008 壬生浪士組③
気がつけば、今朝見たばかりの天井……土方さんの部屋だった。朝とは反対側から差す日の光は赤みをおびていて、夕方らしいことはわかった。
「気がついたか?」
声のした方を見れば、文机に向かい、顔だけをこちらに向ける土方さんがいた。
「具合はどうだ?」
再びここで寝ていた原因を思いだし、慌てて起き上がった。頭を軽く左右に振って、目眩の有無も確認する。
「大丈夫です。もう何ともないです」
「そうか」
土方さんは筆を置くと、布団の横へやって来て腰を下ろした。一度襖の方を見るも、すぐに私へと視線を戻す。
「お前、剣術の心得があるのか?」
「いえ……全く……」
「本当か? 新見の剣を、かすり傷ひとつ負わず全部避けたんだぞ?」
「あれは……。本当に私にもわからないです」
信じてもらえるかわからないけれど、私に起きた現象を、見たまま、感じたままに全て話した。
刀が振り下ろされるその瞬間、目眩を起こすほどの強い揺れに襲われて、何も聞こえなくなると同時に全ての動きがゆっくり見えたこと。
迫る刀の軌道から外れた途端、何事もなかったようにもとに戻ったこと。
「総司や芹沢さんの剣を避けなかったのは?」
「そういえば……あの時は何も起きませんでした」
だから、あんなの避けられるわけがない。
むしろ、どうして新見さんの時だけ起きたのか。
「新見だけは、本気でお前を斬ろうとしてたな」
「そう、ですね」
今思い出すだけで身震いがする。あの目、あの感覚。確信なんてないけれど、新見さんが全身から漂わせていたもの……ああいうのを殺気と呼ぶのだろう。
つまり……。
「あの時、もしも避けていなかったら……」
「死んでただろうな」
硬直する身体でただ息を呑めば、スパーンと勢いよく襖が開いた。
「土方さん、入っていいですか~?」
「総司。もう入ってるじゃねぇか。許可を出す前に勝手に入ってくるな」
「え~、じゃあ次は入ってますって言いますね」
まるで悪戯っ子のような笑みを浮かべる沖田さんは、器用に後ろ手で襖を閉めると、土方さんの盛大なため息も気にもせず布団を挟んで反対側に腰を下ろした。
「良かった~。春くん、目が覚めたんですね」
「はい、つい先ほど。えっと、ご迷惑をおかけしました」
「気にしないでください。そんなことより、弱いだなんて言ってすみませんでした」
そう言って、胡座をかいた膝の上に両手を乗せると、勢いよくこうべを垂れた。かと思えば、今度はキラキラと何かを期待する子供のような目で私を見る。
「というわけで、今度は本気で僕と勝負をしてください」
「えっ、無理です」
「どうしてですか~? 僕が相手では不足ですか?」
「そういうことじゃなくて――」
「じゃあ、何でここにいるんです?」
好奇心の塊のような沖田さんに、どう答えるべきか困惑するも、土方さんが代わりに答えてくれる。
「こいつはな、芹沢さんが気まぐれで拾ってきただけで、本当に剣術なんて知らねぇんだよ」
「ふ~ん? じゃあ、僕が稽古をつけてあげます」
「えっ!?」
「はぁ!?」
ニコニコと楽しそうな沖田さんの申し出に、私も土方さんも揃って目を丸くするけれど。そんなことはお構いなしに、沖田さんは笑みを消すことなく言葉を紡いでいく。
「そんなに素晴らしい“心眼”を持っているのに、活かさないなんて勿体ないでしょう? それに、理由はどうあれここにいるのなら、戦う術は持っていた方がいいと思うんです」
ね? と無邪気な笑顔を携えたまま、覗き込むような視線で私に同意を求めてくる。
確かに、自分で自分の身を守れるようにはしたい。だって、ここは私のいた平和な時代ではなく、刀を差した武士たちが普通に町を闊歩する幕末だから。
いきなり斬りかかってくる物騒な人だっているかもしれない――いや、いたし。誰とは言わないけれど。
ここは沖田さんの申し出をありがたく受けるべき……と思いつつも、今朝の問答無用に竹刀を打ちつけられたことを思い出す。
一人悩んでいれば、土方さんがまたため息をついた。
「総司。お前どこから聞いてた?」
「何がです~?」
「とぼけるんじゃねぇ。気配も消さず、堂々と盗み聞きしてただろうが」
「あはは。さすが土方さんだ、やっぱり気づいてました? でも人聞きが悪いな~。盗み聞きしてたわけじゃないんですよ? 春くんの様子を見に来たら話し声がしたんで、ついそのまま聞いていただけですから~」
それを盗み聞きというのでは……。
すかさず土方さんが突っ込むけれど、沖田さんは悪びれもせず微笑んだ。
「それが目的なら、ちゃんと最初から気配を消しますよ」
「……ったく。まぁいい」
土方さんは呆れながらも慣れた様子で話を戻し、沖田さんに続きを促した。
「ん~。難しく考えなくてもいいと思うんです。殺気を感じ取ったから心眼が開いた、とか。羨ましい限りですが」
確かに……新見さんだけは毎回、本気で私を殺そうとしていた気がする。
芹沢さんは寸止めしていたから、最初から殺意はなかったはずで。沖田さんだって、単に勝負を仕掛けてきただけ……。
「試しに、本気で斬ってみましょうか?」
ふざけてなんかいない声と、射貫くような鋭い視線。沖田さんのまとう空気が、一瞬で私の全身の毛を逆立てる。
沖田さんの放つ殺気に呼吸の仕方も忘れ、やっとの思いで言葉を吐き出した。
「ッ……けっ、結構ですっ!」
「総司。あんまりからかうんじゃねぇよ」
「あはは。冗談ですよ~。春くんはからかいがいがありますね」
そう言って、無邪気に笑っている。
冗談だってわかるけれど……。
沖田総司。
パッと見、笑顔がよく似合う人の良さそうなお兄さんだけれど、やっぱりこの人も、刀を振るう人間なのだと思い知らされる。
そんな考えを読んだかのように、沖田さんが少し慌てた。
「あ~、そんなに警戒しないでください。悪戯がすぎましたね」
すみません! と再びためらいもせず頭を下げられると、むしろ私の方が慌ててしまう。
「や、あの。大丈夫ですから!」
「じゃあ、僕への警戒、解いてくれますか?」
「は、はい。わかりましたから、頭を上げてください!」
「じゃあ、仲直りの印に、一緒に稽古してくれますか?」
「はい。だから……え?」
勢いで返事をしてしまったけれど、今なんて?
「よかった! さっそく明日からでいいですか~?」
すでに頭を上げた沖田さんの顔はしてやったりという表情で、私の返事も聞かずに部屋を出ていこうとする。
「沖田さん?」
「おい、総司」
「楽しみにしてますね~」
土方さんの呼び止めすら無視して閉められた襖が、開いたとき同様に大きな音を立てる。急にしんとなった部屋に響くのは、土方さんのため息だった。
「ったく。来て早々、面倒くせぇ奴に気に入られちまったな」
「……沖田さんて、面倒くさいんですか?」
「話しててわかっただろう? 普段からあんな調子だ、あいつは。ただ……」
「ただ……?」
その顔をじっと見つめて続きを待つも、おもむろに立ち上がるなり文机へ戻っていった。
「明日、稽古行きゃわかる。自分で確かめろ」
「えっ、気になるんですが……。っていうか私、本当に明日から稽古するんですか?」
「総司に上手く言いくるめられたとはいえ、自分でするって言ったんだろ?」
「それはそうですけど……」
……まぁいいか。
ここでじっとしているより、身体を動かしている方がずっと楽しいし。それに、あの沖田総司直々に稽古をしてもらえるだなんて、これって凄いことだと思うから。
そういえば、沖田さんはあの不思議な現象の原因を、殺意を感じ取ったからだと推察していたっけ。心の眼……心眼と。
土方さんにも訊いてみれば、沖田さんと同様の返事だった。
ところで……。
「このこと、沖田さんに知られちゃって良かったんでしょうか?」
“心眼”なんて不思議な力、私の素性がバレる糸口になりそうな気がするけれど。
「結構な奴らが見てたんだ。どのみち隠し通すなんざ無理だろう」
よっぽど運がいいとか、火事場の馬鹿力を発揮したとか思われたり?
「んなことより、それ以外は絶対にバレんじゃねぇぞ。速攻で追い出すからな」
「……気をつけます」
だから睨むのはやめてください。怖いから!