>死生観は……誰かを殺したら、殺されて当たり前。それが嫌なら殺されないようにしなければならない
それは、死生観というより
「人間の動物としての有様」ですね。
全ての野生の生物が生まれながらに背負った獣の原理です。
精神性として
「知性体としての在り様」を含めれば
人間は動物としての生き方以外の何かを求めてきました。
それは制度の発展であったり
技術的発明であったり
社会正義の普及であったり
新たな娯楽の創造であったり
人によって様々です。
ただ動物として生きそして動物として死ぬのなら死や生を考える必要はありません。
微生物でさえ当然のようにやっているわけです。
人間としての死生観とは
動物としての生き方以外の何かとして考えられてきたわけです。
古代では多くの人々は
それを考える生活の余裕はなく
死生観は宗教に頼っていました。
宗教にそれを頼むと死生観は一様化しますが
そうでないなら「善と悪」の在り方のように
死生観は個人で様々に分かれていきます。
現代では個人主義によって死生観は多様化して
戦場や事故現場や災害現場などの非日常
あるいは病院や葬儀社などの日常で
人の生と死に係わることで個人の死や生についての考えは生まれます。
死と生を考えるとき
人はどういう生き方をしてどういう死に方をするのが
よいのか?
漢字にするなら
良いのか?
好いのか?
善いのか?
を様々な価値基準で「意味のある生と死」を考えます。
野生動物には必要のない「意味」を「死と生」に与えることで
生まれるのが死生観です。
生や死の意味なんて考える必要がないといって
「人間の動物としての有様」を全面肯定して
「知性体としての在り様」を全面否定すれば
それは死生観の否定です
死をただの「キャラの消費」として描くか
「死生観を基にした死」として描くかは作者の自由です
けれど前者を選んだ場合
作者にその意図がなくても、「人間の獣性」や「人間性の否定」の物語になりやすいのは確かです。
平井和正などのように
意図して「人間の獣性」を書く作家もいますから
それが意図したものなら否定はしませんが
人間は獣以外の一面も持つという事を忘れると
容易く「人間性の否定」の物語になってしまいます。
復讐や憎しみを描くのにも
「どうしようもなく」行わずにはいられないものとして消極的に肯定して描くのか
「それが当然のこと」と正しい在り方として描くのか
「楽しんで」積極的に肯定すべきものとして描くのかで
イジメをテーマの学園ものに例えるなら
イジメ自体を否定できない「弱い人間の哀しさ」を描く話になるのか
イジメは巡るという因果応報の話として「復讐の正義」を語る話になるのか
ただ「イジメの対象が移り変わる」だけの話になるのか
と様々に変わります
このサイトは無料で読むのが前提なので学生読者が多く
「イジメをなくす話」より
「復讐の正義」を語る話や
「無意味な死を否定的に描くのは古い」→「古いものより新しいものが良い」→「無意味な死を肯定的に書くのは新しいから良い」という考えで
書かれた作品も増えています
そうなると「復讐の正義」を語るつもりで
「イジメの対象が移り変わる」話も生まれています。
要は
「イジメって楽しいよ。強くなってイジメしようぜ」
という話になってしまう作品が
作者の意図しないとこで生まれてしまうのです。
「復讐の正義」は描くのが難しく
「十字軍の正義」や「魔女狩りの正義」や「国粋主義者の正義」という史実の話を考えると
戦争と結びつけると更にあつかいが難しい話です。




