表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
78/108

>文章が「薄っぺらい」

>文章が「薄っぺらい」



 仰る通りに、私の書くエッセイは、「説得力のある感動的な文章」描写はありません。


 そういう「精神誘導的文章」でない事が必要だからです。


誤解されているようですが 

あらすじや「エッセイ=懐疑主義者が書いた論文が語源」と最初に示したように、エッセイは、そういう懐疑主義による理を語るための試論で、感情に訴え読者を説得するためのものではありません。


 エッセイは何らかのプロパガンダではないですし、私的な戦争体験のエピソードを語るものでも当然ありません。

 

 占領軍の統治で社会常識が変化していった事実。

 冷戦時代に行われた思想弾圧の事実。

 ソビエト崩壊とオリガルヒへの権力移行への流れ。

 55年体制が崩壊してバブルへ続く冷戦後の歴史の流れ。

 ジェネX以降の日米の世代的特徴差から見る国内民主主義の衰退。

 湾岸戦争からテロ戦争への戦争と経済の流れ。

 派遣法から格差社会が造られるまでの政界の変遷。

 全面核戦争の脅威の忘却から原発事故への原子力産業の流れ。


 

 そういった今の若い人でも調べれば知る事のできる話を、近代史として総合的に考える一助になればと、若い方が持ち難い視点での歴史観を、仰るように「現実の一側面」として提示したにすぎません。


 当然、他者の歴史観を否定するものでもありません。

 

 あらすじで示したように

 あくまで、年寄り視点の懐疑主義で歴史の流れを見ようという懐疑主義的試論ですので、歴史観の磨り合わせに御使い頂ければ、それだけで幸いです。



>祖父は、軍人時代のことを殆ど語りませんでした。


 その方の世代だと私の父親か伯父と同世代のかたでしょうね。


 たかあきらさんは、その方を尊敬していたんでようね。

 

 たぶん、貴方は私の息子と同世代か少し下の世代の方なのでしょう。


 息子の学生時代、将来について語り合ったときに、貴方と似たような事を、息子が言った記憶があります。


 そういうつもりはないのですが、私の論調は「独善的」と取られる事もあるようです。


 けれど、独善を語り他者を否定するつもりは、毛頭ありません。


 このエッセイも、あくまで昨今では語られなくなった近代史観の提示にすぎません。


 それが、私情であなたやあなたの御家族の想いを踏みにじっていると感じられたのなら申し訳ない。





>「体験」したことが現実の全てであると、どうして言えます?

>解釈が針小棒大でない、と何故言えます?

>一事が万事、と認識していないといえますか?


 まさにこの問いが懐疑論で、それは否定されるべきではないでしょう。


 何度も言いますが、このエッセイは誰かを否定するためのものではなく、新たな視野の提示が目的です。


 そこを間違えると視野を狭める事になってしまいますので、御間違えなきよう。

 

 

 貴方が暗に仰っているように、人は違っていて当然で、違う事にも意味があります。


 生き方を、誇る事も卑下する事も、蔑む事も自嘲する事も主観による感情論です。


 だから、「現実の全て」など求める必要はないものです。


 「常識」という言葉で時に「現実の全て」をごちゃ混ぜにしがちですが、確かにそれは相対的な主観の集合でしかありません。


 けれど、客観性を否定し、歴史観や信条を定めずに、流されるまま生きるというのは、相対的な主観の肯定とは別の話です。


 争いは、主観の対立ではなく、利権や利害の対立で起こるものだからです。


 歴史観や信条は自分で見出すもので、持とうとしなければ持たないままでも生きていけるものなので、求めない人も多いでしょう。


 そんなもの持つ必要はないとか、持たないほうが楽だから、持たない人を増やしていこうという風潮もあるでしょう。


 それでも、「絶対に正しい何か」など必要ありませんが、ただ理不尽を呑み込み、社会の行く末について考える事をやめる必要もまたないのです。


 あらゆる判断をせずに生きる事はできないのですから、社会に関わるのなら、客観的な公正さを必要とする判断の核となる歴史観や信条は、どこかで必要になります。


 大企業と癒着した世襲政治屋達が望まないせいで、刑事事件が先になってしまいましたが、「民間の視点で判断するという事」を考えての制度という本来の意味からすれば、裁判の陪審員制度も民事に広がる可能性がありますしね。


 自分だけでない他人の身にもなって考える考え方で、その他大勢のためにある社会で、少しでもマシな明日を求めるのなら、どうすればいいのか?


 それを考える人の一助になればというのが、このエッセイの趣旨です。


 その考えを反映した○○○○○さんなりの物語を、いつか読みたいですね




>貴方は、この70年間、何を見て来たのですか?


 それは、貴方の御祖父さんと同じように、気安く語るべきものではないと思っています。


 ただサラリーマンを生業として生きてはきませんでしたので、割と自由な生き方をしたぶん、仕える生き方を選んだ人とは違うものを見てきました。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ