>為さぬ善より為す偽善
今世紀になって偽悪的人間に好まれたせいか割と頻繁に使われるキャッチフレーズですが
「しないのが偽善で、やってこそ善行」でも
「偽善とよばれても、為す勇気を」でもないのは
偽善という言葉が小さい範囲や個人の内面でしか語られなくなっているせいなのかもしれませんね。
偽善というのは、昔はもっと重い意味で「裏で悪事を働く外道」に近い意味で使われていて
だからこそ
「この偽善者め!」というような
「悪口雑言」としても使われていました。
それがここまで軽く使われだしたのは何故か?
一般常識から社会意識というものが失われていっているのかもしれませんし
偽善で成り立つような誤魔化しと嘘まみれの「利権の為の政策」を批判されない為の愚民化政策によるモラルハザードなのかもしれませんし
その両方かもしれません。
人間という存在は
もともと善悪で割り切れるような存在ではないし
精神的充足のためか物質的充足のためかは別にしても
自分のために行動するものなのだから
それは偽善などでない普通の事なのに
「普通の人間=偽善者」などと騙って貶めるのは、性質の悪い宗教かカルトの理屈で
自分達のみが「善」であり
普通の人間が堕落しているというように
人というものを語る者こそが「偽善者」である。
あるいは
人間は共存原理なしには生きられない弱い存在であるのに
それを認めない甘えで暴力原理を信仰し
人間は動物的本能に従う事が正しいのだから
共存原理である「善」は幻想か嘘として排斥する事が正しく
「普通の人間=偽善者」で「善」など何処にもなく
「善」を語るものは全て「悪」だから
利権を分配して利益を与える権力者に服従するのが
人間の正しい在り方だという権威主義の理屈で
「人間が人間を服従させて操る本能に従う生き方」以外の生き方などないと騙る者こそが「偽善者」である。
かつては、そんなふうに語られていたのですが
こういった「偽善」の意味では
言葉は本質を失ってしまいます。
生れた時から「誤魔化しの偽善」の意味を聞いて育った世代の人にはそうでもないでしょうが
善悪観のような人間の根本に関わる言葉の意味が歪められていくのには不安を感じます。
悪を隠すために為されるのが「偽善」
善に成りきれぬ者が為しても「善行」
口先だけで何も為さぬ「偽善」
そう考えるのと
「為さぬ善より為す偽善」
という意味の「偽善」では
利権の為に無意味な復興支援をする「偽善」という言葉一つでも大きく意味を変えます。
「善」を貶め「偽善」が普通と騙るのと
そうでない本来の意味と
どっちの「偽善」を使いたいかは
その人次第ですが
どっちの「偽善」を使うべきか?
そう考えると
この言葉は「使う人間の価値観や思慮深さ」を示す言葉になっているように思えます。
主人公は偽悪者だから
この言葉を使っているのでしょうが
最近は「偽善」の本来の意味を知らない読者もいますので
本来の「偽善」と
この言葉が示す「偽善」がどう違うのか?
を示すエピソードも読んでみたいですね。




