225 沖田さんの熱
翌日。
昨日の雪はいつの間にか細い雨に変わっていて、巡察を終え屯所に戻ってくると、丁度伊東さんたちが出立するところだった。
すでに断りを入れてあるからか改めて島原へ誘われることはないけれど、心なしかいつも以上に爽やかな笑顔を向けられた。
「琴月君、私不在の間、どうか新選組をお願いします。謹慎仲間のよしみで、頼みますね」
「え……あ、はい。もちろんです。伊東さんもお気をつけて」
まさか、伊東さんにまで“謹慎仲間”なんて言われるとは。
旅に同行するわけではないし、無事を祈る宴席くらいは参加した方がよかったかな……と少しだけ申し訳なく思いながら見送った。
部屋へ戻ると土方さんの姿はなく、文机の上には書きかけの文や道具が散らばっていた。
すぐさま炬燵へ潜り込むも、まるで大慌てで出ていったような有り様に、何かあったのかと思いながら簡単に整頓する。直後、戻ってきた土方さんが私の姿を見るなりあからさまに表情を強張らせた。
「えっと……整頓してただけですよ? 文を盗み見してたわけじゃないですからね?」
そもそも、土方さんのミミズのような文字はいまだ読めないし、間違っても例の発句集を探したりもしていない。
身の潔白を証明しきれていないのか、それでも表情の変わらない土方さんがゆっくりと口を開く。
「総司が熱出した」
「え、沖……えっ!?」
「安心しろ。良順先生が言うにはただの風邪――って、おいっ!」
想像もしていなかった言葉に、土方さんを押しのけ部屋を飛び出した。
ただの風邪だって、沖田さんにとっては“ただ”では済まない危険性だってあるのだから!
……いや、体調が悪いことに気がつけなかった私のせいだ。もしかしたら、昨日も具合が悪かったから断ったのかもしれない。
走ってきた勢いのまま沖田さんの部屋の障子を開けると、布団に横たわる沖田さんと、その傍らに座る良順先生がいた。
「沖田さんの様子は!?」
「そんなに慌てんでいい。……風邪だ」
冷気を部屋に入れないよう、急いで障子を閉めてから二人の側へ行き腰を下ろす。
沖田さんの主な症状は高い熱と咳と、少しの倦怠感を伴う風邪らしい。アメリカ風……インフルエンザではないだろうとも。
荒い呼吸を繰り返す沖田さんを見下ろせば、心臓の辺りがぎゅっと痛んだ。
胸元で着物ごと握ったこぶしをゆっくり開くと、深呼吸を一つ。身体ごと良順先生に向き直り、その顔を真っ直ぐに見た。
「本当に……。本当に、ただの風邪ですか?」
不快にさせてしまったのか、良順先生の眉が微かに動いた。
「……どういう意味だ?」
「い、いえ……」
良順先生の診断を疑うつもりなんてない。
単にまだ発症していないのかもしれないし、そもそも発症すると決まっているわけでもないのだから。
だって、ここは過去だけれど私にとっても現在で、ここから先は未来にだってなり得るのだから。
むやみに余計な不安を与えるような真似だけはしたくないから、素直に引き下がった。
起きていたのか起こしてしまったのか、ゆっくりと瞼を開けた沖田さんが、荒い呼吸の合間に笑顔を取り繕う。
「春くんは、本当に心配性ですね~」
「何言ってるんですか……。心配しますよ……。どうして言ってくれなかったんですか?」
「格好悪いじゃ、ない、でッ……ケホッ……ッ」
突然出た咳を堪えようとしているのか、沖田さんはすぐさま口を閉じ、喉の奥で咳をやり過ごそうとした。
「お、沖田さん? なんで我慢するんですか?」
堪えるばかりで答えてくれない沖田さんは、咳が治まるなり身体ごとそっぽを向きながらぽつりと呟く。
「伊東さんを見送りに行かないんですか?」
「さっき見送ってきました」
「宴は?」
「行かないです」
ふ~ん、と気のない返事をした沖田さんは、しばし沈黙していると思ったら、そのまま眠りについているのだった。
その日の夕刻。
良順先生を見送り、桶の水も張り直してから沖田さんの部屋へ戻った。
少し目を覚ましたらしい沖田さんの体調を確認しながら、おでこに乗った手拭いを取り上げる。まだ熱が高いせいで、少し前に替えたばかりなのにもう温かい。
冷やし直しておでこへ戻せば、沖田さんは一瞬だけぎゅっと目を瞑り、ひゅっと息を吸い込んだ。
「移るんで……近づかない方がいいですよ」
「大丈夫です。気合ではねのけます!」
私がインフルエンザにかかった時だって、みんなも気合で予防していたしね!
……まぁ、さすがにアレは、ただ運が良かっただけだと思うけれど。
薄っすらと目を開けた沖田さんは、熱で潤んだ瞳を僅かに覗かせながらどこか投げやりに言い放つ。
「じゃあ……今からでも、伊東さんのところへ行ったらどうです?」
「行くわけないじゃないですか」
誰の見送りだろうと、今は沖田さんのことを放ってなんか行けない。
ふ~ん、と返事をする沖田さんが、微かに口の端を吊り上げた。
「春くんは、よっぽど僕の側にいたいんですね~?」
「沖田さんの体調が心配だからですっ!」
「冗談ですよ。僕のことは放っておいて、くだッ! ケホッ……ッ」
「だ、大丈夫ですか!?」
突然咳き込み出すも、なぜかまた堪えようとしている。
「……沖田さん? 何で我慢しようとするんですか?」
「我慢ッ……して、ない……ッ、ですよ」
嘘だ。どう見たって我慢している。
「あのですね、風邪を引いてるんだから咳が出るのは当たり前です。無理に我慢したところで治るわけじゃないですし、身体にも良くないと思いますよ?」
「ッ……風邪ッ……当たり、前。……そっか。それもそう、ですよね。じゃあ、我慢はやめます」
なぜか素直に納得してくれたけれど、それってつまり、やっぱり我慢はしていたということか……。
そんな沖田さんに明日からも時間の許す限り看病しに来ることを伝えれば、またしても移る、移らないの話に戻ってしまった。
不毛な堂々巡りはさっさと終わらせるべく、熱で潤んだ瞳を見下ろしちょっとだけ強めの口調で言い放つ。
「移ったら……そのときはその時です! 沖田さんが何と言おうと、治るまで毎日来ますからねっ!」
私なら、風邪くらい引いてもどうってことないし。
沖田さんは驚いたように一瞬目を丸くするも、すぐさまそっぽを向き、まるで拗ねた子供のように口を尖らせた。
「……わからずや」
「沖田さんには言われたくないです」
しばしの沈黙が流れれば、同時にプッと吹き出した。
目を合わせることなく小さく笑い合うと、熱でほてった頬を微かに緩ませたまま、沖田さんがゆっくりとこちらを向く。
そして、笑みを消すことなく、本当は……と切り出した。
「嬉しいんです。一くんみたいに、僕も春くんと一緒にいたかったから」
少し前にも似たようなことを言っていたような?
とはいえ、部屋には土方さんもいたし、謹慎であって遊んでいたわけじゃない。
まぁ……炬燵にはずーっと入っていたけれど。
はっ! もしかして沖田さんも、炬燵に引きこもってぬくぬくしていたかったとか!?
「えっと……今回は炬燵じゃなくてお布団ですが、治るまで仕事のことは気にせず、ぬくぬくしてていいですからね!」
むしろ、早く治るようじっとしておいてもらわなければ困る。
眠る子供にするように、布団を優しくトントンと叩けば沖田さんは細く長いため息をもらした。
「春くんのそういうとこ、嫌いじゃないですよ……」
「……へ?」
嫌いじゃないと言うわりに声は不満げだし、首を傾げる私へ注がれるその眼差しは、若干呆れているようにも見えるのは気のせい?
そんな私の疑問はお構いなしに、今度は笑みを浮かべて言う。
「まぁ、でも。今回だけ……少しだけ、春くんの優しさに甘えさせてもらいます」
「はいっ!」
今回だけと言わず、いつでも頼ってくれていいのに。
それでも、正式に本人の許可も得られたことだし、沖田さんの風邪が早く治るよう、翌日以降も時間を見つけては部屋を訪ねるのだった。




