⑪第一部 第三章 第六天魔王 三節 五つ目の書簡
一 平安楽土
志乃を鳥居峠に届けたその年、蔦屋宗次は足繁く佐平の元へ通った。
ひとつは志乃を案じる母親の琴から預けられた身の回りの品を届けるため。
ひとつは懐かしい主君に会うため。
縁側で佐平と宗次が十三夜の月を眺めている。
忍び小屋は鳥居峠の隠れ里になっている。
「二公一民という税では収穫の三分の一しか百姓には残らぬ」
「佐平様の仰せの通り。
兵役や雑役にも駆り出されます」
「長雨、冷夏、日照り、そこへ戦さで田畑を踏みにじられる」
「戦さには莫大な金がかかります」
「それを民百姓から絞り取るという悪しき仕組みが、この百年を超える戦乱の世で染み付いてしもうた」
「遠い遠い昔の方が民にとっては良かったのでは?
いったい人の世は時を経る事で良くなっているのでしょうか?」
「良くなっては…おるまい…」
「やはり……」
「武士や公家どもはこの世の寄生虫と言わざるを得まい」
「皆が佐平様のように刀を捨て、鍬を持って働けば飢饉の年とても飢えずに済むかも知れませんぞ」
ふと思い出したように佐平が、
「戸沢白雲斎様から何か聞いておらぬか?」
「そう言えば、わが国の遥か昔の時代には『戦さの無き世』がなんと一万年以上も続いておったそうでございます」
「太古の方が幸せであったということか?」
「それも一万年もの間ですぞ」
「吾等は欲に目が眩んでどこかで道を間違えたのかもしれぬ」
「『戦さのなき世』にまずはなんとか戻したいものでございます」
十三夜の月のもと、松虫や轡虫が調べを奏でる。
チッチイ、チンチロリン、・・・・・・
ガシャ、ガチャ、ガチャ、・・・・・・
佐平は十三夜の月ごと盃を飲み干すと、
「『天下布武』によってか?」
「『天下布武』も狂い始めておるようでござる」
「ふむ」
「信長公は天下統一の後はイスパニアと組んで明まで制覇する、と嘯いておいでとも…」
「ほほう。唐入りの裏にイスパニアの黒い影ありか?」
「『終わり無き戦さの世』には民に安らぎはございませぬ」
「そうじゃ。
君主は民が安らかに暮らせるためにある。
おぬしも商人になって変わったのう」
「変わりました。世の中の見方が随分と」
「もう人を殺める事をわしはしとうない」
「今の世は人殺しが英雄ですからな…」
「世の人の頭の中が皆狂っておる」
「何かに操られているようで…」
「少し頭を冷やせば気づけるのだが、渦中にいるとこれがなかなか難しい」
リーン、リリーン、リーン、リリーン、・・・・・・・
今度は鈴虫の大合唱が始まった。
「叡山から早六年ですぞ」
「今は昔。早いものだ」
「秋の夜長にこのような深山で佐平様と酒を酌み交わしつつ、こんなお話をする時が来るとは。
神仏のお導きでございましょうか」
「であれば良いが…」
「神仏は他国への侵略を許すでしょうか?」
「それは許すまい」
「我が国の民はまた戦さに駆り出され年貢をむしり取られますな」
「他国の平和とて掻き乱される」
「民の安寧を護れぬ者は君主の資格はありますまい」
「その事をあの時はわしも忘れておった」
「『天下静謐』の資格を信長公はもはや失われたのでしょうか?」
「魔が刺したとみておる」
言葉の重みを噛み締めるように、宗次は四阿山の清気を大きく吸い込んだ。
そして、ゆっくりと吐きながら、
「義昭様に裏切られて、あれだけ尽くしておいでだった室町幕府も潰しておしまいになった」
「お屋形様が好んでした事ではないようだが」
「将軍家を諦め、今は、朝廷を柱とする『天下静謐』のようですが?」
「できまい」
「勤皇に向いて随分と熱心にされておいでですが…」
「勤皇も怪しいものだ。
足利義昭殿よりも朝廷の方がたちが悪い」
「信長様は叡山から変わってしまわれた」
「平清盛を見ると良い」
「奢る平家は久しからず…で?」
「叡山に弓を引いた者の末路であろう」
「何の罪もない孫の安徳天皇まで、わずか八歳で三種の神器と共に海の藻屑となられましたな」
「哀れという言葉ではとても足らぬ…」
…その前年、つまり天正四年(1576年)の正月中旬。
信長は近江の海(琵琶湖)東岸に突き出た安土山に空前絶後の築城を始めていた。
…三年後の天正七年(1579年)五月。
山頂(199m)に地下一階、地上六階の黄金に輝く安土城が完成した。
「天主」と呼んだ塔の高さは石垣を合わせると十五丈もある。
天主閣には西洋式の「吹抜け構造」が地下一階から地上三階の天井まであった。
そこには「宝塔」が置かれた。
宝塔は須弥山、つまり宇宙の中心を表現している。
通常の塔建築は芯柱によって可能となっている。
信長は芯柱を使わず中心部にわざわざ吹抜け構造を作り、そこに「須弥山」を置いた。
安土城の天主閣の斬新さは七階建の高さばかりではなかったのだ。
それまでのものは「戦闘」を目的とした「櫓」の延長の塔であった。
この天主閣は「戦闘を第一義としない城」である。
地上一階から三階までは大広間、四階は納戸、五階六階は信長の居住空間として使われた。
信長は平和の象徴である安土城を「天下静謐」成就の証とした。
五階は法隆寺の夢殿を模した八角形で朱を使って装飾した。
最上階は黄金を内外に鏤めて外壁には群青もあしらった。
この時代の群青は金より高価である。
金碧障壁画は狩野永徳が精魂を込めて描いた。
屋根にも金箔瓦が使われ鯱鉾も鬼瓦も黄金が用いられた。
規模、威圧感、華麗さに加え、キリスト教様式まで組み入れた度肝を抜く建築物だ。
天主閣の下にある本丸御殿は天皇を招聘するための清涼殿である。
御幸の御間と呼んだ。
その下には本格的な大伽藍と三重の塔を持つ摠見寺を配した。
摠見寺からは「天主」を否応無しに拝ませるように造られている。
城下には木造三階建の南蛮寺(教会)、セミナリオ(神学校)も設立された。
諸国から才能ある武家の子弟二十五人が入学した。
イスパニア語、ラテン語、地理、天文学、音楽などを学んだ。
ヴィオラやオルガンが奏でられ聖歌の美しい調べも流れた。
有力家臣や大名の家族も住まわせた。
中山道を安土を通るように変更し、琵琶湖の水運と合わせて水陸の交通の要とした。
楽市楽座が賑い、政治・経済・宗教の三権力を掌握した史上初の本格的城下町が完成したのだ。
その姿は宣教師を通じて大航海時代の世界に名を轟かせ、日本は「黄金の国」と呼ばれた。
それまで膝を屈しなかった武将達の中からも跪く者が多く出た。
城の偉容をもって、戦わずして勝ち、民を治めたのだ。
「天下布武」が成した理想郷。
神道をもとに、仏教・道教・儒教・そしてキリスト教を統合して天道思想を具現した。
「平安楽土」の地………「安土」である。
算木積みによる高石垣の上に天守ならぬ天主閣が聳え、城の元には城下町が形成された。
以降の日本の城下町は安土が手本とされた。
…信長は自らを「第六天魔王」と呼んだ。
二 天変地異
ヨモギはふと北の空を見上げた。
赤と白の光の筋が揺れている。
「空が燃えとる。えらいこっちゃ!」
…安土城が完成してから三年後の天正十年二月十四日(1582年3月8日)の事だ。
草や土の匂いがヨモギには一番しっくりくる。
初春の湿り気を帯びた空気に身体が柔ぐ。
その日は野良仕事もはかどった。
とっぷりと暮れたのに、時を忘れて甲賀の郷で鍬を打った。
星が見える頃になってようやく家路につこうとした。
なんと、北の空が燃えている…!
鍬を打ち捨てると中忍の高峰寛助の家へ走った。
高嶺家は代々天文に詳しい家柄だ。
勘助はもう五十を越えている。
忍びの技はこれといって抜きん出たものは無い。
あるとすれば面倒見が良い事だ。
若い者たちから慕われている。
近くの甲賀衆達がすでに十数人集まっていた。
「ヨモギ、遅えぞ!」
「くノ一」の楓に尻を軽く叩かれた。
ヨモギより三つ年下で、十六になったばかりの色白の娘だ。
顔立ちが整っていてヨモギと比べると見た目は数段品がある。
「すっ、すまねえ。
畑に夢中になっとった…」
純情なヨモギの顔が赤くなっている。
「でもヨモギの出番は無いやろから心配せんでもええで…」
「いかん、いかん。若いのう、おぬしらは。
楓!、『決めつけは命とり』と習うておろう」
楓は手で口を押さえた。
「どのような時とて何があるかもしれぬ、という心構えを忘れてはならぬ」
世話好きの勘助は二人を可愛がっているようだ。
「ヨモギは顔に出ておるぞ。
おぬしは純情すぎる。
楓は歳上をからかうでない」
楓は一向に気にする様子もない。
「ところで吉兆ですやろか。それとも・・?」
「少し待て。わしも今まで見た事がない。
ご先祖からも伝え聞いた覚えもない。
それよりもおぬしらは空をようく見ておってくれんか」
北の空では未だ変わらず赤い帯が揺れている。
「妖気じゃろか?神秘じゃろか?」
次々と駆け込んでくる甲賀衆の顔が険しい。
寛助は十冊ほどの書物を必死で睨んでいる。
「あった!赤気(オーロラ)じゃ」
「セッキ???」
「能登や越後、北は蝦夷で見られた事がある。
吉兆か凶兆かはわしでは判らぬ」
「天変は必ず地に映ると言いますやろ?」
好奇心の旺盛な楓の質問攻めが始まった。
「この六月の新月の日には、『日輪が陰る』と安土のセミナリオではゆうてはるとのことですし?」
「そうじゃ。
楓は良い耳を持っておるのう。
我らとて気を引き締めてかからねば。
ヨモギ、すまぬが今から文を書くゆえ、堺の宗次様に直ぐに届けるのじゃ」
「新月といえば朔日(一日)でっしゃろ?」
「そうじゃ。
楓、とにかく文を書かせてくれんかの」
楓はまた自分の口元を手で塞いだ。
「今はそなたのお喋りの相手はできぬ。
間髪を入れずにせねばならん事ゆえな」
…翌三月。
信長の嫡男、信忠は武田勝頼を天目山で討ち果たした。
武田家は滅亡した。
勝頼の後ろ立てであった恵林寺の快川和尚までも焼き殺した。
快川紹喜は国師である。
「心頭滅却せば火も自ずと涼し」の言葉を残し、悠然とこの世を去った。
…その翌月、四月十二日の日没後。
北西の空に火柱が立った。
水平線からほぼ垂直に天頂近くまで伸びている。
それは三日ほどで消えた。
楓はまた勘助に尋ねた。
「ほうき星じゃ。
天命を心鎮めて受け入れねばなるまい」
(寛助様は何か変やで。
堺の宗次様から何かお聞きになったんや!!)
赤気の時とは違う寛助の態度に楓は前よりもぐっと不安になった。
胸騒ぎがする。
…その胸騒ぎが消えぬまま、四月十八日の夜更けにまた天変があった。
大量の流れ星が次々と落ちた。
ヨモギに聞いても何も言わない。
もともと口の重い男だ。
寛助も未だかつて見たことが無いと言うばかりだ。
ほうき星の時と同じ言葉しか言ってくれない。
赤気もほうき星も流れ星の大群も、京でも安土でも堺でも皆が見たという。
吉か凶か誰も教えてくれない。
京の都ではこの世の終わりと言って大酒を飲むものも多いと聞く。
だが、楓の心には何故か怯えがなくなっていた。
楓は覚悟を決めたのだ。
…なんとしても生き延びる。それが甲賀の忍びの証しだもの!!
三 明智百韻
光秀は愛宕山の宿坊で四つの書簡を前に並べている。
大きく腹に息を吸い込み静かにゆっくりとと吐き出した。
…天正十年五月二十八日(1582年6月18日)。
流れ星の夜からひと月後の事である。
久しぶりに親しい友と静かなひと時を過ごした。
愛宕山は五月雨の音が激しい。
連歌会の後の心は明鏡止水のようだ。
雨が雑念を洗い流したのだろうか。
二日後の六月一日、申の刻(午後4時)には丹波亀山城を出陣の予定だ。
子細は今日の信長の下知次第だが…。
出陣の準備は福知山城主の明智秀満や黒井城主の斎藤利三らの五宿老に任せてある。
光秀はこれから大きな決断をしなければならない。
そのために信仰の深い愛宕山に籠ったのだ。
…十三日前の五月十五日の事だった。
家康が安土城を訪問した。
先の武田攻略に対する「信長のねぎらい」で招待されたのだ。
あろうことか、僅か三十四名の手勢だけである。
しかも全員が重臣だ。
もし闇討にでも会えば徳川家はこの世の露と消えてしまうだろう。
…ひと月前の四月。
信長は「甲州征伐」を済ませると、甲府からの帰国のついでと称して駿河、遠江、三河を見て回った。
十日余りもかけた。
家康は徳川家を挙げて接待をした。
その礼でもある。
…はるばると浜松からの訪問だ。
接待役を任されたのが、織田家中ではこの人を置いて他にはないと思われた明智光秀である。
到着後、間もなく出された「おちつき膳」は五つの膳に菓子まで加えての三十二品。
「鯛の焼き物
生あわび
鰻の蒲焼
鱧
鴨汁
渡り蟹
まな鰹の刺身
鶴汁
近江の鮒鮨
鯉の汁
なまこ等々・・」
もてなしには安土城天主閣の二階の座敷があてがわれた。
花鳥の間や賢人の間などの普段は大名を謁見する部屋を大広間として使った。
天主閣は地下一階から地上三階までは中央の四十八畳の部分がが吹抜け構造になっている。
二階の座敷はその吹抜けを取り囲むように配置されている。
さらに、吹抜け空間の西北隅には信長が「敦盛」を舞う八畳の舞台が張り出している。
家康一行は地下一階に安置されている「宝塔」を見降ろしながら饗応を受けた。
十五、十六の両日だけでも全国各地から至高の食材が百二十品も集められた。
贅の限りを尽くした料理である。
準備万端怠りなく、事はつつがなく進んでいた。
その筈だった。
…ところが十七日、 信長が突然腹を立てた。
「支度、行き過ぎ也!」
もの凄い勘気だ。
信長は光秀を二の丸御殿の隠し部屋に呼びだし、外にまで聞こえる大声で罵倒し足蹴りまでした。
城の中が騒然となる。
折も折、備中高松城で毛利攻めをしている秀吉から信長に加勢を哀願する使者が訪れた。
間髪を入れず光秀は接待役を解任され、中国攻めの応援に加わるように命令が出された。
光秀はその日の内に琵琶湖のほとりにある坂本城へ急ぎ帰った。
坂本城は第二の本拠地だ。
叡山焼討ちの功により与えられた城であり、織田軍団の要衝でもある。
近江の国滋賀郡は光秀の初めての領地だった。
その後丹波一国二十九万石が加増されて、三十四万石の城持ち大名になった。
坂本城に着くとすぐに文をしたためた。
光秀の配下にある大和の筒井順慶と丹後の細川忠興に早馬を出した。
中国攻めの指示書である。
次に明智の五宿老に二十二日に軍議をする旨の指示を出し、急ぎ戦さ仕度を始めた。
…二十一日、丹波亀山城に帰城。
腹心の斎藤内蔵助利三と戦略を練る。
二十二日、集結した五宿老と一度目の軍議。
細かな分担と手筈の確認をした。
…二十七日の昨夕のこと。
未だ十五歳の嫡男十兵衛光慶他、側近六人を連れて愛宕山に参籠した。
宿坊にある光秀専用の一室で寛いだのは酉の刻(午後六時)を過ぎていた。
まだまだ空は明るかった。
もう夏至なのだ…。
愛宕山は亀山城に近い。
愛宕神社は裏では戦費の融通までしてくれている。
戦勝祈願と戦費調達のために籠るのが出陣前の光秀の恒例なのだ。
…今日、二十八日は西坊威徳院で住職の行祐が主催してくれた連歌会に参加した。
戦勝祈願のための連歌会である。
百句を無事奉納し終えたのはつい今しがたの事だ。
「ときは今 あめが下しる 五月かな」
・・・雨がよく降ることよ。今日は皐月という梅雨どきなのだから。
光秀が発句を読み、住職である行祐が脇句、里村紹巴の第三句で始まった。
結局、光秀が十五句、紹巴が十八句、行祐が十一句、光慶と老臣の東六郎兵衛行澄が一句づつ、集まった親しい九人で百句を詠んだ。
後に「明智百韻」と呼ばれる。
結句は長男光慶の一句である。
「国々は猶のどかなるころ」
・・・戦さが終わり国々に平和な日々が続きますように
四 三河征伐
四つの書簡の内のひとつは湿り気を帯び上質な墨の薫りが漂わせている。
それは連歌界の第一人者である里村紹巴から、たった今受け取ったばかりだ。
亀山城を空けてわざわざ参拝したのは祈願や金策のためばかりではない。
連歌会に託けてこの文を受け取るためだった。
藤原氏嫡流の五摂家・太政大臣、近衞前久からのものである。
「・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
御綸旨の件順調なり
・・・・・・・・・」
ーーー御綸旨を賜る確たる日とて書いておらぬ。
今この時こそわが手の中に「信長追討」の御綸旨が必要ではないか。
人を焚き付けておいて未だに様子見をされるのか…。
正親町天皇はそういうお方ではない。
御綸旨は前久公の懐には既にあるのだろう。
前久公も狡いお方達に囲まれ身動きが取れぬのか。
それとも…。
それとも…?
わしは権力に棲む幻妖達に振り回されたか?
覚悟はしていたが光秀の失望は大きかった。
一一一「今上天皇の御綸旨」があれば事を起こした後に無駄な戦さもせずに済む。
多くの人の命が助かるのだが…。
千年に亘ってこの国を治めてきた一族達だけのことはある。
公家という生き物は老獪で喰えぬ。
大事を成すには所詮組むべき連中ではない。
御綸旨無しに事は起こすべきでもない。
…第二の書簡は秀吉からのものだ。
昨日の深夜、戸を叩く微かな気配と共に外から「ヨモギ」という声がした。
光秀は「青楓が美しいのう」と呟いた。
今井宗久の下人、蔦屋宗次から言い含められていた合言葉だった。
戸襖の隙間からスーッとこの書簡が差し込まれた。
「 ・・・・・・・・・
五月二十日、天祐有りて水攻め成る
お屋形様お迎えの儀、恙無し
・・・・・・・・・」
ーーー羽柴殿には底知れぬ力がある。
つまらぬ愚痴ばかりの書状に見せているが肝腎はこの二行だ。
毛利方は二万の援軍を差し向けたと聞いておるが。
この様子だと外交僧である安国寺恵瓊殿を取り込み、実権を握っておる小早川隆景殿にまで算段をつけておるのかもしれぬ。
備中高松城までの街道の石ころまで拾って、お屋形様のお出ましを乞うような猿芸はわしには到底できぬ。
厚顔な男よ。
ところが厚かましいだけではない。
あの日は計ったように救援依頼の早馬を安土城に寄越しおった。
諜報網と実行力、針の穴さえ通すような緻密さ。
さらにこの文は奪い取られても如何様にでも申し開きができる。
これも食えぬ。
羽柴殿ならば公家どもも難なく手のひらの中で転がせるかもしれない。
…三つ目の書簡を開く。
「・・・・・・・・・
大事の件差し急がれたし
・・・・・・・・・」
長曾我部元親から斎藤利三への手紙だ。
四月の文だが、わざわざ光秀が愛宕山まで持参してきたものだ。
腹を決める前にもう一度読んでおかなければならない大きな意味のある書簡なのだ。
長曾我部元親の正妻は斎藤利三の義理の妹である。
利三は光秀の甥であり黒井城主を任している。
義を重んじ情に厚く最も信頼がおける。
娘婿の明智左馬助秀満と共に明智家の筆頭家老を勤めている。
信長は元親との交渉を光秀に任せた。
だが実際に汗を流し親身になって今まで話をまとめて来たのは斎藤利三である。
信長包囲網に苦戦をしている頃は、信長は「四国切取自由」の朱印状を元親に出した。
元親は四国全土を制圧する寸前まで漕ぎ着けた。
ところが一昨年の本願寺顕如との和睦から雲行きが怪しくなった。
今年の三月に武田が滅亡すると信長は元親との約束を反故にした。
その時から光秀の中に明確な信長への不信感がくすぶり始めた。
・・・・・律儀で誠実だったお方が、何故?
この五月七日には「四国征伐」を決定した。
明後日の六月二日(6月21日)に四国に渡海するべく、一万四千の兵が続々と摂津に集結している。
総大将の三男、信孝は既に安土城を出陣した。
明日には大坂の住吉に着陣予定との知らせが光秀の耳にも入っている。
ーーー元親殿は駆け引きのない剛の者。
母御も美濃・土岐氏の同族ではないか。
人柄でも最も信頼できる。
今は元親殿がお屋形様と争っても勝目は無い。
土佐一国と阿波二郡で我慢されるよう利三を通じて説得をしてきたが、元親殿がそれを飲んだところでお屋形様は先々は四国を渡されまい。
お屋形様は正義感が強く、「天下静謐」のためにひたすら尽くしてこられた。
元親殿との約束を一方的に反故にするようなお方ではなかった。
この度の「四国征伐」は以前のお屋形様とは別人のようだ。
明智、斎藤、長曾我部は同じ一族で一蓮托生だ。
さてどうしたものか…。
…第四の書簡は信長からの命令書だ。
連歌会の途中で届けられた。
安土からの早馬だ。
愛宕神社の宮司に「急ぎの儀に非ず。森乱丸様より明智様への書状、よしなに」と言って届けられた。
急がない、と言われても相手は信長だ。
豪雨の中すぐに威徳院に届けられた。
光秀にはおおよその事は検討がついていた。
ーーーやはりな。
六月二日を「画龍点睛の日」とお屋形様は呼んでいた。
予定通りだ。
三河殿をわしに討たせるつもりだ。
「接待の事大義
三河殿ご機嫌上々
九日晦日に小姓三十人のみで上洛す
朔日、未の上刻より茶会催す
日そく楽しみ也
馬揃えは二日、午の刻、本能寺也」
ーーー二日午の刻(正午)に三河殿を討てとある。
お屋形様は明日本能寺に入る。
翌六月一日に公家達を呼んで大茶会をする。
それは三河殿を誘なうための呼び水にすぎぬ。
六月二日正午に馬揃え。
その後三河殿饗応の締めくくりとなる「もてなし茶会」。
朔日の「 日そく」が楽しみじゃと?
われらもその頃に亀山城を出陣する予定だが…。
「日そく」は吉か凶か…?
「ホ、フォ、チッ、チ、チ、クエッ、クエッ」
遠くで山鳥が鳴き出した。
どうやら雨が上がったらしい。
一一一日時と場所、人数まで書いては不用心極まりない。
不用心といえば、本能寺は意外だ。
京でのご宿泊はたいがいは妙覚寺か二条御新造。
防衛能力が落ちる本能寺のご宿泊は珍しい。
何故本能寺に?
愛宕山には草の者が諸々潜んでおるのもご承知のはず。
伊賀者に知られたらどうするおつもりか。
うーむ。
「首を取って見よ!」と言わずもがなだ。
「肉を斬らせて骨を断つ」おつもりなのだ。
十七日にお屋形様から受けた狼藉も茶番。
はじめは客人や家臣の面前で足蹴にされる手筈だった。
「隠した方が真実味がある。噂が広がるのも早い」と気が変わられた。
いつものお屋形様の機転だ。
二の丸の密室を利用して騒ぎを起こして、そのまま最後の打ち合わせまでした。
羽柴殿からの応援依頼も茶番。
お屋形様の命を受けてわしが段取りした猿芝居に過ぎぬ。
すべては「画竜点睛」のためだ。
片や三河殿は?
徳川四天王と呼ばれる本多忠勝、酒井忠次、榊原康政、井伊直政の他、大久保忠隣、石川数正ら重臣と精鋭三十四人のみで来られた。
それと張り合うかのようにお屋形様は小姓衆三十人だけで上洛される… ?
三河殿も大きな賭けに出られた。
お屋形様の計画どうりに運べば六月二日に徳川は潰える。
だが、三河殿の方もそれなりの防御はしておる。
服部半蔵殿の配下の伊賀者達が物売りや坊主、百姓等に身を変えておる。
その数は百九十人と聞く。
さらに蔦屋宗次殿以下の甲賀衆もどうやら二百は動いている。
お屋形様とて甲賀衆の動きまでは知るまいが伊賀衆の事はご存知のはず。
見抜かれた上で三河殿に乗せられたと見せるおつもりか?
どちらも孫子のいうところの「死間」をわが身を以て務めるお覚悟だ。
そうなると「四国征伐」は目眩しか?
「さてさて……」
光秀は大きな伸びをすると座禅を組んだ。
山鳥がまだ鳴いている。
姿が脳裏に浮かんだ。
鳴いている主は赤っぽい褐色にまだら模様の美しい姿だ。
長い尻尾を合わせると五尺(150cm)は超えている。
不思議な事に山鳥は「三本足」に見えた。
低い声が心を和ませる。
耳を澄ましていると心の中の雑音が聞えた。
今まで見えなかったものが見えてくる。
一一一そういう事だったのか!
信孝様一万四千が摂津から四国に向けて渡海する日が同じ「六月二日」というのができ過ぎておる。
六月二日の当日に「四国征伐」を「三河征伐」に変えるおつもりなのだ!
お屋形様は三月の「甲州征伐」の頃から「三河征伐」の布石を次々と打って来た。
そして六月二日が満願の日であった訳だ。
長曾我部元親殿は今のところは当て馬に過ぎぬ!
…五つ目の書簡は白紙だった。
座禅をほどき瞑想の世界から戻ると書簡が五つに増えていた。
それも白紙の書簡だ。
宛名も署名もない。
ーーーそういえば、安土城を案内した折、本丸御殿で三河殿は横に居たわしだけにそれとなく「白壁」を褒めておられた。
壁など褒めて、とその時は思ったが…?
「白は結構でござりますなあ。
このように真白なる美しき壁は見たことがございませぬ」
「白は決行」とわしに伝えたのだ。
そして伊賀の忍びの手妻と解るように白紙の文をたった今差し入れた。
ようく考えてみると今回の謀りごとは、先に三河殿からも仕掛けている。
武田勝頼亡き後、三河殿は武田の旧臣を積極的に抱えた。
それはお屋形様が出していた禁止令を敢えて破っての事だった。
駿河を手に入れ、甲斐まで三河殿の覇権を延ばそうとしている。
三河殿はかつての信玄公以上の力を持つ。
そうなる前にお屋形様は三河殿を潰すつもりだ。
お屋形様は「画竜点睛の日」に本能寺でわしに三河殿を討たせる。
わしは三河殿の首を取った勢いで遠江・駿河まで一気に攻める。
これが「一の矢」。
「二の矢」の信孝様一万四千も続く。
お屋形様の中国攻め本体が「三の矢」だ。
さらに上野に居る滝川殿の「四の矢」まである。
毛利も上杉も長曾我部殿も向こうから転んで来る。
三河殿を落とせば「天下布武」が完成する。
羽柴殿への応援などにお屋形様はさらさら行く気は無い。
「四国征伐」も「毛利征伐」も今の時点では「三河征伐」のための目眩しに過ぎぬ。
…天目山で信忠様が武田勝頼を討ったのが三月十一日。(4月13日)
わしが細川殿と筒井殿を連れ、「甲州征伐」と称してお屋形様とともに安土を発ったのが三月五日であった。
発つ前には「甲州征伐」の勝敗は見えていた。
武田を潰すだけなら、お屋形様が出向く必要などはなかった。
細川殿、筒井殿もお屋形様からの名指しで参陣した。
帰りは「富士山見物をする」と申されて、三河殿の領地や城を隈なく我ら三人に見せて廻った。
このたびの六月二日には「本能寺での閲兵式」に与力の二人も合流せよとのご命令である。
…安土城に凱旋したのが四月二十一日。
その日わしひとりが「家康討ちの秘策」を明かされた。
お屋形様は「甲州征伐」の時にはすでに「三河征伐」を考えておられたのだ。
「甲州征伐」は名目で「三河征伐」の下調べが眼目だった。
片や三河殿は我らの通る道まで直しただけでなく城の中も全て見せた。
今になってみると三河殿は見せさせられたのではない。
意図して全て見せたのだ。
三河殿の方も「三河征伐」がある事を読んでいた。
おそらく三河殿は「信長追討計画」を立てていた。
もう三月には追い詰められていた。
そして最後にわしに白羽の矢を立てた。
だんだんより鮮明に細部までが見えてくる。
ふむ?
信玄公が殺されたおかげで一昨年にお屋形様と本願寺一向一揆との和睦が成立した。
その和睦の成立が「三河征伐」の起点だ。
信玄公は三方ヶ原で完勝し、天下が見えた絶頂の時に葬られた。
とすると、この度の事の起点は三河殿が惨敗した十年前の三方ヶ原の戦いに遡るのか?
信玄公を討ったのは今井宗久の下人と称する蔦屋宗次殿らしい…。
…蔦屋宗次とは。
あの男はいったい何者なのだ?
山鳥の静かな鳴き音が百鳥のさえずりに変わっている。
迦陵嚬伽の声のようにも聞こえる。
知らぬ間に夕陽が射している。
光秀は障子を開けた。
涼しい風に乗って山の緑と木の匂いが部屋に入ってくる。
ゴロンと畳の上に横になると光秀は気持ち良くまどろんだ。
だが悪夢を見た。
夢は比叡山焼討ちの地獄絵だった。
気がつくと油汗をべっとりとかいている。
一一一あれが起点だ。
お屋形様に気に入られて、わしは今の地位までにしていただいた。
だがあの悪夢はいまだに追いかけてくる。
叡山から十一年。
殺戮を繰り返しているうちにあっと言う間に月日が経った。
佐脇良之殿とはあれ以来、袂を分かつ事となった。
思えば清々しい方であった。
どうやらわしはどこかで道を間違えた…?
三方ヶ原の戦いの前の叡山焼討ちだ。
あの時にお屋形もわしも道を・・・・・・・。
「国々は猶 のどかなるころ」
光慶には武士の本懐は民の平安にあると常々教えて来た…。
…我が子の方が事の本質が見えているのかもしれぬ。
十五丈(46m)