064 年賀の挨拶
大晦日には年越し蕎麦を食べ、除夜の鐘も聞いた。元日には初日の出も拝んで、初詣ならぬ恵方詣りもした。
別に、寝正月がしたいとは言わない。ただせめて、三が日くらいはゆっくりしたかったぞー!
そんなことを口にした日には、どれほどの雷が降ってくるかもわからない。いや、今回ばかりは雷だけでは済まされない気がするので、心の中だけで叫んでおくことにするけれど。
年末から翔鶴丸という蒸気船に乗り、海路で上洛をしているという第十四代徳川将軍の警護を仰せつかり、新選組は二日に大坂へ下り、定宿であるいつもの京屋に宿泊していた。
船ならば陸路より到着も早いのかと思いきや、天候や潮の流れというものがあり、どうやらそう単純ではないらしい。
沖にそれらしき船もまだ見えないらしく、きっと到着まではもうしばらくかかるのだろう。
「これなら、屯所でもう少し正月気分を味わえた気がするんですけど……」
窓枠に頬杖をついた姿勢で愚痴れば、文机の前で墨をすり始めた土方さんが、呆れたような声で返してくる。
「あのなぁ。大樹公の護衛なんだから、先についてないと意味ねぇだろうが」
「それはそうですけど……。ほら、遅れるなら遅れるで連絡の一つでももらえれば、それに合わせられるのになぁ~なんて」
「船の上からどうやって連絡するつもりだ?」
そうなんだよね……。この時代、携帯電話や無線なんて便利な物はない。
いつ頃つくという大まかな予定はあっても、その通りに運ぶとは限らないし、遅れたからといって、それをすぐに相手に伝える手段もない。
遠くから来る人を出迎えるのに、待ちぼうけを食わされるのは決して珍しいことではないから、それに対していちいち腹を立てるような人もいない。
そもそも、大樹公こと将軍様に腹なんて立てたら首が飛ぶ!
頬杖をついたまま、墨をすり終えたのか、筆に持ち変える土方さんを横目で見ていた。普段は少し猫背気味の背中をすっと伸ばし、流れるように筆を走らせるその姿は凄く美しい。
「そんなにじっと見られると、書きづれぇんだが」
「え、あっ、すみません。お仕事の邪魔しちゃいましたか」
「文の内容を盗み見てたんじゃねぇのか? 文面からして仕事じゃねぇだろ」
盗み見とは失礼な! ぼんやりと土方さんを見ていただけであって、文を盗み見てはいないのだけれど。
そもそも土方さんの書くうにゃうにゃとした文字は、どう頑張っても読めないし。
「ああ、そういえば字も読めねぇんだったな、お前は」
ニヤニヤしながら言い放つ土方さんに、私も負けじと笑顔で返して差し上げた。
「土方さんの字、限定でですけどね」
笑顔で始まった静かな睨み合いは、不意に浮かんだ疑問によってあっけなく終了した。
仕事関係の文でないと言っていたけれど、つまりはプライベート? もしかして……。
「恋文ですか?」
「気になるか?」
「いえ、別に。ただ、もらった恋文を人に渡しちゃうような人が、どんな恋文を書いたりするのかな? という興味はあります」
土方さん宛の恋文撲滅大作戦は、美味しいご飯や甘味と引き換えに実行しなかったので、今でも時々、恋文をもらっているらしい。
いっそ土方さんの書いた恋文も、全くの他人に晒されてしまえばいいのに……なんて、ちょっとだけ意地悪なことを思っていたら、土方さんがふっと小さく笑った。
「残念ながら恋文じゃねぇよ。ただの年賀の挨拶だ」
年賀の挨拶? 年賀状みたいなものだろうか。
「……って、今頃書くんですか!? 届く頃にはお正月も終わってるじゃないですか」
「はぁ? 年賀の挨拶だぞ、今頃書くもんだろう。逆に訊くが、お前は正月の今書かないでいつ書くつもりなんだ?」
「十二月の末までには書き終えてポスト……じゃなくて飛脚に渡して、元旦に届くようにしますよ」
十二月も半ばを過ぎれば、年賀状はお早めに! ってあちらこちらで耳にする。決められた期日までに投函しないと、元旦には届けてもらえないから。
普段とは少し違う、ポストを開けるあの瞬間の何とも言えないドキドキは、きっと元旦にしか味わえない。
だからこそ、私も毎年元旦に届くように書いているのだけれど。
そういえば、今回は一枚も書かなかったし一枚も届かなかったなぁ……と若干感傷に浸りかけていたら、土方さんが呆れたように大きなため息をついた。
「あのなぁ。何で年が明ける前に新年の挨拶をしなくちゃならねぇんだ? おかしいだろう」
うーん、言われてみれば確かにそうかもしれない。当たり前のようにみんな年明け前に書いているから、そういうものなのだと疑問にも思わなかったけれど。
明けてもいないのに“明けましておめでとうございます”って、よく考えたらちょっとおかしいかもしれない。
「ったく、どんな生活してたんだよ」
あ、なんだか久々にその台詞を言われたような気がする!
けれども、今回は反論の余地はなさそうだ。土方さんが言うように、年明け前から新年の挨拶って確かにおかしいからね……。
そんなやり取りの翌日、沖に翔鶴丸の姿がようやく確認でき、一月八日の午後になって、やっと大樹公を乗せた船が大坂に到着した。
新選組は、大坂城へ入る大樹公を天保山から天満橋まで警護し、数日後の十四日には、今度は大坂城から伏見城に移るというので、先だって伏見城の裏手の警備に当たった。
警備中、梅の木を発見した。まだ一月だというのに少しずつ咲き始めている。
暦のズレがあるから、現代に直すと今はきっと二月の半ばくらい。そう考えると、そろそろ梅が咲き始めてもおかしくない時期だ。
ふと、あることに気づき、隣で一緒に警備に当たっている土方さんに訊いてみた。
「土方さん! もしかして、二月一日には満開ですかね?」
僅かな沈黙が落ちたけれど、私の視線をたどり、すぐに何のことか察してくれた。
「梅か。この分なら丁度満開になるんじゃねぇか」
「ですよね? ですよね!? 凄い! 初めてかもしれないっ!」
「突然はしゃいでどうした? 二月一日って何かあったか?」
「私の誕生日なんです!」
もしかしたら、誕生日に満開の梅が見られるかもしれない!
そう思ったらもの凄くわくわくしてきて、梅の木に駆け寄りそっと触れていた。
もちろん、早咲きの梅なら一月のうちから咲いていたりするけれど、いわゆる梅の名所で満開の梅を見ようと思ったら、関東での見頃は二月の下旬から三月の上旬だ。
だから、私の誕生日では少し早すぎるけれど、旧暦の二月一日なら丁度見頃になるらしい。
まだ満開ではない梅を間近で見ながら一人ニヤニヤしていると、側へ来た土方さんが、何かを思い出したように訊いてきた。
「そういえば、お前の時代では誕生日に一つ年を取るって言ってたな?」
「はい!」
「なら、お前は来月で二十歳になるのか?」
このお正月でみんなと一緒に年を取り、私も一足先に十九才になった。来月には本来の自分の誕生日が来るから、そこでまた一つ年を、取る……のか?
ん……あれ?
「ちょっと待ってください。それじゃ、私だけ一年で二つも年を取ることになるじゃないですか!」
「誕生日なんだろう? 十年も経てば四十で俺と同い年だな」
十年後には四十才!? そんなわけあるかー!
土方さんの顔がやけににやついていて、何だかちょっと腹が立つ。ちょっとばかり仕返しをしてみようと、沸き起こった反発心を隠すと、至って平静を装い口を開いた。
「ほら、郷に入れば郷に従えって言うじゃないですか。だから私も年に一回、お正月にみんなと一緒に年を取るだけです。だから、私からみたら土方さんはずっと、お――」
思わず無意識に言葉を呑み込んだ。
な、何だろう、このピリピリとした視線と空気は……。
「ずっと、何だ?」
「お、お……お?」
「怒らねぇから言ってみろ」
笑顔が死ぬほど怖いのだけれどっ!? 目が笑っていなくて、殺気すら感じるのだけれどっ!?
思わず一歩後退るも、すぐに梅の木が背中にぶつかった。そのうえ獲物を捕らえるような目をした土方さんが、無遠慮に大きな一歩で詰め寄った。
マ、マズイ、逃げ場がないっ!
いっそのこと、走って逃げてしまおうか!?
視線を外した瞬間、私のすぐ頭の上の幹にドンッと片腕をついた土方さんが、間近から私を見下ろした。
「逃げんじゃねぇよ」
「に、逃げてません!」
「逃げる気だっただろ?」
な、何でバレてんのさっ!
「言わせてやろうか?」
「え……?」
「副長命――」
「おじっ、あっ、お、おっ、大人ですっ!!」
咄嗟に叫べば、土方さんが私を見下ろしたまま盛大に吹き出した。
ま、負けた……。見事に返り討ちにされた気分だ……。
もの凄い敗北感を味わっていると、爆笑し始めた土方さんが、容赦なく私の頬をつねる。
「いひゃいですっ!」
「うるせぇ。餓鬼の分際でこの俺に勝とうなんざ、百年早ぇんだよ」
勝ち誇ったように笑いながら離れていった土方さんを睨みつけ、悪足掻きと知りながらも最後の反抗を試みる。
「百年って言いますけど、私は百五十年も先の未来から来たんですからねっ! だいたい、こんなことで副長命令出そうとするなんて大人気ないですからねっ!」
「ほう。たった今、俺を大人と言ったのはどこのどいつだったか?」
あ……。
そんなやり取りをしている間……というわけではないけれど、大樹公は無事伏見城に入城した。
翌日の入京には新選組も随従して警護に当たり、二条城に着いたところで今回の任務も終わりを迎えれば、みんなでおよそ半月ぶりの屯所へと戻るのだった。




