166 西本願寺へ屯所移転
いよいよ屯所移転の日の朝。
荷物の最終確認をして、部屋の中でぐるりと視線を巡らせる。決して広くはないこの部屋で、土方さんと寝起きしていたのだと思うとなんだか感慨深いものが込み上げた。
西本願寺は広いから、副長である土方さんはきっと一人で部屋を使うだろうし、小部屋もたくさん作ったから私も個室がもらえるかもしれない。
けれど、ワクワクと同時に妙な寂しさまで押し寄せるから、気分転換に一年半分の思い出が詰まった屯所を見て回ることにした。
広間に台所、隊士たちの部屋……どこも荷物はまとめられいつもより綺麗で広く感じるけれど、そこかしこで思い出すのは、楽しいことや悲しいこと……たくさんの思い出だった。
気づけば局長の部屋の近くまで来ていて、突然開いた襖から近藤さんが顔を覗かせた。きょろきょろと誰かを探しているみたいだけれど、私と目が合うなり手招きされ、そのまま部屋の中へと招かれた。
「天袋の奥にも荷物があったのを忘れていてな。すまんが手伝ってくれんか?」
わかりました、と快諾した側から近藤さんが四つん這いになった。
「背中に乗って取ってくれ」
「……え?」
今、何と? 背中に乗れと仰っしゃいましたか?
……って、局長を踏み台にするのは問題では!?
慌てて梯子を持ってくると告げるも、現在行方不明なのだという。
だからといって、局長の背中に乗るのは憚られる。梯子を探しに行こうとするも、近藤さんはいまだ畳に手をついたまま平然と催促をしてくる。
「そんなもの取りに行くよりこっちの方が早いだろう。ほら、頼む」
「じゃ、じゃあ、私が下になるんで近藤さんが上に――」
「それでは春が潰れるだろう」
確かに……。小柄な藤堂さんあたりならともかく、体格のいい近藤さんを支えきれる自信はない。
ほらほら、と催促する近藤さんはいまだ四つん這いのままで、それが逆に申し訳ない気になってくる。
仕方がないので、恐る恐る近藤さんの背中に乗っかった。
「お、重くないですか?」
「軽すぎるぞ。ちゃんと食べてるのか?」
そんな会話をしながら天袋の中を覗いてみれば、奥の方に箱を一つ発見した。片腕を伸ばしてみるも僅かに届かなくて、もう少し……とつま先立ちしたところで土方さんの声がした。
「近藤さん、そろそろ八木さんのとこに……って、おい! 何してんだっ!」
慌てて飛び降りるも、怖い顔の土方さんがずんずんと私のもとへやって来る。
近藤さんが経緯を説明してくれたおかげでなんとか事なきを得たものの、八木さんのところへ行ってしまった途端、土方さんが再び私に向き直る。
「おい、反対向け」
「へ?」
「嫌なら踏み台になれ。俺が取る」
む、無理だから! 確実に潰れるから!
仕方ないので反転して、抱き上げるつもりなのだろうと両腕も横に上げて待った。
「足開け」
「……足?」
言われるままに開けば、突然、開いた足の間から土方さんの頭が現れて、驚く間もなく視界が高くなる。
「うわっ! えっ、ひ、土方さん!?」
肩車をされたのだと気がつくも、突然すぎて上手くバランスが取れず土方さんの頭にしがみつく。
「おい、馬鹿っ。暴れんじゃねぇ! 」
「だ、だって! わっ……きゃあ!!」
今度は両手を広げるも、宙を掻いてしまい逆効果だった。
落ちる! ……と痛みに備えて身構えるけれど、背中に走った衝撃は思っていたよりずっと小さかった。
恐る恐る目を開ければ、目の前には土方さんの着物の合わせがあって、後頭部と背中には大きな手や腕まで感じる。
庇ってくれたのだと理解するも、これって寝転んだまま抱きしめられているような状態!?
ゆっくりと上向けば土方さんの顔は想像以上に近くにあって、土方さんまで私の方を向くもんだから、随分と至近距離で見つめ合う形となった。
いまだ逞しい腕に庇われたまま、若干土方さんが私の上に乗っているというこの状況……。
間近で土方さんが息を飲んだのも、私の心臓が早鐘を打っているのも……どれもこれも落下したせいだとわかってはいるけれど、そんなに真っ直ぐ見つめられては逸らすこともできず余計に暴れだす。
「……大丈夫か」
「お、おかげさまで……」
「……そうか」
それでも土方さんは動こうとせず、再び訪れた沈黙のせいで全然落ちつかない。
煩い鼓動を聞かれたらと思うとますます気まずくて、目の前の胸を押し返した。
「ありがとうございます……。あの、もう大丈夫なので」
「あ? あ、ああ……」
土方さんが私から離れようとした時だった。
部屋の入り口から、どこか気の抜けたような声がした。
「朝から局長の部屋で何してるんです〜? お盛んですね〜」
「お、沖田さん!?」
「ばっ! 俺がこんな餓鬼に手ぇ出すわけねぇだろうが!」
お互い飛び退くようにして離れるも、今、どさくさに紛れてガキ呼ばわりしなかった?
身長や童顔のせいで実年齢よりも下に見られることが多いのは事実だけれど、これでも二十歳になって立派な成人だし!
思わず土方さんを睨むも、睨み返されたうえに鼻で笑われた。
「もう餓鬼じゃねぇってか? あれだ、てめぇは中身が餓鬼なんだよ」
「はい!?」
中身がガキって何! 頭の中身が幼稚とかそういうこと!?
それともまさか……と思わず自分の胸を見下ろせば、馬鹿野郎! と罵倒された。
「というか、さっきから暴言が酷すぎなんですけど!」
「うるせぇ!」
いったい何なの!?
負けじと小学生並みの言い合いを続ければ、ケラケラと笑う沖田さんが私の側へやって来た。
「大人はほっといて、年も近い僕ら餓鬼は他のとこへ行きますよ〜」
そう言って、私の腕を取るなり強引に立たせると、そのまま引きずるようにして部屋の外へと連れ出した。
けれど行くあては特にないらしいので、八木さんに挨拶をするべく、今度は私が沖田さんを引きずる番となった。
近藤さんとの用はすでに終わったのか、一人で歩いている八木さんを発見し駆け寄った。
「八木さん。今日まで本当にお世話になりました!」
「ええよ。それより、お西さんに移っても気張らなあきまへんで」
「はい! ありがとうございます!」
再び頭を下げる私に、そういえば……と八木さんがどこか悪戯っぽく笑う。
「近藤はんが今までの家賃や言うて五両おいてったさかい、引っ越し祝い送ったるわ。楽しみにしとき」
それを聞いた沖田さんが、少しだけ驚いた顔をした。
「二年分の家賃にしては、随分安いですね」
「ほんまやで。なんやったら刀傷や壊したもんの修繕費も請求したろうかね?」
「あ~、僕らそろそろ行かないと~。じゃ、八木さんお世話になりました~」
そう言って、沖田さんは私の手を取り逃げるように歩き出す。
半ば引きずられながら振り返れば、おかしそうに笑う八木さんと目が合った。
「あんた餅好きやったな? 年末にはまた餅つき頼むで」
「はーい!」
壬生から西本願寺の距離は、徒歩でも三十分とかからないくらい。呼んでくれるなら喜んで行きますとも。
だって、つきたての美味しいお餅をたくさん食べたいしね!
お昼過ぎに西本願寺に到着すると、引っ越し祝いだという大きな酒樽が届いていた。
送り主は八木さんらしい。
引っ越し祝いを送るとは言っていたけれど、さすが八木さん、仕事が早すぎる!
喜びの声が上がるなか、近藤さんが呟いた。
「謝礼以上じゃないか……」
その顔はまだ飲んでもいないのに真っ赤で、穴があったら入りたい気分だ……と照れ笑いした。
八木さん本人も言っていたけれど、八木邸には五両、前川邸には十両の謝礼を渡したらしい。
その差の理由も気になるけれど、あんな大人数で二年も住んでいたわりには、安すぎるような気がするのだった。
それぞれ自分の荷物を自室へ運び始めると、土方さんが私も部屋へ案内してくれるというのでついていった。
これだけ広いなら、一応女子の私も一人部屋をもらえそう、とワクワクしながら外廊下を奥へと進む。
とある部屋の前で立ち止まった土方さんが、ここだ、と障子を開けた。
「わっ……思っていたよりずっと広い!」
一人なら前より狭くても十分と思っていただけに、もの凄く広く感じる。さすがは西本願寺。
平隊士の分際でいいのかな……と思いつつも、せっかくだしいいか、と荷解きを始めれば、なぜか土方さんまで手にしていた荷物を広げ始めた。
「あのー。ここ、私の部屋なんですよね?」
「そうだぞ」
すぐさま返事があるも、土方さんは荷解きをやめないどころか勝手に文机を移動し始めた。
「あのー。ここ、私の部屋でいいんですよね?」
「そうだと言ってるだろうが。さっきから何だ。はっきり言え」
鬱陶しそうにじろりと睨んでくるので、遠慮なく訊いてみる。
「自分の部屋へ行かないんですか?」
「いるじゃねぇか」
「……へ?」
ああ、やっぱりここは土方さんの部屋であって、私の部屋は別の場所……なんて淡い期待を抱いてみるものの……。
「言ってなかったか? ここはお前の部屋でもあるが俺の部屋でもある」
「……また相部屋ですか!?」
「文句があるなら、今度こそ大部屋の雑魚寝に押し込んでやろうか」
「それだけは……って、小部屋たくさん作ってたじゃないですか!」
なんのために急いで改造をしたのか!
「んなの、幹部優先に決まってるだろう。平隊士は雑魚寝だぞ」
そ、そりゃ薄々想像はついていたけれど!
ちょっとだけ……いや、かなり期待していただけにがっくりと肩を落とせば、土方さんがにやりと追い打ちをかけてくる。
「どうする? 好きな方を選ばせてやるぞ?」
「……こ、ここでお願いします」
数日だけならまだしも毎日みんなで雑魚寝だなんて、着替えも簡単ではないし、すぐに女だとバレてしまうじゃないか!
「あー? 聞こえねぇなー」
嘘だ! 絶対に聞こえているし!
とはいえ、雑魚寝だけは回避しなければ。
「……こ、ここに置いてくださいっ!」
ついつい頬がめいっぱい膨らんでしまったけれど、土方さんは満足そうに私の頭をポンポンと叩いた。
「そこまで言われちゃあ仕方ねぇな。特別に俺との相部屋を許可してやる。ありがたく思え」
く……。
鬼だ。新しい屯所にも鬼がいた……。




