> しかし、いくら善人であっても、兵士として戦場に出た者は、何の躊躇いもなく人を殺す。それが正しく善いことだと信じて。善悪とは、あくまでも相対的なものであり、その判断基準は生物の数だけ存在した。
> しかし、いくら善人であっても、兵士として戦場に出た者は、何の躊躇いもなく人を殺す。それが正しく善いことだと信じて。善悪とは、あくまでも相対的なものであり、その判断基準は生物の数だけ存在した。
●
もし本当に
兵士として戦場に出た者が、皆、何の躊躇いもなく人を殺すのなら
「戦場神経症」で苦しむ兵士などいないでしょうし
兵士は、決して日常に戻れません
多くの兵士は殺人は悪い事だと知っていて行っています
戦争で敵を殺す行為は、殺人犯を死刑で殺すのと同じ「必要悪」であるとして
自らと仲間の命を敵の命と比べて優先順位をつけ
味方の命さえも勝利のために切り捨てて殺しあうのです。
「日常の善悪」と「戦場の正否」とは根本的に別物で
正解と間違いの判断基準は人の数だけ存在しますし
「必要悪」を“ 理想を護り命を守る「正義」 ”とセットにして混同させる
愚民化政策の誤魔化しを信じる人もいれば信じない人もいて
そこらは人それぞれですが
「正しく善いことだと信じて人を殺す」ような
一部の狂気に呑まれた人間以外、日常の善悪を見失ってはいません。
そう、戦場での狂気はあくまで例外なのです。
兵士は
悪いと解っていても愛や欲望のために
時に自分を誤魔化して罪を犯す
私達と同じただの愚か者です。
●
またマスコミなどでは
個々人の価値観の違いを「人類種の価値観」と混同した誤魔化しで
「善悪とは、あくまでも相対的」だから「善悪の判断基準は無数」
とよく語られますが
それは詭弁です。
なぜなら
戦争が「正義」と騙る人間であっても「敵を殺し味方を守ることが正義」
という「敵と同じ判断基準」で行動しているからです。
「自国の利益や自国民の安全のために」という判断基準で彼らは行動します。
それは「必要悪」の拡大解釈であり「正義」を騙る行いであっても
彼らの判断基準は同じで
敵や味方という対象が相対的なだけなのです。
●
「善悪が相対的」という例えの図を
善が上で悪が下と考えてみてください。
善悪が絶対的な二方向にあるのではなく
善とは重力と反対方向の上で無限に存在して宇宙に広がり
悪とは唯一にして地球の中心点にあるといった図です。
ちょっと
ややこしいでしょうが
相対的な善悪というのは
科学的な視点での倫理へのアプローチで
つまり
自分から見ての正義が上方向と考えるなら
自分から見て地球の裏側の上方向は
自分の正義の方向と逆の下方向に見えるということで
地の底にあるのが悪であることには変わりはないわけです。
相対性でいうなら善とは常に地に堕ちない方向性でベクトルを持ち続けることですから
常にその方向は一定ではないけれど普遍性は持つわけです。
これは
殺人そのもが悪なのではなく、命を粗末にするのが悪という類の考えかたですね。
これが
自分視点による絶対の正義による勘違いを否定する
本来の相対的善悪解釈です。
●
何も考えず全てを諦めて目先の欲望だけを追って
ただの動物として生きるのではなく
人という社会的動物として社会に対して何かを求めるのなら
「その他多勢のための理想」を護らなければ世界は簡単に不幸であふれてしまいます。
太古の昔に洞窟で生まれた言葉も持たない毛無の猿も
現代の人間も肉体的には同じホモ・サピエンスという動物でしかないのだからそれは当然でしょう。
ですが
言葉を発明して精神文明を築いた人間は
かつては「神」という善の規範を
現代では「理想」という規範を発明しました。
だからこそ人は最初に子供に
「人を人たらしめるもの」として
善悪を教えます。
つまり
善悪は「人が野生動物でなく人であるための概念」なのです。
だから
善悪とは人類全体という公平な観点で語られるべきもので
善という概念の根源には
「人類の生存戦略」である
“ 自然によって淘汰される事を社会を創り助け合う事で免れる ”
というものがあります。
●
野獣や殺人犯を野放しにして人に害をもたらさないように護るための「正義」
暴力を暴力で抑える方法論である「必要悪」
聖書宗教の文化で
司法制度をJustice System というように
欧米では二つを故意に混同させたマインドコントロールにより
必要悪と正義を同じものとした聖書宗教の誤魔化しが常識化しています。
善と正義は別で
正義と必要悪も別という考え方を忘れて
単純である故に聖書宗教の考え方を指示するのではなく
きちんと考えていってほしいものですが……
解り難い話なのでついつい長くなってしまいましたねぇ
あくまで一読者の無責任な感想なんですが
どうにも細かなことが気になってしまうのが僕の悪い癖で(笑)




