⑬第一部 第四章 本能寺の変 一節 日(にっ)そくの日
信長が答えている。
「ほほう、三職をご推任とな。太政大臣、関白、征夷大将軍のどれぞ一つ選べとな?」
「如何でござりましょう」
…天正十年六月一日(1582年6月20日)。
関白、一条内基の挨拶の後、信長に親しい太政大臣、近衛前久が話をはじめている。
この日、本能寺の北端にある主殿で大茶会が催された。
招かれた公家は四十名。
関白、太政大臣をはじめ高官公卿のほぼ全員である。
「お屋形様、未の下刻になりまする」
彌助が流暢な日本語で告げた。
信長お気に入りの黒人の大男だ。
身の丈六尺二寸、昨年の二月にイエズス会宣教師ヴァリニャーノから譲り受けた。
頭が良く機転が利く。
安土から引き連れて来た屈強の小姓衆三十名に入れている。
「おお、『日そく』が始まるか。
雨もまた一興。
実はわしの生まれた時も日そくでしてな。
日そくには特別の興味がござる。
ささ、廊下にて空をご覧ぜよ」
昨日は九日晦日の五月二十九日(6月19日)。
(月をもとにしていた太陰暦では三十日ある大の月。
二十九日しかない小の月の二つの月があった。
小の月の最後の日は九日晦日と呼ばれた)
信長は土砂降りの中を安土から入洛し、申の刻に本能寺に入っている。
天頂から西のあたりが薄雲を透して丸く明るい。
やがて日食が始まった。
空が俄かに暗くなリ、やがて薄闇が訪れた。
京では六割程の部分日食が起こっていた。
「日そくじゃ!」
「日そくじゃ!」
公卿達が扇子で口元を隠しながらざわめいている。
信長が寸分たがわず日食を予測した事にも驚きを隠せない。
「三島暦では日そくが判っておったが京暦はさにあらず。
陰陽寮も遅れをとりたり。
セミナリオでは刻限までも当てでござるに。
暦は南蛮のグレゴリオ暦が最も進んでおる」
頃合いを見て森乱丸、坊丸、力丸の三兄弟と高松虎丸、落合小六郎が現れて大声で案内をする。
いずれも歳は若いが堂々たる体格だ。
一目で剛の者と判る者達である。
一騎当千。
僅か三十人で本能寺に乗り込んだのも無理からぬ若者達だ。
そこに彌助もいる。
小姓衆の迫力たるや尋常ではない。
「次の間にお越しくだされまし」
「お屋形様が長年に亘ってお集めなされた茶道具のご披露にござる」
「どうぞごゆるりと。
島井宗室殿がご案内くださりますれば、ささ奥へ奥へ」
小姓衆達が大広間の襖を一斉に開く。
三十八種の茶道具が飾られていた。
「一品で城一つに値する」と言われた「九十九髪茄子の茶入」などの名品がずらりと並んでいる。
日食、三島暦、茶道具、そこに屈強な小姓衆。
言葉こそ丁寧だが信長のもの言いには脅迫感がある。
信長の演出勝ちである。
ようやく茶会となったが、公家衆にさらなる衝撃が走った。
信長が使った茶入れは「九十九髪茄子」をはるかににしのぐ名品だった。
明国王が代々寵愛し、国王の証しとも言われるものだ。
その茶入れが何故か信長の手中にある。
元来、暦は天皇の専権事項である。
京暦から三島暦への変更という難問の上に、正親町天皇譲位、安土城御幸までほのめかされた。
信長は資金援助の陳情にはいつものように機嫌良く丁寧に応じた。
だが、三職推任という最高の手土産には見向きもしない。
酉の刻(午後6時)を過ぎて公卿衆はようやく帰途に着いた。
空の色はまだ明るかったが、気位だけが頼りの者達には不安に満ちた暗さが広がる。
胸の内は日食の薄闇よりも暗かった。
公卿衆の思いをよそに信長の頭の中は既に明日のことに切り替わっている。
…ひとまずはこれで良い。
潜んでおった伊賀の忍びが堺見物をしておる三河殿に伝えよう。
もはや明日は茶会の招きに来ざるを得まい。
午の刻(正午)が楽しみじゃ。
独特の陰にこもった公家の臭いが身体にまとわりついているようだ。
冷水で体を清め、白麻の夜装に着替えるとさっぱりした。
雨は上がった。
信長は酒を飲まない。
庭に降りて夏の夕暮れの風情を楽しんだ。
木々の緑がみずみずしく艶やかだ。
木斛の大木に白い花が咲いている。
長い楕円形の葉のあちらこちらの先端には小さな水玉をつけている。
合歓の花は可憐で優しい。
ふんわりと開いていたのにもう葉も閉じて眠っている。
日輪に敏感な花なのだ。
やや大振りの花を幾百と薄紅色に咲かせていた槿も閉じている。
明朝は落ちているのだろう。
…槿花一朝の夢……。
今朝見た槿の花は明日の朝は咲かない。
安土城から以外な早馬が来た。
「本日未の下刻、百々(もも)のお方様、男子ご出産にござりまする。
お目出度く存じ上げます」
「生まれたか!
でかした。なんと、日そくの刻とは!
日そくは特別の力を持つと聞く。
たのしみな子じゃ」
「重ねておめでとうござりまする」
「ん!・・・」
木斛の葉先についていた水玉が透明な光を帯びて庭石の上に落ちた。
勢いよく弾ける。
「そちの名はなんと申す」
「篠原一孝でござりまする」
「ぬしが篠原一孝か。又左から聞いておる。
なるほど良き面構えじゃ」
「過分にござります」
未知への閃きがあった。
「お乱!紙と筆じゃ!」
信長は奥の間に消えた。
一孝は主殿の謁見の間に案内された。
森坊丸が抹茶を運んで来た。
赤楽茶碗にたっぷりと薄めに点ててある。
松風を飛ばして喉が渇いていた一孝は一息で飲み干した。
爽やかで甘く感じた。
「利休様のお好きな赤楽にござります。
お屋形様が今宵は祝いゆえにと…」
風鈴の音が遠くから聞こえる。
房丸の言葉の余韻が消えない内に、涼風と共に信長が白衣のままの姿で謁見の間に現れた。
…「利長に渡すが良い。命名である」
六尺二寸(188cm)
未の下刻(午後3時30分)、申の刻(午後4時)