脳無き者②
巧は背中をさすりながら立ち上がると、目の前にいる少女を見つめた。
少女はあの夜と全く同じ格好だ。黒い絹地のワンピースに、きめの細かい白い肌。肩まである黒い髪は路地を吹き抜ける風になびいている。
「君を探していたの。アパートに行っても留守みたいだったから」
彼女の言葉に、巧は後ずさりした。――なぜ、僕のアパートを知ってるんだ?
「僕を殺しに来たのか。あの夜、きみを見たから。きみから逃げたから。」
彼女は目を瞬かせた。
「僕を殺すんだろ! その自転車みたいに真っ二つにして!!」
巧は叫びながら路地を確認する。ここには彼ら以外誰もいない。路地は狭く、逃げようにしてもすぐ彼女に追いつかれるだろう。彼はもう、ほとんど諦めかけていた。
「さあ、殺せよ。切り裂くのか? 脳を取り出すのか? 好きにしろよ!!」
「――黙って」
彼女の一声で巧は口を閉じた。
「その自転車を壊したことは謝るわ。だって、君がまた逃げると思ったから」
「弁償はするわ。君の古い自転車も預かってる」
「え……」
巧は開いた口が塞がらなかった。彼女がすぐにでも自分を殺しにかかると思っていたからだ。しかし、そうではないらしい。
彼が呆気に取られていると、少女は「ついてきて」と言って、路地を歩き出した。
巧は遠ざかっていく少女の細い背中を見て躊躇する。
本当に彼女についていって良いのだろうか。彼女は殺人者だ。得体の知れない力も使える。彼女が連れて行った先で巧を殺してしまうかもしれない……。
「どうしたの」
少女は二の足を踏む巧に振り返った。彼はそれに頷いて答える。
――どうせ、住所は割れてるんだ。それに……。
巧は壊れた自転車に目をやる。
――自転車、壊されちゃったしな。
巧が彼女について行こうと一歩踏み出したとき、彼は自分の中の「平穏」がもう跡形もなく崩れ去っていることに気づいた。
瀬の原駅の駅前広場、その向かいに立ち並ぶ雑居ビルの一角にその古ぼけた貸しビルはあった。巧が少女に連れられてきたのはその貸ビルの二階に入っている『宮地探偵事務所』であった。
少女が事務所の扉を開けると、扉に備え付けられた鈴が、からんと鳴る。
巧が部屋の中に入ると、そこは応接間のようだった。部屋には革張りのソファーが向かい合うように置かれており、その間にコーヒーテーブルが置かれている。テーブルの上には、新聞紙や空き缶が山のように積まれており、客の入りが少ないという印象を巧に与えた。
「そこに座って待ってて。いま宮地を呼んでくるから」
少女は巧にそう告げると、奥の扉へと入っていった。
巧はソファーに座るとため息をついた。
おそらく、彼女が呼びに行ったのはこの事務所の所長だろう。そして、そいつはヤクザと裏で繋がっていて、少女はその手足となって人間を殺している。彼女は人体改造を受けた殺人マシンだった――。
頭に浮かんだ空想を巧はすぐに打ち消した。そんな漫画のような話、あるわけないのだ。
しかし、巧は実際に見ている。人を素手で切り裂く少女を。脳髄の無い頭、眼球の消えた死体を。あれをどう説明するというのだ。そして、なぜ巧は巻き込まれなければならないのか。
巧が頭を抱えていると、奥の扉が開いた。
「やあ、君が巧ちゃんかあ。スマンな、待たしてしまって」
部屋に入ってきたのは、およそ探偵には見えない開襟シャツを着た茶髪の男だった。歳は三十代前半だろうか、笑みを浮かべた口から白い歯が覗いている。
男は巧の向かいに座ると、自己紹介を始めた。
「俺は宮地要。ここの所長をやらしてもらってる。まあ一応探偵なのかなあ?」
なぜ疑問形なんだと巧は心の中で呟くと、「あの女の子は誰なんですか?」と宮地に尋ねた。
「ああ、冴奈のことか? 彼女は帰来冴奈。俺の助手みたいなもんだ」
「かわいいだろ? ちょっと仏頂面だけどな」
巧はそれには答えず、要件を切り出すことにした。
「さっき、あの子に壊された自転車代と、あなた方が預かっている僕の自転車、返して欲しいんです」
「ん? 自転車代? 冴奈の奴、また壊しやがったな。分かった、分かった」
宮地は財布から二万円を出すと、巧に手渡した。
「自転車はビルの脇に停めてある。帰りに乗って行くと良い」
「ありがとうございます」
「――にしてもだ、巧ちゃん」
宮地の声が急に低くなった。
「よく、あんな血生臭い現場に、自転車を置き去りにできたな」
巧は部屋の空気が冷たくなったように感じた。宮地はあの真夜中のことを言っているのだ。
「あの自転車。名前も住所もぜーんぶ書いてあったぜ。もし冴奈のやつが快楽殺人者だったら、君。今日まで生きていられなかったぞ」
「か、彼女は殺人者ではないとでも言うんですか!」
巧は思わず叫んだ。今まで心の中に溜め込んでいた疑問や苛立ち、その全てが彼の口元までこみ上げてくる。
「あの子は僕の目の前で人間を殺したんですよ!? どこが違うんです! そもそも、あの子はどうやって人を切り裂いたんですか!? 何も持たない手で!」
「おい、巧ちゃん……」
「今朝の殺人事件だってそうです! あの死体、脳がないって。あれも彼女がやったんじゃないんですか!?」
「おい」
「なんで僕がこんなことに巻き込まれなければならないんです! 僕はただ平穏な暮らしがしたかった……。そんなことも許されないんですか!!」
その時、奥の扉が物凄い音を立て開いた。
「黙って。今日二回目よ」
帰来冴奈だった。
今、巧が叫んだ内容を彼女は聞いていたのだろうか。巧は彼女の顔を見たが、表情は先程と変わらず涼やかだ。
「いやいや、巧ちゃん。人は見かけによらないねえ。君がこんな風に叫ぶなんてさ」
宮地は感心したように頷くと、冴奈を巧の右隣に座らせた。
「それじゃあ、君の疑問に答えることにしよう。ただし――」
宮地の目が怪しく光った。
「これを聞いたら、君はもう後戻りできないぞ」
応接間の窓からは午後の駅前広場で、親子がベンチに座って談笑しながら昼食を食べているのが見える。緩やかな昼のひと時。それとは対照的に、探偵事務所の部屋の中は空気が張り詰めたような緊張感が漂っていた。宮地はブラインドを閉じると、ソファーに座り直した。
巧の手には、今しがた宮地が奥の部屋から持ってきた調理用の包丁が握られている。宮地が巧の隣に座っている冴奈に合図を送ると、彼女はその細い左腕を巧の前に突き出した。
「その包丁を私の腕に突き立てて。思いっきり」
「でも――」
「いいから」
巧はしばらく戸惑った後、頭上まで包丁を持ち上げると、彼女の腕に向かって、突き立てた――。
が、包丁はなにか硬いものに阻まれたように、彼女の腕を薄皮一枚隔てて、停止した。巧が全体重をかけて、包丁を押したが、それは変わることがない。
「なんで……」
「これが彼女の力だ。巧ちゃん、冴奈の腕をよく見てみな」
巧が注意深く眺めると、彼女の腕はうっすらと白く発光していた。
「この光はなんなんです?」
「それはな、膜なんだよ。冴奈の腕を包むうすーい膜がきらきらと光ってるのさ」
宮地は煙草に火をつけると、巧に説明を始めた。
彼女は両手両足の内、どこか一つに任意で薄膜を張ることができた。その膜の内側にはあらゆる物質も通る事はできない。膜の内と外は決して触れ合うことはなく、物質と衝撃に限れば、全てを防ぎ、全てを切り裂くことができる。七年前、宮地が冴奈を拾った時には、彼女は十歳にして、もうこの力を使えるようになっていた――。
「冴奈はこの力を『断絶』と呼んでるようだがな。まあ、そのまんまだな」
宮地はそう言うと、紫煙を吐き出した。
「この力はどうやって身につけるんですか?彼女が生まれつき持っていたものなんですか?」
巧は隣で寝息を立て始めた冴奈の横顔を見ながら尋ねた。
「いや、俺には解らんよ。ただ一つ言えるのは生まれ持った力ではないってことだ」
含みのある言い方だった。宮地はこの力の起源についてまだ何か隠しているに違いない。巧はそう思った時、あることに気づいた。
――こんな能力、現代社会ではなんの役にも立つことはない。帰来の能力だって、社会で生きていくためには使えそうもない。しかし、殺人ならどうだ? あんな謎めいた力で殺人が行われたら、警察は動きようもないだろう。そうなると、まるでこの能力が、殺人を可能にするためだけに存在するような……
「さて、巧ちゃん」
彼の思考は宮地の声で遮られた。
「君はさっき、冴奈が殺人者とは違うのかと、俺に言ったよな」
「はい」
「答えはイエスであり、ノーだ」
宮地は冴奈の寝顔に目を向けた。
「冴奈は人を超えたものを殺してるんだよ。彼女と同じような能力をもった者をな」
「同じ……。能力?」
巧は首をかしげる。――もしかして、例の脳無し事件は……。
「そう、この街で起こる不可解事件。その犯人たちは冴奈と同様の能力を持っている。その、犯人を消し去っているのが冴奈なんだよ。彼女が実行役で、俺は保護者兼上司ってとこか」
巧は半信半疑だった。確かに、今朝、彼が刑事から盗み聞きした話によると不可解事件の犯人の犯行は半年以内に途絶えるらしい。少なくとも、この街においてその原因は宮地の言うように冴奈であるとしよう。
「しかし……。彼女は僕を殺そうとしたんですよ?」
あの真夜中の光景が巧の目に浮かんだ。
「冴奈が? なにかの間違いじゃあないのか、なあ冴奈」
宮地は険しい表情で冴奈に呼びかける。
冴奈はすでに目を開けていた。彼女は巧の顔を覗き込むと、言った。
「絶対に、私は君を傷つけたりはしないわ」
探偵事務所を後にした巧は自分のアパートに向かって、自転車を漕ぎ出した。陽は既に西に傾いている。駅前は帰宅を急ぐ人の群れでごった返していた。
巧は片手で携帯を取り出すと、バイト先の鈴木直美から着信が六件も入っていることに気づいた。あのコンビニは夜の客入りは少ないのだが、昼間は結構な忙しさなのだ。しかし、今の彼には今更バイトに向かう気力はなくなっていた。
――後で謝らなきゃな。
罪悪感を感じながらも、巧は別のことを考え始めた。
『もし、君が脳無し事件の真相を知りたいのなら。明日の朝四時にここに来て』
巧の去り際に冴奈が口にした言葉が蘇る。
帰来冴奈。巧が真夜中に出会った少女。彼女は警察でも解決できない事件の犯人を消し去っているのだった。巧が真夜中に見たあの背広の男も不可解事件の犯人だったのだろうか? 結局それは聞けずじまいに終わった。
そして、あの茶髪の男、宮地要。巧はあの男のことがどうも信じられなかった。彼の言うことの全てがどこか胡散臭く感じられる。
第一、冴奈達は不可解事件の犯人を葬り去ることで、何か得られるものがあるのだろうか。まさか、慈善活動の一環で行ってはいないだろう。
巧の頭はますます混乱の渦に陥る。探偵事務所では宮地の語ったことを整理するのに精一杯で、彼はあれ以上問いただすことはできなかった。明日の朝、巧が行けば、全てを教えてもらえるのだろうか。
――違う。
巧が本当に知りたいのは、あの奇妙な能力や脳無し事件のことではないのだ。彼が、本当に知りたいのは……帰来冴奈のことだ。
冴奈がどこから来て、何を考えているのか、巧は全く知らない。あの真夜中、彼女がなぜ血だまりの中であんな笑顔を浮かべていたのか、巧には分からない。
巧は自分のアパートを通り過ぎたにも気づかず、走り続ける。
――僕は帰来に興味を持っているのか?
――そうだ、彼女はまるで……。
沈みかけた陽は弱い光を放って、空を紅蓮に染めていた。