>善意を裏切られる
>善意を裏切られる
善意とは客観的に考える場合、「公的な行為」なので、「私的に裏切られる」のと公私混同するのは間違いです。
だから、好意や厚意を裏切られるのと一緒の意味で使うと、「私の行為が善」であるという「独善という悪意」に繋がります。
行為自体が間違ってるわけではなく、そう考える人も多いようですが
その考えが「悪意の不在」ではあっても「善意」ではない気がするのは「社蓄らしさ」なんでしょうねぇ。
「良かれと思ってやった」というのは「最適解で正解」と思ってやった事ではあっても
客観的視点で考え「善」であると考えてやったわけではないわけで
「よい事」にはいくつもの意味があります。
良い事
好い事
善い事
区別せずに、いくつもの意味を重ね合わせて使ううちに
その違いを考えず混同させてしまうというのは「よくある事」です
この場合のよくは「繁く」という当て字がはまるので別物と理解できますが
前にあげた三つは混同されがちです
The road to Hell is paved with good intentions
資本論の一節から引用された言葉ですが
この場合のgoodは「善い」ではなく「良い」でしょう。
日本語で近い意味にするなら
「地獄への道は正義で舗装されている」でしょうか
絶対的で唯一の神の正義ではなく
普遍的でどこにでもある善
本来、この二つは対照的なもので
個人主義と主観の「正義」=必要悪
共存主義と客観の「善」
善とは損得の絡まない行いで
「相手の得になるよう考える」特定の誰かや集団への利他的な行いではありませんでした。
欧米的な概念ではないので
「善意」も昔は違ったのですが「good intentions」と同じ意味に使われる事が当然になってしまったようです。
ポジティブで生産的な方向へ人類を導く想いと
損得のみを考えて個人や集団を利益に導く想い
時に似てはいても本質は別物です
社蓄として「利益を与える事が善」と刷り込まれてしまった
彼がその呪縛から解き放たれる事があるのか?
そう考えさせられる話でしたねぇ




