>殺す事で感じる罪の意識など、社蓄として生きてきた俺の中にはもうない。
>殺す事で感じる罪の意識など、社蓄として生きてきた俺の中にはもうない。
>そんな人間性など、とっくに磨耗しきっていた。
「社蓄って心が壊れてる」という扱いなのが哀しいですねぇ
うーむ(━_━)
でも今の学生あたりからみるとそうなのかもなあ。
滅私奉公なんて言葉が愚行と考えられてるくらい
最近の若い世代は欧米的個人主義の価値観が刷り込まれてるからなあ。
確かに
終身雇用や家族への保障制度なしでの滅私奉公なんて
ただの奴隷化ではあるんですが
それは資本主義の構造的な害悪で
雇用者の間違いであって
社蓄と呼ばれる人自体が異常になってるというような論調は
年寄りには、やはり少し抵抗がありますねぇ。
それというのも
物質的には
階級主義と個人主義が資本主義と結びつくことで
労働者からの搾取が行われるわけですが
精神的には
個人主義の幸福観で悲惨である者が
社会的に尊重されないのは
「滅私奉公は愚行」という価値観があるからで
物質面での
資本主義と階級主義に対してのシステム的な問題提起ではあっても
精神面での
資本主義を悪徳へ導く煽動型コマーシャリズムの
「欲望を満たす事が幸福」とする価値観や
損得で動く事を基盤とする個人主義に対する問題提起がされてないという点が気になってしまうわけです。
階級主義を保持するためには
民衆の団結を邪魔する個人主義が推奨されるからこそ
離婚率や犯罪率がどれだけ上がっても
個人の欲望を満たす事が幸福であるという価値観が
マスコミによって刷り込まれ続けるのだという指摘を無視する形になりますから
まあ
問題提起として
被害者を悲惨に描写するのは常道ですし
あくまで主人公である○○○個人の場合で
社蓄と呼ばれてる人全般にを示してるのではないのでしょうが
タイトルからテーマを類推して
ふと、そんな事を考えてしまいました。
搾取型資本主義の価値観だと
資本主義は雇用者と従業員は理論的には闘争関係ですが
違う在り方を目指していた時代もあったのですが
属米政権が派遣会社を認めたり独占禁止法の骨抜きをして
バブルを招いて欧米化を勧めたせいでこの有様
自由化ではなく混沌化が進む米国経済に呑みこまれていくのを止めるのは難しい状況です。
たいてい格差への不満を国外に向けるために
こういう状況が続くと戦争が待っているうというのが歴史の常道ですので……
傲慢と卑屈
争乱を前提とした文化ではその二つの狭間に誇りという概念を発明した精神文化を構築しますが
現代では傲慢と誇りを同一視したプライドのみを理解し
「誇り」という概念は失われていっている気がします。
屈辱を受けたときに暴力で対抗するのがプライドなら
「誇り」は「主命」や「御家の為」それを堪忍する事も含み
武士道や騎士道という概念に発展していきます。
だからこそ
「面従腹背して寝首を掻く」のが戦術ではなく卑怯とされるのですが
「卑怯は褒め言葉」というのが欧州の貴族や商家の文化で
彼らはその方法論で結びつき「市民統制」という概念を発明し
国家で傭兵を使う事で武家の存在意義を失くします。
先の大戦はその総仕上げでもあり
欧州や日本の武家勢力は衰退しそのシステムを採用した「先進国」が「後進国」を支配せずに経済搾取する国際社会が形成されます。
「後進国」が「誇り」故に「我々は同じ道を進むのではない」と
その名称に抗議しても
論旨を誤魔化した「発展途上国」の名を与え
「先進」であり「上」なのだと驕る「傲慢」が
「誇り」が謳われる社会に「発展途上国」と名づけたように
第三世界という言葉が示すように
国際社会では貴族国家の先進国に対して民衆国家として扱われる裏の常識が蔓延っています。
この裏の常識は
表の「人道主義と民主主義」の常識は対立するものなのですが
しばしば「人道主義」を騙った理屈で戦争が謀られ
日本も貴族国家の下っ端として行動しています。
国民も貧乏貴族として甘んじるか
上級貴族を気取る権力者を楽しませるか略奪に参加して
成り上がるかの中で選べる「自由な社会」を謳歌する中
「農業はダサイ」「農業も商売」という風潮がマスコミを利用して造られ
農家を生業とした文化は消えていき
農家の文化で語られた「普遍的な善」も
「絶対的な正義」と混同されて語られる事も少なくなりました。
「どこにでもあって、それがあるからこそ社会が成り立つ人の善性」
それと同じ想いを基にした概念に
「理想」と名づけられた概念があります。
欧州では「神を騙る権力」に利用されて「絶対の正義」と不可分であるという誤魔化しをルネッサンスの懐疑主義者によって破られ
「理想」が「神の善性」にとって変りました。
その理想も
理想と悪徳の狭間に現実があるのではなく
「現実の反対が理想」なのだという理屈で「夢物語」に貶められ
「正義など人の数だけ存在する」という言葉が
「どこにでもあって、それがあるからこそ社会が成り立つ人の善性」すらも否定し
「正しいことなどどこにもない」という意味の
理屈として宣伝される中
こういった「正義と善性と文化」について考えさせられる話は好いですねぇ。
「普遍的な善」は確かに存在しますが
「善」を護るための「必要悪」を「正義」と名づけて争う事は「善性」の否定で
「善」とは争いの中には決して存在しないという考え方。
農業を生業とする人間の「誇り」から生れた
「和の心」という「普遍的な善」も
奪い合う経済という文化を造った商家の資本主義文化では
人の命にさえ値段をつけるくせに
「善」を根源とした精神文化の産物は
「価値のつけられないもの」として尊び敬遠した無価値のレッテルが貼られ
損得を第一とする効率主義で排他される現状。
それが間違ってると声をあげるものがいても
「善」を根源とした精神文化の産物に具体的な価値を造りだす社会にしようという人間の活動はマスコミに無視され理解され難いというのは
日本は貴族国家の一員として飼い馴らされてしまってる人間が動かす社会と化しているのでしょう。
しばらく海外で色々と見て回ったせいか
この話を読んでそんな事を考えてしまいました。




