048 斎藤さんと寄り道
斎藤さんに連れられ鴨川にさしかかるも、寄り道をすると言っていた通り、橋は渡らず川のほとりへと向かっていた。
川縁まであと数メートルとなれば、ここで待っていろ、と斎藤さんは言い残し、一人川の方へ行き取り出した手拭いを濡らしている。
川の水は澄んでいてとても綺麗なのに、透明すぎてなおさら冷たそうだった。
戻ってきた斎藤さんは、私をその場に座らせるなり自身も隣に腰を下ろし、濡らしたばかりの手拭いを私の頬の傷にそっと当てがった。
「ひゃっ!」
あまりの冷たさに思わず声が出た。
そのまま手拭いを引き受ける時に触れた斎藤さんの手は、手拭いと同じくらい冷たかった。
「……ありがとうございます。川の水冷たかったですよね? すみません……」
「なら、お前が温めてくれてもいいんだぞ?」
そう言って、手拭いを当てていない方の頬を包み込むようにして触れてくる。
またしても短い悲鳴が漏れるけれど、今度は冷たさのうえに恥ずかしさまで加わり、一瞬にして顔が熱くなった。
「さ、斎藤さんっ!」
「くく……相変わらずいい反応だな」
満足したのかすぐに手を離してくれたので、手拭いを少し広げて熱くなった顔を覆うようにして押さえた。
おかげで冷たかった冬の空気さえ、今はひんやりと少し気持ちがいい。
「屯所を案内した時から気づいてはいたが、芹沢さんの亡くなった日の宴会で、芸妓姿のお前を見て確信した」
さっきまでとは違う真剣味を帯びた声に、ゆっくりと顔から手拭いをおろすと、落とさないようぎゅうっと握りしめた。
「あの、だから、私は――」
「何か理由があるのだろう?」
「え……」
「あの土方さんが、理由もなしに女のお前をこんな格好させてまで側に置いておくとは思えんからな」
もうこれ以上は無理だ……。そう思った。
「斎藤さん、隠していてすみません」
そう切り出すと、永倉さんに話した時と同じく、未来から来たことは隠して女であることを打ち明けた。
きっかけは芹沢さんの気まぐれなのだとも告げれば、生前の振る舞いを裏づけるかのように、納得された……。
「それから……どうかお願いします。このことは誰にも言わないでいただけませんか?」
バレてしまったものはもう仕方がないし、土方さんも、試衛館の人たちにバレるのは時間の問題だと言っていた。
けれど、口外されて全員に知られてしまうのはさすがに困る。
「人に言えない秘密の一つや二つ、珍しいことでもあるまい。お前が望むのならそうしよう」
「あ……ありがとうございます!」
これをネタに今まで以上にからかわれたらどうしようとか、何とも失礼な心配をした自分を反省した。
さすがの斎藤さんも、そこまで意地悪ではなかった。
「期待に応えて、これをネタにからかってやってもいいぞ?」
なっ! 考えていたことまでバレてるっ!?
ニヤリと口の端をつり上げる斎藤さんに、ぶんぶんと首を左右に振って全力で拒否した。
「ネタなどなくとも、お前をからかうのは容易いからな」
「容易くても、からかわないでくださいっ!」
前言撤回! やっぱり斎藤さんは意地悪かもしれない!
視線を川へと移し、夕日を反射して所々赤く煌めく水面を見ていたら、斎藤さんが訊いてきた。
「知っているのは土方さんだけか?」
「いえ、井上さんも知っています。あと、永倉さんにもバレてしまいました」
「そうか。ならば、困ったことがあれば俺を頼れ。可能な限り力になろう」
思わぬ申し出に、斎藤さんに向き直りお礼を告げる。
斎藤さんは、私をからかって楽しむ意地悪なところもあるけれど、何だかんだといつも助けてくれるし心配もしてくれる。
どうしてそこまでしてくれるのかはわからないけれど、正直、とても心強い。
「生きていれば、秘密の一つや二つはあるだろうからな。ましてや男所帯に女一人というのは大変だろう?」
う……またしても考えていることがバレている?
「ここに書いてあるからな」
「……え?」
両方の手で、頬を包み込むようにして触れた。
が! 触れているのは私の手ではなく斎藤さんの手だ!
「顔に傷など作るな。それとも、わざと嫁の貰い手を失くして俺のとこへ来たいのか?」
「へ? いえ、あのっ、さ、斎藤さんっ!!」
「からかいがいのある奴だ」
そう言って、斎藤さんはくくっと喉を鳴らしながらゆっくりと私を解放する。
「もう! いちいち、からかわないでくださいっ!」
日暮れも近い寒空の下、そんな叫びが響き渡るのだった。
その日の夜、斎藤さんに女だとバレてしまったことを土方さんに報告した。
「馬鹿野郎!」
案の定、怒鳴られた。
「で、でも、未来から来たことはまだバレてませんよ!?」
「当たり前だ、馬鹿!」
バカバカって、そんなに何度も言わなくてもっ!
ここはとっとと話題を変えてしまおう。
「ところでですね……」
「お前、本当に反省してんのか?」
「も、もちろんしてますよ!」
ちゃんと反省もしているけれど、鋭いその視線と突っ込みは無駄に焦る。
それすらお見通しと言わんばかりに、ふんと鼻で笑う土方さんに促され、一つ相談事をしてみることにした。
「斎藤さんに借りた手拭いを汚してしまったので、新しいのを買って返したいのですが……」
実は二枚も借りたままだ。一枚は今日の分で、もう一枚は新見さんに押されて額を怪我した時の分。
色々あって返し忘れたまま、二か月も経ってしまったので新しいものを買って返したい。
土方さんはおもむろに立ち上がると、箪笥の引き出しから巾着袋を一つ取り出して私の掌に乗せた。
「お前のだ」
濃紺のシンプルな巾着袋だけれど、全く見覚えがない。中を開けて見れば、金、銀などのお金が入っていた。
「お前がここへ来てからの分の給金だ。金額は平隊士と同じだがな」
「え……」
この時代のお金に関しては、井上さんと買い出しに行った時などに教えてもらった。
現代の感覚とは違い、少し複雑で最初は苦労したけれど、根気よく教えてもらったおかげで今では買い物も一人でできる。
だからこそわかる……こんなにもらえない。
巾着の紐を引いて口を閉じると、土方さんの前へ置いた。
「これは受け取れません。私はまだ、こんなにもらえるほどの仕事をしていません」
土方さんが、ふっと息を吐くように小さく笑った。
「そう言うだろうと思った。だいたいお前の性格もわかってきたからな。だが、金が無けりゃ欲しいもんも買えねぇだろう?」
「……それは、そうなんですけど……」
あれがいくら私のお給金だと言われても、みんなに比べたら、私はまだ何の役にも立てていない。
畳の上に置かれた巾着が、すっと私の方へ寄せられるけれど、やっぱり受け取ることはできず押し戻せば、土方さんが声を出して笑った。
「ったく、期待を裏切らねぇ奴だな」
どうやら土方さんは、ここまで想定済みだったらしい。
「なら、俺がお前に毎月駄賃をやる。それなら受け取れんだろ?」
「駄賃? お駄賃ですか?」
「ああ。茶を淹れてくれたり、布団を敷いてくれるだろう? その駄賃だとでも思えばいい」
何だか、お手伝いをする子供にお駄賃をくれるお父さんみたいだ。
「おい。今、余計なこと想像しただろ」
「い、いえ? 何も?」
な、何でバレたんだろう!?
「まぁいい。手出せ」
土方さんは懐から財布を取り出すと、中から銀貨を一枚取り出して私の掌に乗せた。
「えっ! こんなにもらえませんっ!」
「うるさい。駄賃なんだから気にすんな。それでも受け取れねぇって言うなら、副長命令出すぞ!」
「なっ! 職権乱用ですかっ!?」
そもそも、お駄賃程度で副長命令って! そんなに軽いものじゃないでしょうに!
けれどもこれは、土方さんなりの優しさなのだと素直に受け取ることにした。
「ありがとうございます。えっと、これからもお茶汲みと布団敷き、頑張りますね?」
「おう、頑張れ。それで足りなきゃ言えよ? その都度くれてやるから」
土方さんは濃紺の巾着袋を拾い上げると、箪笥の前で引き出しに手をかけながら、顔だけをこちらに振り向かせた。
「お前の分の給金は、お前が受け取れるようになるまで俺が預かっておく。それでいいか?」
「はい! それでお願いします!」
おう、と返事をした土方さんは、引き出しの中に巾着を沈めてゆっくりと閉めた。
命がけで仕事をするみんなの足元にもおよばないけれど、それでもいつか、胸を張ってあのお給金をいただけるように頑張ろうと、銀貨を握りしめながら思うのだった。




