>互いに使わないと分かっているのだから持っていても問題はない。銃の所持はあくまで精神衛生上のためだから、やはりニホンは他者を思いやる心を持っている。
>互いに使わないと分かっているのだから持っていても問題はない。銃の所持はあくまで精神衛生上のためだから、やはりニホンは他者を思いやる心を持っている。
二つほど違和感があります
一つは彼等が軍人らしくないという事です
「精神衛生上、武器を携行することを望む軍人」っていますか?
そう軍人に尋ねればたいていはノーと答えるはずです。
びびり屋あつかいするなと気の荒い者なら言うでしょう
そうでなくても体面上や誤って使ってしまう自分を恐れてノーと答える筈です。
彼等はそう教育されます。
建前では
軍人にとって武器は「使うべきときに使う道具」であって
「武器を安心毛布の類」として考える軟弱な精神性は矯正されるべきものなのです。
これは「やくざやチンピラなどの犯罪者」と「国家の利益のために死ぬ軍人」を分けるための重要な教育課程の一つでもあります。
「使うべきときに使う」とは「使うべきでない場には携行しない」という意味もあります。
友好の場で銃を抜くより、銃を持たずに殺されて国益になるのが仕事なのです。
もちろん全ての軍人がそこまではしませんがそれがあるべき姿とされ
敵地になるかもしれない場で友好を示すとは軍人にとってそういう意味を持ちます。
そして銃とは実用の道具なので
その能力と危険性と限界は叩き込まれますから「安心毛布」などにも成り得ません。
兵器のプロである彼等には
銃なんてたいした戦力じゃないのは骨身に滲みているのです。
彼等は「銃に過剰な力や信頼」という幻想を持たない殺し合いのプロとして教育されますから。
まあ
現代でも先進国でない国や傭兵や犯罪組織が牛耳ってる国家などで
徴兵制で教育もしないまま軍人にする時代の常識が残っている国もありますが
彼等は違うでしょうから。
で
もう一つは「思いやり」についての考え方です。
思いやりとは
「深慮」や 「歓迎の気持ち」や 「厚意」を表す言葉で
「配慮」が精神的な根幹にある言葉です。
だから
信頼関係を築くための友好的な会談である以上
これを思いやりに関わる類の話というのは詭弁を基にした
本末転倒の論理なのです。
解りやすく例えると
知り合いの企業が業績不振なのを思いやって知事は公共事業をまかせる事にした
っていう類の使い方だということです。
この話なら
武器をお互いに手放しての会談ならば
お互いに信用して思いやりを持つということになります。
けれど
お互いに武器を持っての会談は
使わないと解ってはいても
それは「互いに疑いを持つことを認め合っている事を前提」としています。
思いやりではなく
こういう行為は
「馴れ合い」や「便宜を図る」と呼ばれますが
昨今の政治屋がこれを「思いやり」と表現する類の誤魔化しを使い
本来、それを糾すべきマスコミが馴れ合っているので
思いやりの意味が捻じ曲げられている気がします。
思いやりと馴れ合いなどの違いは
「配慮」をきちんとできているのかということです
要は
道理に適っているか筋が通っているかという事に
配慮できているかで
道理とは言い換えるなら
「不特定多数の人間や集団に対する配慮」なので
誰か特定の人間や集団への配慮を
不特定多数の人間や集団に対する配慮より優先させれば馴れ合いや便宜。
一線を引いて「友好の場に武器は持ち込まない」という道理を捻じ曲げないで
この物語で云うならば
「大きな窓ガラスのある高層ビルに部屋を取る」とか
「巨大なハンモックつきの改造車両で移動」とかの
心理的な配慮をするのが「思いやり」です。
公私混同でこれを曖昧にすると
当然ながら、あらゆる公共の人間関係は腐敗の温床になります。
政財官の癒着が当然となったせいか
愚民政策でそういった言葉の使い方が初等教育から外されたせいか
ニュースなどでも
この類の安易な「公私混同の誤魔化し」を口にする人間が増えています。
道徳で教わるべき倫理面や哲学面の考え方や言語を知らない若い世代も増えてきていますので
細かな事ですが少し気になりました。
まあ
逆に言うなら
この類の誤魔化しを公共の場で平気で口にする人間が主張する政策や経済論は裏があって当然で
公私混同も解らない愚民どもと国民をバカにしている人間か
公私混同の意味も解らなくなるほど腐った馬鹿
だと解る時代だとも言えますが……。




