>正義も悪も、その立場や社会状況で変わる
>正義も悪も、その立場や社会状況で変わる
善悪というものが最初から存在するのではなく
「人が人の為に創った精神文明の発明」であると
オカルトを排して科学的な理論で考えると
「洞窟で暮らしていた原始の毛無し猿」も「現代の人間」も
肉体的には同一の遺伝子を持った動物で
変化しているのは
「言葉という精神文明の発明で知識を共有し継承する事で、自滅本能を抑制し共存して生きていくという生存戦略」
の一部としての人間の精神性ですから
そういう方向で考えるなら
正義というのは
暴力原理で動く社会では
社会を運営するための必要悪でしかないですからねぇ
同じように
「掟」も近代理念の「法」とは違い
暴力原理で人間の動物的本能を使って服従を強いるというのが
理念の根幹ですから
人類全体の共存原理である「善」の理念を利権組織や権力者の都合で踏みにじる事も許されるのが
動物の群れと社会原理は変らない「狩猟を生業とする人間」の社会でした
それを阻止するのは
暴力原理で動かされる社会で教育された人間には無理なので
無駄な争いで多くの血が利権争いにより流れます
対して
農業を根幹とする社会では
共存による環境改善が必要な社会原理なので
無駄な争いを何とかしようと
生れたのが「法」の理念で
利権組織が人に服従を強いるのではなく
人が利権を調整して共存を護るというものでした
しかし
暴力原理で動く人間を説得するのに
誤魔化しと「神というフィクション」を利用したために
「神という絶対者」に従う奴隷と
それを従える利権組織という「権威主義」が欺瞞を根幹として誕生します
これは「隠蔽された暴力原理」で動く社会で
「殺し合いを生業とする軍人」のための社会で
軍人達を頂点とした
階級社会を形成した利権組織が争い合うことを認める
封建主義社会でした
結果
無駄な争いを何とかしようと
生れた「法」は長い間、形骸化されて本質を見失います
やがて
共存原理の尊重という善性と暴力原理による悪性
この対立を宗教というオカルトが誤魔化す事で
無駄な争いを起こし続けようとするのが
「権威主義」であるとして
無駄な争いを失くすべく生れた「民主主義」と
封建社会の根幹である「権威主義」が混在するのが現代です
民主主義は「流通商業を生業とする人間」が
傭兵を使って市民革命を起こすための大義でしたが
利権を持つ
「隠蔽された暴力原理」で社会を動かしたい人間が
共存原理を否定して
「民主主義の形骸化」で運営する現代社会を造ったのが原因です
民主主義の根幹にあった「自由」「平等」「平和」を
理想でしかないと敬遠させ共存原理を踏みにじるために
我侭と自由を混同する「個人主義」を煽り
民衆の横の繋がりを分断する事で
「他者の自由を奪う我欲を抑制して、全ての人間が自由であるべきと考える自由主義」を衰退させ
本来は価値のない紙切れに価値を持たせる
経済による「権威主義」で「拝金主義」を煽り
「制度上の公平」と「実質的平等」を混同させ
「ただの多数決制度」で利権構造を守るための「実利主義」
で「平等主義」を衰退させ
拡大した人類社会は「平和」を否定し
世界大戦からテロ戦争といった
無駄な争いを続ける事になりました
実態を持たない経済を拡大する事で成り立つ「権威主義」
を否定した「民主主義」を
「官僚を生業とする人間」が「平等主義」を掲げ
制度で変えようとした「共産主義」も
同じように
本質である共存原理を否定した事で「社会主義」として形骸化し衰退し
「商業を生業とする人間」のための「資本主義」も
実態を持たない経済によって腐敗し
現代の先進国には閉塞感が満ちている気がします
「法」を護る社会では
正義とは「善を護るためだけの限定的な行動」で「勧善」
悪を滅ぼすのは正義ではなく必要悪ですから「懲悪」
「勧善懲悪」と故意に繋げて表現されるので混同しがちですが、その二つは本来は別の考え方です
昨今では
「必要悪と混同した正義」や悪は語っても
「共存原理である善」を語ることを
敬遠どころか「無駄な事」と軽蔑する子供達も少なくないようです
人々の生活を「支」え、平等に富を再分「配」するという意味の言葉だった「支配」を
征服して従わさせる「服従」と同じ意味で使う社会で育った子供達の精神性
この会話はそういったものを反映しているのでしょうかねぇ




