>人生はゲーム
>ゲームの定義が曖昧
>もう少し厳密な定義があると良い
私はこのエッセイである程度
「人生は神ゲー」「人生はクソゲー」という言葉の意味を限定した解釈をしていますが
確かにゲームの定義というものをしていません
何故かというなら
これは「人生は神ゲー」「人生はクソゲー」という言葉自体に
対する反論なので元の言葉のゲームの意味が曖昧なニュアンスを持つので定義しようがないわけです
そのあやふやさは「人生」という言葉にも存在していて
結局のところ
「人生は神ゲー」とか「人生はクソゲー」という理屈が
ノイマンとモルゲンシュテルンの「ゲーム理論」のような
理論ではなく
しょせんは屁理屈だという事ですね
この種の短いワードでの流行語は色々な解釈ができるので
誤魔化しの理屈として使われがちで
この反論は単にその事を指摘しただけのものですので
いくらでも別の理屈で後付できますが
だからこそ「曖昧でいい加減な理屈」だという話です
>シェイクスピアの「人生は舞台である」という言葉に関してはどうお考えでしょうか。
人生は舞台。人は皆、役者。
というあれですね。
これも定義が曖昧なので色々な解釈ができますね
シェイクスピアの「信念」というのを小馬鹿にした
イギリス貴族っぽい冷笑的な実利主義的な考えでなく
このメタな台詞のみについて言うなら
心理学のペルソナと似た視点を持つものだと思います
人間の多面性を語る話で
ある意味
「人生は神ゲー」「人生はクソゲー」という言葉が持つ視野の狭さとは逆の考え方でしょう
ただ「脚本家」というものまで視野にいれると
「人生は神ゲー」「人生はクソゲー」という言葉と同質の「社会の閉塞感」を表現しているという考え方もでてきます
中世の人間のいう現実の陰にある「神というフィクション」を考えに入れればの話ですが
>生物としての適応度(どれだけ自分の遺伝子を遺せるか)等を考えると、正にゲーム的な印象
これも「神というフィクション」がゲームクリエーターとして存在すると仮定すればその通りでしょうが
「人間に現状で理解不可能な現象」をオカルト抜きで考え
「人間の意志や精神活動と同レベルの存在」を「神」として認識するフィクションを否定するなら
自然法則をたかだかゲームという言葉で表すのは
パレイドリア効果やシミュラクラ現象のような錯覚の類だと思います
>「動物とは違う」人間
>適応度の向上方面
適応度の向上を「ゼロサムゲームという言葉に代表される暴力原理」に限定しない可能性としてとらえるべきという意味で
「動物とは違う」事も含めた人間の可能性と
「しょせん動物にすぎない」という限定的な可能性のどちらかを信じるかというなら
「動物とは違う」事も含めた人間の可能性を信じていますね
ですので「人生をたかだかゲームなどという言葉の持つ一面性で縛るな」
という意味合いでも
「人生はゲームではない」と言っているということですね
それは同時に
神に創りだされて「今と同じ存在」としていきなり出現したと考えず
洞窟の毛無しの猿が文明を築きあげて今に至ったのだと考えるなら
理想や共存原理も
制度や暴力原理も
金銭や武器や
主義や理論も
人の発明した物質も概念も
すべては泡沫の夢幻で
人生は死ぬまでの暇つぶしのゲーム
そう冷笑したとしても
どちらも等しく人の可能性を信じた人間が創り出した
精神文明であり物質文明として現実に存在するものです
中世以前の「人の可能性を狭める」考え方では
無意識のうちに「絶対神というフィクション」を聖書宗教圏の人間は信じています
人生はゲームという言葉の裏にはそういった過去からの呪いが含まれていて
それを排除して考えるという意味でも
「人生はゲームではない」と言っているということでもあります




