逆さ虹の森が紡ぐ物語
その森には昔、逆さまの虹がそれは綺麗に綺麗に架かっていたといわれています。
以来、『逆さ虹の森』と呼ばれており、神秘に満ちたその森は、それはそれは大切に、自然のままの姿で立派に残されておりました。
ただ、噂は皆が聞いたことがあるとおりですが、逆さの虹を見たという者は、一人としていません。
池に映った虹を見てそういう名が付いたという説もあります。
確かに。ただ、森には鏡のような静かな水面をたたえる素敵な池がいくつもありますが、個性的な名前のある森の中において、「虹見の池」や「鏡面の湖水」という名前は聞きませんよね。
他にも、虹の輪が、豊かな自然にはばまれて、下の部分だけが見えたという説もあります。
自然豊かなこの森では、日光が差し込めばあらゆる所にあらゆる形の虹模様ができあがるところに由来するという説もあります。
どれもが真実味を帯びている一方で、どれもこれも、この荘厳な自然が示す「逆さ虹」の由来としては、断定するには物足りなくも思います。
この素敵な森の謎は、今や誰もが、その意味を知らない場所でもあるのです。
その神秘がまた、森の魅力となりおおせているのです。
ある日、一人の青年が、森に足を踏み入れました。
その森はまだほとんど知られておらず、豊かな自然がたっぷりあふれており、一歩足を踏み入れたなら、誰もが神秘的な気配を感じずにはいられない場所でした。
空を覆いつくさんがばかりの緑の天幕に、その間から、風のさやさやという音で揺れるように日差しが踊る姿は、自然の舞台のようで、見る者は酔いしれてしまうばかりです。
鳥の鳴き声は合いの手のようで、森全体が生命を体現しており、世界を祝福しているかのような気持ちをもたらしていました。
朝方特有の、みずみずしい緑の香りが鼻先をくすぐり、それはどこか悪戯っぽくも感じるのは、やはりこの特有の空間がそうさせるのでしょう。
青年は早くも後悔をし始めていました。
命を絶ち切ろうと足を運んだというのに、あふれんがばかりの生命に浸されてしまっては、とても決意が長続きするわけがありません。
「誰もいない森なんて、うってつけだと思ったのになあ」
気持ちが折られてしまったことに、大きなため息をつきました。
青年は名家の長男で、仕事の大工では若手で一番の腕前ともてはやされており、結婚を約束した相手がおり……絵に描いたような順風満帆な人生を謳歌していました。
それが数日前、将来を約束した女性に裏切られ、婚約を破棄されました。
親や友人たちにも紹介が終わっており、片田舎の名家だっただけに、執拗に責め立てられました。
一番傷ついているのは自分だというのに、周囲は自分事のように傷つき、涙し、同情するのです。
自分がいるあいだは、誰もが楽しい話もできず、笑顔も遠慮するのです。
まるで不幸を呼び込んでいるような気持ちにさせられました。
この辛い気持ちが、周囲へ伝染していくのです。
たった一つの恋が終わったと割り切るだけの気持ちを持ち合わせておらず、裏切りという鋭利な刃物は純粋な彼の心に大きな穴を開けたのです。
若い彼には、耐えがたい屈辱でありましたし、若さゆえの小さな世界において、自分の居場所をなくすには十二分な出来事でした。
あれだけ我慢ならなかった感傷が今、自然というおぼろげなものにより、風化させられようとしているのです。
その事実はまた彼を苦しめました。
「僕はもう傷つきつかれたんだ。放っておいてくれ。どれだけ大きな木々が僕の背中をさすってくれたとしても、この気持ちはなくなりはしない。小鳥の鳴き声が心の扉をいくらノックしても鍵が開きはしない。そんな簡単な辛さじゃないんだから」
頷き、それでも決意が固まらないままに、足を前へ前へとだけ、進めました。
するとその先に、一匹のキツネがひょこんと姿を現しました。
まるで自己主張するかのような登場に、青年も呆気にとられてしばらく互いに目をあわせていました。
「今の僕の気持ちに、キツネが何だと言うんだろう。何の意味を持つのだろうか」
自問し、改めて足を進めたなら、キツネは先導するように前へ、前へと草木を分けていきます。
もちろん後を追う理由はないのですが、考えにふけるにはちょうどいいこともまた事実で、目的もなく後を追って足を進めました。
「どうしてこれ以上、僕を悩ませようとするのかな。まだ足りないというのであれば、うん、やっぱり僕はこれ以上は結構だ、謹んでお断りしようじゃないか。生きるというのが悩みとの共同生活というのであれば、そうだね、誰が嫌いな者との二人三脚に全力をつぎ込もうというのだろうか。少なくともそれをするのは僕じゃない」
独り言をずっと呟いていたのですが、きっとここから彼の姿を見た人であれば、いったい彼が死にに来たなどと言ったところで、どうして信じることができるでしょうか。
青年の意思とは裏腹に、彼の体と心は確実に、森の生命を取り込んでいるのでした。
長く歩くと、その先には断崖がありました。
下を流れる川もまた壮烈な勢いでありますが、その音すら背景にぼやけてしまうほど、青年は崖に目と心を奪われていました。
切りたった荒々しい絶壁は、自然の力強さが体現されたようなもので、見た瞬間に青年は背筋が冷えて体が反り返りました。
「うぁ……すごい……」
それは、青年の小ささを何よりもわかりやすく、目の前に突きつけたのです。
ごつごつとした岩は生々しいまでの生命を連想させ、下まで何十メートルとあるのでしょう、この激しい落差を森のすべての命のため、支えているようにすら映りました。
それは静かでありながらも、絶対的な存在感をたたえています。
圧倒的な自然を目の前にして、目からは涙があふれました。
「すごいな……いままでどんな景色を見たって、綺麗だなと思うことはあっても、感動なんてしなかったのに。それが何だろう、この切り立ちというものは、力強さと、鋭さと、静かさと……ああ、分からない、僕じゃとてもすごさを語り尽くせないほどに、格好いい姿だ」
青年にとっては、心持ちが景色を変える経験など初めてでありました。
傷心している今だからこそ見られる景色であり、鮮烈なる岩肌に憧憬すら覚えました。
崖下の川にまで、命のなんたるかを訴えかけるような、荒々しい流れの中からしなやかさを感じられていました。
いつしかその場に座り込み、大地と話をするような心持ちで自然の風に洗われていた青年ですが、太陽が真上を通過するころ、泣き声が聞こえるのを感じました。
「聞いたことない声だな……」
声のする方へ歩いたなら、そこには一匹の獣がいました。
獣は崖の方へ大きな声をあげていましたが、青年に気付くと、すぐに振り返り、うなり声を上げました。
「タヌキ、なのか? そうカリカリしなくても、僕はきみの邪魔はしないよ」
すっかり落ち着きを取り戻している青年とは対照的に、アライグマ(青年はタヌキと思っていますが)は気性の荒さを隠そうとしません。
近づこうとすると手足やしっぽをぶんぶんと振り回し、近づくなと体全体で訴えました。
「ずいぶん暴れん坊なタヌキだな。まあ、嫌ならこれ以上近づきはしないよ」
そうしてタヌキが鳴いていた崖を眺めると、向こうの崖に二匹のアライグマがいました。
そのうちの一匹は小さく、子どもであることは察しがつきます。
あちらも同様に、こちらへ向いて鳴いており、人間が近づいてきたことに警戒と心配の思いをはせている様子でした。
「あれはお前の家族か? ……そうか、お前、川に落ちたのか」
もちろんアライグマが答えるわけがありませんが、状況を察した青年は、再度その場に座り込みました。
そうして鳴き合うアライグマの姿を眺めました。
今、不本意にもこの崖による分断させられたアライグマの親子を見放す行為は、敬服する崖への冒涜ほかなりません。
何とかできないかと振り向いた先には、キツネがちょこんと座っていました。
「……なぁ、お前が、ここへ、呼んできたんだよな? 何となく分かるよ、でも、これは僕にも何もできないよ」
キツネに声が届いたとは思いませんが、うんうんと頷いたように見える動作の後、キツネは森の中へと駆けていきました。
「おいおい、どうするんだよ」
慌てて後を追った青年が、その先で見たものは、なんと斧でした。
どうしてそこにあるのか分かりませんでしたし、ずっと昔のものなのでしょう、さび付いてはいましたが、それでも斧には違いありません。
「案内してきてくれたん……だよな? お前は人間が怖くないのか?」
もちろん言葉は伝わらず、キツネは早くその斧を手にとレトばかり、爛々とした目で青年を眺めています。
「やれ不思議なキツネだな。それでもって、本当のお人好しだ」
青年は早速、細くて長い樹木を探しました。
手つかずの森に対する懺悔の気持ちもありましたが、できる限り、このままの自然な森を保つために、密集していて窮屈そうな所から、森の健康のためにも必要な空間を作るための木を伐採しました。
細くとも、しっかりと詰まった樹木の重さは一人で運ぶには困難です。
青年は樹木を細切りにして一直線へ崖へと並べ、夜に向けて準備を整えました。
その夜、当たりも見にくくなった暗闇で、青年は昼間に作った細切りの枝の上を、長い樹木を転がせて運びました。
二本の樹木を一緒くたにくくりつけており、一度に運んだなら、橋という立派なものではありませんが、行き来ができる程度の木が崖の間をつなぎました。
「さあ、ここからだ」
その木にぶら下がりながら、ゆっくりと青年は対岸へと移動をはじめました。
夜風が吹き抜ける崖の間を、二度三度と、体に合わせてしなる木にぶら下がり、青年は進みました。
そうしてその場において、不思議な気持ちを感じていたのです。
「不思議なもんだな……死のうと思っていた人間が、今、こうして偉大なる崖と崖を繋ごうとしているなんてな。誰かの人生をつなげるなんて、不思議な感覚だ」
ましてや相手は動物だというのにと、青年は笑みをこぼしました。
不安定で、暗闇で、風吹くその場においても、不思議と怖さを感じることはありませんでした。
そこには確かに、たくさんの力強い生命が、後押ししてくれていたのを感じられたからです。
対岸に到着すると、背丈の半分ほどの木を切り出し、地面へと打ち込みました。
さらに一本打ち込み、その間に崖を繋いだ木々をおいたなら、次はそれぞれを打ち込んだ杭に固定しました。
するとどうでしょう、二本の樹木をくくりつけていた紐がぴんと張られ、はしごのような形の橋ができあがったではありませんか。
人が通るのは難しいでしょう、それでも小動物程度であれば、それは優雅に歩き渡ることができるでしょう。
再び、今度はもう一つ慎重に橋にぶら下がって崖を渡ると、こちらでも杭を打ち込み、ピンとくくりつけたなら、完成です。
「命を絶とうと思った紐が、こんな形で使えるなんてな……」
青年はゆっくりと思いをはせ、感慨深く橋を眺めました。
ふと思い出して振り返ると、やはりそこにはキツネがおり、ぺこりと頭を下げました。
青年は苦笑し、まるでこのキツネにすべてが誘導されていたかのような、奇妙な感覚がありましたが、嫌でもなく、どこか恥ずかしさすら感じました。
「ものってのは、使いようによっては人を幸せにできるし、景色だって見方を変えてみれば人生を変えられるんだ。ここに来てからは不思議な体験と、新たな感性に目を開かされる思いだよ。ここに来て良かった、今ではまるで、お前のことすら人に見えるよ。……いや、人に感じられる、と言おうかな。お前はどうひいき目に見ても、キツネだからな、お人好しのキツネだ」
青年は、アライグマの親子の対面を見ることなく、その森を後にしました。
いても立ってもいられなくなったのです、心持ちの変わった青年の前には、今後、どれほど煌びやかな景色が映っているのでしょうか。
それを思うだけで、自然に足は森から遠のいていったのでした。
青年の中ではあのアライグマは「暴れん坊のタヌキ」でありましたし、人の渡れないような形だけの橋は「オンボロ橋」と呼ばれるにふさわしいものでした。
以来、この森には、人でないものが住む森として、町民のあいだでは神聖なところとして扱われることとなったのです。
人が立ち入るべきでない、異人の存在する森。
いつしかその森は、逆さnijiの森と呼ばれることとなったのでした。
さあ、逆さ虹の森の話は、これで、おしまい。
きっとあなたが知っている森には、もっとたくさんの登場動物と、場所があることでしょう。
怖がりのクマや、食いしん坊の蛇、ドングリ池に根っこ広場……それらのお話しは、またの機会に、語ることとしましょう。