彌助は本能寺から二条御新造まで行っているからだ。


 筒井順慶は未だ来ない。

 細川藤孝も手勢は出したが本人が来ていない。


 本能寺から二町北に置いた本陣に良い知らせが来ない。

 安田作兵衛が信長にかなりの深手を負わせたまでは確認できている。

 だが首が上がらない。

 光秀は歯車の狂いを感じているが顔色ひとつ変えない。

 一喜一憂しても仕方がない。

 心の中に焦りのない戦さなどは無い。

 一万の兵でしらみつぶしに町屋の一軒一軒を当たり、探索の網を絞りつつある。

 やがて網にかかるはずだ。



 …夜明け前に時を遡る。


 明智軍本隊はおいさかを越え沓掛くつかけで腹ごしらえをした。

 桂川の手前で細川藤孝の手勢三千、坂本城からの明智軍二千と合流し、一万三千となった。

 作戦は緻密に立ててある。

 光秀本隊三千が本能寺を攻めた。

 一万の兵は本能寺を中心として京の町に二重の包囲網を張った。

 信長は天才である。

 最悪の事態も想定している筈だ。

 光秀の思惑を越えた事が起きたとしても信長だけは絶対に討ち取らねばならない。

 そのために一万を包囲網に割いてある。


 本能寺の敷地は東西に一町、南北に二町。

 京の寺としては小規模だが、それでもかなりの広さがある。

 信長が二年前に改修した「寺という名の城」である。

 水堀を幅五間半、深さを二丈にした。

 土塁を築き木を森の如く植え、石垣と塀を持つ要塞になっている。


 安土城や岐阜城では、信長は地下道や渡り廊下を作って利用している。

 その事も光秀達は軍議で織り込んである。

 三十人の小姓衆だけで入洛できたのは秘密の脱出路があるからだと読んでいる。

 二条御新造や妙覚寺でなく、防衛機能の劣る本能寺にしたのは理由があるはずだ。

 本能寺にはそれなりの備えがあるだろうと作戦を練った。

 東に四十間のところにある三階建の南蛮寺には最も厳重に見張りを立ててある。



 …卯の上刻に時を遡る。


 信長は不穏な響きで目覚めると同時に、寝床の中から怒鳴った。

「お乱、人馬の音にあらずや!」

 あたりはまだ暗い。

 不寝番を勤めていたのは乱丸と彌助だ。

「勘九郎(信忠)の謀反か?」

「さようかもしれませぬ!」

 信忠は家康の接待役兼監視役として堺にいた。

 一昨日の二十九日、家康を置いて突然妙覚寺に入っている。

 信忠には機密は知らされていない。

 家康の術中にはまって体良く返されたのだ。

 妙覚寺には五百人の信忠の手勢がいる。

 普段から持っていた不信感が信長の中ではさらに増長している。


 一方の光秀とても信忠の動きまで把握できていなかった。

 信忠に並の理性があれば家康から離れられる訳がないのだ。

 妙覚寺は本能寺の北に六町離れた二条御新造の隣にある。


「皆を叩き起こせ!!」

 本能寺の中央北端には信長の公務のための主殿がある。

 主殿を挟んで西端に「常の間」と呼ばれる信長の寝所があり、東端に厩屋がある。

 厩屋に宿泊している供回り衆に向かって彌助が駆け込んでいく。


 四半刻の猶予もなく、本能寺は水色桔梗の旗に取り囲まれた。

 供回り衆達は普段も本能寺に詰めている。

 緊急事態の対応は当然の事、寺の隅々まで熟知している。

 しかし、全員が「午の刻」に光秀の「馬揃え」があるとしか聞いていない。

 信長でさえ光秀の裏切りを予期していなかったくらいだ。

 まして家中で最も誠実だと思われている光秀である。

 水色桔梗の旗を見ても供回り衆の動きは鈍かった。


 表門は開いていた。


 いとも簡単に明智本隊が雪崩れ込んだ。

 利三と左馬助は精鋭一千を率いて信長の寝所へ急ぐ。


 ーーー火をかけられる前にお屋形様の生首を取る。

 敵はたかだか五十五人。

 屈強揃い、といっても鎧も付けてない。



「是非に及ばず!」

 信長の一声を合図に小姓衆は防戦をやめた。

 信長の寝所、本殿、客間の順に手分けをして油を撒きはじめた。

 三十人の動きは素早い。

 しかも鉄砲の弾が当たろうが、矢に射られようが御構いなしだ。


 信長は深手を負っていた。

 槍の名手、安田作兵衛に喰らわされたのだ。

 森三兄弟と高松虎丸そして彌助が信長の盾になって寝所に消える。

 奥の部屋から順番に火がつけられて紅蓮の焔が上がる。

 利三と左馬助は今一歩のところまで迫っていたがあまりの火勢に踏み込めない。


「彌助!先に走れ!」

 炎の中にいる信長の声が聞こえた。

「妙覚寺の勘九郎に『逃げよ』と伝言せい!」

 (妙覚寺の勘九郎じゃと。信忠様が妙覚寺に?)

 利三は左馬助を残して急ぎ本陣の光秀へ引き返した。



 利三が本陣に辿り着いた刹那、仕舞屋(しもたや)(庶民の小さな町屋)三軒から次々と炎が上がった。

 仕舞屋は本能寺の北西側に隣接している。

 その時は、光秀も利三も仕舞屋三軒へ類焼したと思った。


 本能寺は建物全てが燃え付きるような勢いで燃え上っている。

 境内には森のような樹々がある。

 さらに土塁、内堀、それに城壁のような塀がある。

 だが、信長の寝所だけは異常に塀に寄っている。

 塀との間には間に樹々がない。

「常の間」(寝所)からの飛び火と誰もが思った。

 だが、左馬助は違和感を覚えた。

 昨日までは大雨だった。

 瓦葺きでない仕舞屋はグッスリと水を含んでいる。

 燃え落ちていく寝所を叩き壊してすぐに調べた。

 信長と四人の小姓の遺骸らしきものの気配すらない。


 床の間があったと思われるところに抜け穴らしいものを見つけた。

 抜け穴は下までは一丈半程掘ってあった。

 降りてみる。

 人一人が通れるくらいの通路が続いている。

 西に向かっているが鉄の頑丈な扉が閉まっている。

 ビクともしない。

「 外からせまろうぞ」

 抜け道は寝所から堀川通りを挟んで北西の町屋に続いているようだ。


 嫌な予感が当たった。

 先程炎が上がった仕舞屋だ。

 途中には水深二丈の内堀がある。

 しかし、よく見ると地下道にあたる部分だけ水深が浅い。

 その上に橋を掛けて巧みに隠してある。

 (さすがじゃ)

 左馬助は燃える仕舞屋へ踏み込んだ。

 燃えているので痕跡は見つからない。


 一刻かけて根気よく三軒の仕舞屋を探索した挙句、ようやく抜け穴の入り口を探し出した。

 この仕舞屋を拠点に抜け穴が掘られているようだ。

 抜け穴は北に向かっている。

 五間奥まで入った所に鉄格子の柵がある。

 その手前の三間くらいには撒菱まきびしが撒かれている。

 毒が塗られていた。

 いきなり三人がやられた。


「突破せぬ事には拉致(らち)が開かぬ。

 小弥太を呼んでまいれ!!」

 石谷(いしがい)小弥太は土遁を専門とする甲賀の中忍だ。

 斎藤利三の遠縁でもある。

 戸板を撒菱の上に敷いて調べ始めた。

「この鉄柵を除けると天井が落ち、穴が塞がる仕掛けになっておる。

 しかも鉄格子の周りは五尺幅の石垣で厚く覆われておる。

 取り除くのにこの一箇所だけでも半日は掛かろう」

「うむ。さすがお屋形様じゃ」

「おそらく、これを突破しても次の関門までには分かれ道が四つ五つはござろう。

 偽の分かれ道はどこかで行き止まりになっておる。

 この初手の柵は警告のようなものでござる。

 途中には落とし槍、毒針、毒糸などいろいろな細工がしてあるはず。

 火薬の匂いもする。

 埋め火などの火遁もござろう。

 殺傷と抜け穴を塞ぐのを目的としたものでござる」

「時間はいかほどかかる」

「抜け穴の規模がわからぬので何とも。

 この関門四つぐらいの規模だとして、運が良くて二日。

 運が悪ければひと月、死人は数百出るかも知れぬ。

 相当手の込んだ抜け穴でござる」

「わかった。

 取り敢えずこの鉄柵外しからやってみてくれ。

 心してな」

「火遁の安田作兵衛も呼んでくれ。

 いち早く殿に上げて大所高所から打つ手を考えた方が良いぞ。

 おそらくこの抜け穴から逃げておる・・・」



 …彌助は狭い抜け穴の先頭を這うように走っていた。


 その後を乱丸と坊丸が信長を庇いながら続く。

 力丸と虎丸は殿(しんがり)を勤め、要所要所で鉄の扉を閉めては土嚢を積み上げていく。

 先頭の彌助が三つ目の町屋に着いた時には信長達とはかなり差ができていた。

 彌助は目立つのでここからは別行動をとった。

 三つ目の町屋から表に跳び出すと、思いっきり町の中を突っ走った。

 以外と何の抵抗もなく妙覚寺に駆け込む事ができた。

 誰が見ても異様な風体だったが、迫力が凄かったおかげかもしれない。


 信忠はまだ寝床の中だった。

「光秀殿ご謀叛!

 お屋形様からのご伝言にござります」

 彌助はこの緊急事態の瀬戸際でも、焦る事なく流暢な日本語で続ける。

 どうやら只の黒人奴隷ではない。

「『逃ぐるべからず。妙覚寺では防げぬゆえ、急ぎ城郭たる隣の二条御新造へ移れ!』

 とのことでござりまする」


 彌助の口から出た言葉は信長の指示とは違っていた。


「天下布武」は彌助のこの一言に寄って終焉を迎えた。

 織田家の嫡男の命が繋がっていれば歴史は変わっていた事に信忠は気付かない。

 昨夜南蛮寺での礼拝の後、彌助は宣教師のオルガンティーノから詳しく指示を受けていたのだ。

 織田の天下を終らせようとしていたのは家康だけではない。

 信長は次の一手を打とうとしていた。

 切支丹布教の裏にはイスパニアの黒い影がある事を見抜いている。

 オルガンティーノも身の危険を悟っていた…。



 …信長一行五人は四つ目の町屋にたどり着いた。

 その夜、一行を出迎えた出来事は誰も予期せぬ事だった。



 

一町(109m)

二町(218m)

五間半(10m)

二丈(6m)

四十間(72m)

卯の上刻(午前5時前)

六町(654m)

四半刻(30分)

一丈半(4.5m)

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