>なぜ差別は悪なのか?
ファシストがマフィアを「社会の癌」として排斥しよう
と言うのを聞いて
賢者がファシストに「癌とは一種類ではない」と言う。
マフィアが癌ならファシストも別種の癌だという皮肉。
それは、差別の本質を表した例えです。
多種多様な存在で構成される人間社会を人体に例えた
良い例でしょう。
この例で言うと「癌」は、「カルト思考」です。
「カルト思考」とは、
「自分達と同種の思想を持つ人間が最上でそれ以外の思想は下劣」と階級づけて考えるか
「自分達の思想以外は価値なし」と考えることで
「多種の細胞を駆逐して増幅する癌細胞のような存在である」
ことが正しいという考え方です。
異なる存在を排斥しようという考え方の人間は
「人類の生存戦略である援け合う事で生きていく」という真義
を否定するから悪な訳です。
これは人文科学としての考え方で
「全知全能の絶対正義」という「権威の象徴である神」をカルトな人間が創ったフィクションと考えるなら
というオカルトの否定を根幹にするので
こういう悪の本質を否定して
「神」は強くて何でもできるから正しいと考える人間もいますが
そういう人間は権威による差別を嫌わずにイジメやハラスメントや虐待を行います。
何故かというと
権威と差別はいつでもセットで一括りのもので、人間とは争い合うのが当然の生物だという考えが「権威主義者」と呼ばれるそういう人間達の根幹にあるからです。
それを「暴力原理」と呼びます。
「暴力原理」で権威を愛する者は「権威による必要悪」を愛する者で
「権威による必要悪」に「正義の冠を被せて」不幸を撒き散らすというのが人文科学としての考え方です。
だから
カルトな神に押しつけられた「権威による必要悪」という「掟」に盲目的に従うのではなく
人間達が「援け合いみんな仲良く幸せに暮らす」という共存原理の目標を極める「人道」によって
人が創った「法」を懸命に護る事で「悪という不幸をばら撒く根源」から人々を護る。
それが「法を護る」事であるというのが、人文科学の発明である「民主主義」による「法治主義」の精神です。
その「法を破る」事。
つまりは、「共存原理」を破壊しようとするのが「悪」と考えるか
それとも暴力原理を信奉して
力によって人を征服し従わせる「掟」に反する者に「悪のレッテル」を貼るのか。
「掟」では不幸をばら撒くばかりだったからこそ「法」は発明されましたが「権力者」は「法を護る」事より、自らの利権を優先させて
それを「秩序」だと騙り、その嘘を広めます。
その嘘には必ず矛盾が生まれ「本音と立て前」の違いなどと誤魔化されますが
その矛盾は「悪と偽善」です。
「偽善」とは虚栄心ではなく悪を隠すための行いですが
「本音と立て前」という本心と虚栄心の問題にすりかえられがちなので
「偽善」とは虚栄心であると語られがちですが、「偽善」とは悪を隠すという悪。
そういう悪は、身勝手な「掟」では裁けても、「法」では裁けないので
時に「掟」による私刑を
「権威を愛する者」や「権威に従うだけの下僕」は望みますが
それは「本末転倒」で
それこそが差別やイジメや虐待やハラスメントを巻き起こす考え方で「悪」です。
「悪」をもって「悪」を征するのは「悪意」でしかなく
「法」によって定められた「必要悪」で「悪意」を制するからこそ「暴力原理を抑制」できる。
それを「法」の限界と呼ぶか
「法」の理性と呼ぶか
前者なら「悪意」による理不尽な感情の理屈。
後者なら「人」の理に適った理性による論理。
人文科学を否定して「獣の原理」で「神の絶対正義」を騙るか
人文科学を肯定して「人道倫理」で人の為に悪を蔓延らせないように努力するか。
どちらを信じるべきか?
前者なら‘ 身勝手さ ’や‘ 利己性 ’や‘ 権力 ’を大事にする「悪意」で
後者なら‘ 自由 ’や‘ 平等 ’や‘ 平和 ’を大事にする「理想」です。
だから‘ 自由 ’でいたいなら
一見、不自由に見えても‘ 人 ’なら後者を選ぶべきなのですが
英雄や王や神といったフィクションによって創られた憧れは、子供を‘ 人 ’ならぬ‘ 超人幻想 ’へと導き「悪意」を望ませます。
特別な強者として差別されたがるというこの主人公の‘ 黒歴史 ’とはそういうものなのでしょうね。