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>残された者の心情を考えれば >殺したなら殺されてもしかたない >「それでも同じ人間じゃないか!」と言って聞かない頭にお花畑がありそうな奴

感想で誤解されたようなので以下の部分を

るびをつけた文章に変更しました


「命の価値は同等である」というのを否定するなら

正当防衛が許されるのは「自分の命」が「誰かの命」より優先されるからだという「主観的」で利己的な考え方になります。



「命の価値は同等である」という客観性()を否定するなら

正当防衛が許されるのは「自分の命」が「誰かの命」より優先されるからだという「主観的」で利己的な考え方になります。



これは、()く聞く「歪んだ理屈」ですね。


私は必ずしも死刑廃止論者ではありませんが

「法の下の平等」が実現できない場合は死刑は「必要悪」ではなく「悪」になると考えます。


だから

「被害者家族の心情」という千差万別の心情を一括りにして理由にするような「煽動的な感情論」で法を語るのは危険だと思います。


「それでも同じ人間」というのをどう解釈するかで変りますが


「殺していい人間と悪い人間を権力が決めるな」という意味で「それでも同じ人間」というのなら


その考え方は暴力的な感情論ではなく、共存原理という理に沿った正しい「法の下の平等」を謳う「法治主義」です。


どういう事かというと


死刑を「殺していい人間と悪い人間を権力者が決める事」と考えるなら

「権力者にとって都合のイイ合法的殺人手段」になるのが死刑だという事です。


それは歴史が証明しています。


「日本は素晴らしい国だからそうはならない」といいきるには

権力者が「理想的な人道主義者」であるか

国家システムが健全に「民主主義」によって民主制を行っている

必要がありますが


いわゆる「頭にお花畑がありそうな」

能天気な人間でないのならそう思いはしないでしょう。


長いモノには巻かれろ

臭いモノにはフタ

触らぬ神にタタリなし


そういう言葉を実感せず、ハラスメントもイジメもなく

権力者もホームレスも平等に扱う人間を

「頭にお花畑がありそうな」と呼ぶ事自体が


「公平な民主主義」はなく「カースト社会」が正しいと考えている事だからです。



ならば

「それでも同じ人間じゃないか!」と言う主張をする人間は能天気な人間でなく


現実を知って「それでもそうあるべき」と語る人間

という事になります。


そうでない能天気な人間なら「そもそも正しい事を行おう」などと考えないでしょう。


人間の善性を信じるなら犯罪者も権力者も等しく信じ、人間の悪意を疑うなら犯罪者も権力者も等しく疑うのが「法の下の平等」の考え方です。


「特定の人間達」の感情で「殺していい人間と悪い人間」を決めるという理屈は


「特定の人間達」である「被害者家族」を「権力者」に入れ換えれば怖ろしい理屈です。


そういった「法治主義」を破り「人治主義」を信じて死刑を行えという理屈は認めるべきではないという話ですね。


次に

「法治主義」の観点で倫理面を考えるのなら


死刑の問題は「戦争」と同じ「必要悪」という意味で語られるべき問題です。


「それでも同じ人間じゃないか」というのは

「命の価値は同等である」という話ですが


「命の価値は同等である」という話を基にした考え方を「頭にお花畑がありそうな考え」とバカにする者でも


「自分の命を護るためなら殺人も「必要悪」として許されるという


「正当防衛での殺人」まで批難する人間は少ないでしょう。


「命の価値は同等である」という客観性()を否定するなら


正当防衛が許されるのは「自分の命」が「誰かの命」より優先されるからだという「主観的」で利己的な考え方になります。


それは「自分にとっては都合の好い話」でも

万民のための客観的な「法」ではありません。




「正当防衛での殺人」まで批難する人間は現実社会でもいますが


そういう主張をする「プロ市民」のような人間は

ほとんどが利権の為に信じてもいない主張を理に適っていなくても声高に叫ぶ人間で


どちらかというと

正義にも人の命にも興味がなく

反対を叫ぶことで得られる利益めあてなだけで

主張の内容を考えたことさえない人間が多いようです。


そういう人間の脳みそは

お花畑ではなく欲まみれです。


表向きの大義名分をただ唱えるので

一見そう見えてしまうだけで中身は

「別に自分に関係なければ誰が死のうがどうでもいい」

と思ってるのは実際にあって見るとよく判ります。


そういう人間達を「頭の中がお花畑」などといって

理想主義=馬鹿者と喧伝する者もそれは知っています。


それでもそう喧伝するのは「頭の中がお花畑」という言葉を口にする者も欲まみれだからです。



本当の理想主義者や人道主義者は

世の中の汚い部分を見つけたときに正しく汚れを落そうと考える人間で


汚れを見ないふりをしたりする欲まみれの人間や

汚れたモノごと始末しようという欲まみれの人間ではありません。


汚れたモノが

水洗いしていいものかとか

どんな洗剤を使って洗えばいいのかとかを考えて


モノ自体を壊さないようにキレイにするのは難しく

そして根気とエネルギーのいる作業です。


中にはどうしても汚れが落ちないモノもあるでしょう。


その場合はどうするのかを場合に応じて考えてモノを大切にするタイヘンな生き方が

理想主義や人道主義の生き方です。



現在の資本主義文化はそういう生き方を否定していて

人を汚れまみれにしていき


目に余るほど汚れたモノを切り捨てながら


それを人間にもあてはめようとすることが多々あります。


そして

「必要悪」という汚れが「悪」という汚れに変る時

多くの小さな悪は切り捨てられても権力に巣食った巨悪は切り捨てられず残ります。



「頭にお花畑がありそう」という侮蔑表現は

そういう風に考えると実に的外れな表現です。


本当に「頭にお花畑がありそう」な能天気な人間とは権力に媚を売り何も考えずに権力者が常に正しいのだと考える人間です。


最後に理に適った客観的な「法」ではなく

感情による「復讐」についてですが


利権のために戦争を引き起こすとき

一般市民を争わせて団結して権力の横暴に当たらないようにするとき


現代の社会で権力はある種の常套手段として復讐を薦めます。


だから時にマスコミの一部は印象操作をして

被害者家族の感情などを訴えますが


彼等が本当の意味で被害者に対しての理解を持っているわけではないでしょう。


怒り、憤り、義憤、と憎悪や報復の快感は別の感情で

嫌悪や忌嫌う感情に裁きを求める感情もまた別


復讐心はそれらの混合した想いで一言にそう言っても

個々人でその内容は別です。


そういった事も考えず

被害者の身内の心にずけずけと踏み込むようなマスコミは


どちらかというと

加害者の親族までも一纏めにして

悪と断じての社会的制裁こそが正当な復讐の権利だと

煽るような場合まであります。


そういった者達の態度に

一般論で俺の怒りを語るなという憤りを覚える人もいるくらい

復讐心というのは個人的で複雑な想いです。


それは本来は安易に他者が触れてはならないほど重いものです。


ですから、「復讐」について一般論として語る事は意味がありません。


それを考えると七十九話の主人公が

「オマエもオレのように復讐を望め」と復讐心を煽る行為は

真剣に復讐というものに向き合っているとは思えない軽さがあるように思えます。


まあ、実際に犯罪被害にあったり戦火を経験した事がなければ

そう不自然には感じないんでしょうが


どうにも復讐というものの扱いに

マスコミの人間めいた「他人事の雰囲気」を感じてしまいました。


もし、そういった実在の復讐者に興味があるならば


裁判の傍聴などというものもありますし


ノンフィクションでも取材をもとにしたフィクションでも

復讐を描いた作品は多くあるので視たり読んだりしてみると

いいかもしれません。


まあ

重い話はウケが悪いと考えての結果かもしれませんし


実際の復讐者とファンタジーのキャラを一緒にするなと言われればそれまでの感想なんですが

テーマが復讐ということなのでつい色々考えてしまいました。


どうにも細かいことが気になってしまうのが僕の悪い癖で(笑)







以下は

この話が「死刑制度の是非について」の話だと

誤解があるようなので感想返信から追加を



●※コピペ

死刑制度の是非についての話ではなく


サブタイトルの



>残された者の心情を考えれば

>殺したなら殺されてもしかたない

>「それでも同じ人間じゃないか!」と言って聞かない頭にお花畑がありそうな奴


という作者さんの物語の「私的制裁」についての感想ですから当然だと思います^^



いわゆる「チート独裁者の人治主義」の危険性に対する感想で



「必ずしも死刑廃止論者ではありませんが」というのは

「心情は理解できる」という意味の単なる前置きです。



私も「印象論・感情論」で制度というシステムについて語るのは意味はないと思います。


ですので感想ではあっても理と情は分けて書いているつもりです。



理については



犯罪抑止効果の正当性がなければ

今の北朝鮮やスターリン時代のソビエトや中共や多くの独裁専制国家で行われる不幸のように

国家組織による「私的制裁」が行われるので


「印象論・感情論」を抜きにした公平で客観的裁判を行うべき



という民主主義による法治主義の話ですね。



情については



個人的感情である復讐を他者が「判る」などというのは烏滸がましいのでは?

ましてマスコミが「法制度」に絡めて語るのなら煽動になる


という「復讐」についての話です。



メインタイトルにもあるとおり

これは「実際に私が書いた作者さんへの感想」ですので


本文の前提で勘違いされたなら「まぎらわしくて、すみません」

※コピペ終わり




●※コピペ


前提を知らないでただのエッセイとして読んでしまうと

非常に判り難いのですがこれは「他の作者さんの物語への感想」。



元の物語が法治主義で行われる死刑と

人治主義で行う裁判もなしの「私的制裁」を混同して


いわゆるチート能力で「国家を自称する組織」の絶対的独裁者で「神の代弁者」となった主人公が


敵を捕まえて殺すだけの事をこれは「死刑」であると騙り

「正当防衛」でもあり「復讐」なのだという主張をしながら政治とは無関係な人間を虐殺をする異世界の話なので


「それは違うよね」という感想を書いたものです。



>死刑を「殺していい人間と悪い人間を権力者が決める事」と勝手に仮定した上での批判になっている。(少なくともその後の例示で出てくる日本国においてそのような制度ではない)。


再度、言いますが


「死刑制度批判についての論文」ではなく

「私的制裁についての否定の感想」をそのまま掲載したエッセイです。


つまり「日本の死刑制度に対するストローマン」ではなく


死刑を「殺していい人間と悪い人間を権力者が決める事」として描いた物語への感想です。



ですので

これは現代に当てはめるなら


「犯罪組織のボス」が敵対組織の人間を一般人の被害も関係なしで虐殺する物語への感想として読むといいかと思います。


国家組織がそんな「チート能力を持つ犯罪者のボス」の手に落ちて

検察も裁判官も言いなりになったら「死刑」はただの「私的制裁」になるよという感想で


つまりは

民主主義が正常に機能しなくなりかけている国家では

「法」自体がどれほど正しくても「公正な裁判」が行えず


日本を含むどんな民主制国家も一部では「テロ対策」などの名目で超法規処置が行われているのが

国際社会の現状で


「違憲立法審査権の行使」という面で考えても

民主主義は形骸化していっているようなので


そうやって


ワイマール憲法下でナチス独裁政権が誕生した後のように

完全に司法が正常に機能していなくなってしまえば


民主制国家だろうと権威主義で運営されるなら

「万民のための法」は形骸化して「権力を守るための掟」になってしまうという話なんですが



判り難い文章で申し訳ない。



>正当防衛が許されるのは、違法に法益が侵害される恐れが切迫している場合において、当該法益を守るためにやむを得ずした行為が罰せられないというもの。これは侵害行為と対象法益の違法適法の観点であって、命の価値の平等性は関係ない。それだったら過剰防衛という概念が存在しなくなる。誤った定義に基づく反証。


これは私のエッセイの


※コピペ


「命の価値は同等である」というのを否定するなら

正当防衛が許されるのは「自分の命」が「誰かの命」より優先されるからだという「主観的」で利己的な考え方になります。


 ※コピペ終わり


という部分の感想でしょうか?


これは「正当防衛についての法解釈の誤った定義に基づく反証」ではなく

主観と客観について語った話ですね。


「命の価値は同等である」という客観性によって判断されるべき「正当防衛」と

主観的な「殺人の正当性の主張」は違うという論旨の文章です。


「命の価値は同等である」という客観性()を否定するなら

正当防衛が許されるのは「自分の命」が「誰かの命」より優先されるからだという「主観的」で利己的な考え方になります。


という意味ですね。


「過剰防衛の殺人」はこの論旨だと


「放っておけば次は殺されるかもしれないから後腐れのないように殺しておけ」という理屈で行われる

主観的にはともかく客観的には「正当防衛」と認められない利己的なものだという事ですね。


念のために言うと

この「放っておけば次は殺されるかもしれないから後腐れのないように殺しておけ」というのも物語内の主張ですから


要約するとその部分は


「それは正当防衛じゃないだろ」

「力の差を考えると過剰防衛どころか殺意が立証できればただの殺人だろ」という私の感想ですね。



>「本当の理想主義者や人道主義者は世の中の汚い部分を見つけたときに正しく汚れを落そうと考える人間」というのはまさしく抽象論。


これも同じように犯罪者のボス思考で「利己主義を認める事を人道」と騙り「世界を浄化する殺戮を理想」と騙る主人公に対しての感想ですから


「死刑制度についての抽象論」ではなく

「物語で語られた例え」に対して返した「ただの例え」ですね。


要は

「自分が行う殺人は汚い世界の浄化だから正しいという物語に対して

同じような例えを返した部分ですね。




>全体的に、藁人形論法、自然主義的誤謬あるいは感情が充填された語の使用が目立ち、そのあたりから作者の個人的な主義主張(反権力志向なのかな)が強すぎて、作品の感想とはとても思えなかった。



個人的には

反権力志向ではなく「権威主義による形骸化した民主制」を否定した「民主主義による民主制」を志向する人間のつもりです。


私が「作者さん達の作品」について書いた感想を並べているこのエッセイですが

「作者さんの主義主張」が強く感じられるような感想元の作品が「反権力志向」なので作者さんが使用した言葉をそのまま使っていますからそう誤解されたのかもしれませんね。


要は

一人称主人公の主観とはいえ


「自然主義的誤謬や感情が充填された語」

で語られる「死刑や正当防衛に対する歪められた認識」の「誤った理屈」を


物語で語り続けるなら「藁人形論法」で正義を語る事になるから


正しい反証も必要なので

反証をどう物語に盛り込んでくれるのか期待しているという感想を

どの作品に対する感想かを解らないようにした一部分が


このエッセイというわけです。



>批評を募集していないのに批評っぽいことを書いてすみません。


いえ、「論文」ではなく全体としては「ただの感想文」ですから「批評」すべきものかはともかく


「そこは違うのでは?」


という「感想」を頂けるのは嬉しいですね^^





 ※コピペ終わり

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