>現代兵士が戦場で病み、使い捨てにされる現実から、そんな方法は存在せず、行ったら戻ってこれない道なのだと。
仰るとおり、現代人の精神的構造では、そんな方法は存在しないと思います
けれど、武道という概念のない時代から続く武術というものを調べると
かつては、そんな技術は物理的な技でなく
生き方そのものとなった業として伝わっていたことが判ります
私の出身地の九州では、明治生まれの方々の世代までは
家に財産として武術が伝わっている家系が多く残っていました
現代では知識は広められて当然ですが、近世までは技術は秘匿されていたということは
割とよく知られています
けれど、何故か武術もその技術の一つで体系化されてなくて当然
と考える人は少ないようです
そういう意味では、武術は秘匿されていましたが一般の技術でした
だから、技術の目指す方向として
「憎悪の制御をして悪鬼の如く殺戮して戦う方法と、暴力を忌避する平和な日常へ戻り、さらにそこで精神を保つ方法」を得るというのは共通した基礎のようなものでした。
武術は死生観や宗教観と深く結びつき
命というものは消えて当然という時代にこそ必要とされた技術ですから当然と言えば当然です。
現代風にいえば、命の安い時代ですが、それは命を軽く考えているのではなく
命の対価は命以外にはないという「命に価値をつけられない」という時代でもありました。
命も金額に換算される現代という時代になると
現代科学の合理性と商人支配の世界を否定する部分があるために
そういった部分は近代化と共に武術から排除されていきました。
要は個人の武勇が戦況を覆せないほどに戦争の道具が発達した時代が
そういった精神性を持つ人間を必要としなくなったからスポイルされたのでしょう。
そうして残ったのが武術の精神を排したスポーツ武術や現代の常識に迎合した近代武道です。
現代でも「命を賭ける」という言葉は残っていますが
それを文字通りの意味で考えて使う人間は少ないと思います。
だからこそ、古流武術の基本精神はそこにあります。
()内の自分が最も大切と思う理由は様々ですが
お互いに自分のかけがえのない命を賭けて、相手が賭けた命を奪い合うのが
(神に捧げる・武士の誇りとなる・忠義を示す)戦いである
という現代の戦争が狂信や非合理として排除した精神性が
「戦いは憎悪を胸に秘めて冷静に狂う事で行う祭り」としてハレの舞台
「普段の生活は己を磨き戦いに備える」ケの日常
という思想を作り出すわけです。
医療も未発達で
身近な人間の死を看取り
場合によっては介錯として命を奪うのが当たり前だった世代だと
命とはホントウに身近だからこそ
大切ではあっても失われて当然のものであり
命の大切さと
命が失われて当然という考え
その二つは決して矛盾せずに人の心の中にありました。
近代では命は遠くなり
この二つが矛盾した考えと想う人間も多くなりました。
そういった人達には
「憎悪の制御をして悪鬼の如く殺戮して戦う方法と、暴力を忌避する平和な日常へ戻り、さらにそこで精神を保つ方法」は決して得られないでしょう。
人を殺す道具であることを自覚させられた兵士による戦争と
命の価値を金銭として計算する事を当然と考える社会。
その二つの狂気が武術の「狂気の制御」という精神性を否定し
制御できない憎悪の連鎖を招いているのが近代の歴史のような気がします。
まあ何れにしろ
それは生物に組み込まれた共食いや子供食いといった類の「人類の自滅本能」に根ざした狂気を肯定している点で
人文科学視点での「ヒューマニズム」に反した人類が克服しなければいけない「戦場の論理」と「戦場の狂気」なので
命の大切さと
命が失われて当然という事実
その二つがあるからこそ
「行ったら戻ってこれない道」ではなくても
「行くのは人の道から外れた道」なのだと理解しなければいけないのでしょうね。