脳無き者①
「ありがとうございましたー」
巧は男性客が扉から出るのを見届けると、店内を見回した。コンビニの店内には客が一人もいなくなった。毎日夕刻になると、客足がはたと止まるのだ。
「涼海くーん」
事務室から鈴木直美が巧を呼ぶ。彼女は巧よりも三つ年上で、この近所にある実家からアルバイトに通っていた。
直美の勤務時間はとっくに過ぎていたのだが、直美は仕事の終わりにはいつも事務室でだらだらと過ごしていた。
「なんですか」
巧はもう一度店内に客がいないことを確認すると、事務室に入っていた。
巧が事務室の扉を開けると、直美は事務椅子に座ってタブレット端末をいじっていた。彼女の金髪が巧の目に派手に映る。
なぜバイトの面接に受かることができたのだろう。これもこのコンビニがマイナーチェーン店であるおかげか。
巧が感心していると、直美は端末から顔を上げて、目を輝かせながら言った。
「ねえ涼海くんってさ。今この街で殺人事件が起きてるって知ってる?」
「殺人、事件ですか?」
あの真夜中の出来事が巧の脳裏をかすめる。
「知らないですね」
「やっぱりそう?」
直美は巧の答えを聞くと、満足そうに頷いた。
「わたしも今友達に教えてもらったんだけどさ、びっくりしちゃって! それでね……」
直美は急に声をひそめた。
「その友達の友達がね、死体の第一発見者になったらしいのよ。ほら駅前にマルセイあるでしょ。あそこの裏通りで昨日見つけたって……」
直美が言うマルセイとは丸日セイコ―デパートのことだ。確かにあの裏の通りは何か事件が起きてもおかしくないほど、昼でも薄暗いところだった。
「でね、こっからなのよ。その子、道の真ん中に男の人が寝そべってたから声をかけたんだって。『大丈夫ですか』って。それでも返事がないからその人の顔を覗き込んだの。」
そこで直美は一旦話を止めると、巧の反応を伺った。
「覗いたら何があったんですか」
巧は先を促した。少し気になったからだ。
「その男の人のね、両眼がなかったんだって……。ぽっかりと空いてたの」
部屋の中が静まり返る。
「…………」
「…………」
「なかなか怖い話ですね」
「そうでしょう!」
直美はからっと笑うと、「でも、これ本当の話よ」と付け加えた。
その時入口から客が入って来たのか入店音が鳴った。
「じゃあ、僕はレジに戻りますから、鈴木さんも早く帰宅してくださいね」
「分かってる。変態に襲われないように気をつけなくちゃね」
直美はそう言って笑うと帰り支度を始めた。
直美が帰った後も巧は彼女の話が気になって頭から離れなかった。
――『両眼がなかったんだって……』
怖い話には知らずと尾ひれがついていく。彼女の言う「友達」も本当に死体を発見したのか怪しいものだ。
しかし、巧には妙にその話が生々しいものに感じた。
――あの真夜中に出会った少女。あの子が殺したんじゃないのか……!?
もうあれから五日が経つ。巧には関係ないと記憶の隅に追いやったあの出来事。巧は次第に不安になってきた。
――なぜ警察から未だに連絡がないんだ? 僕はあそこに自転車を置いてきたのに。
「くそっ!」
思わず苛立ちが口に出た。立ち読みをしていた客が驚いてレジの方を振り返る。
巧は自分を落ち着かせるために大きく息を吸うと、吐き出した。
――とりあえず、明日もう一度あの場所に行ってみよう。
巧はそれを心に決めると、仕事に集中することにした。
遠藤正が現場についた時には、午前中にもかかわらず夏の日差しが痛いほど照りつけていた。封鎖テープの前に立つ警備の巡査も、さすがにこの暑さにまいったのか、汗の滲んだ肩を落としている。
遠藤は巡査に手帳を見せ、軽く敬礼すると、封鎖テープを跨いで被害者の遺体がある高架下へ入っていった。
瀬の原駅から歩いて二分のところにその高架はあった。高架の上には瀬の原駅とその隣の戸施駅を結ぶ線路が通っており、遠藤が高架下に入った時も電車が通過したのだろう、頭上から轟音が響いていた。
事件現場を動き回る捜査員の中から見知った顔を見つけると、遠藤は声をかけた。
「金森さん。おはようございます。」
金森と呼ばれた中年の刑事は遠藤の顔を見るやいなや、怒声を浴びせた。
「遅えぞ! 遠藤――!! 何やってたんだ。」
「すみません。でも、今日俺久々の休みだったんですよ? それを課長に朝っぱらから電話で起こされて……」
遠藤は言い訳をすると、ブルーシートに覆われた遺体を見て、顔をしかめた。
「また例の脳無し遺体ですか? 一昨日の駅前公園、昨日のマルセイ裏、そして……今日の高架下。三日連続ですね」
「ああ、鑑識が言うには、眼球の視神経まで無くなっちまってるらしい。確実に同一犯人だな」
金森は忌々しく声を絞り出すと、遠藤に状況説明を始めた。
被害者は四十二歳、弁護士の男性。死後硬直の状態から今日の午前六時から午前六時半の間に死亡したと推定される。外傷は眼球及び視神経の欠損以外見られないが、前二件の検視を考慮すると、脳並びその付随神経系の欠損による機能不全、心肺停止が直接の死因とされる。被害者の頭部が異常に軽いことからも、脳が無いことは明白だった。
遺体発見時刻は午前七時頃、会社に向かう途中のOLが第一発見者である。第一発見者の悲鳴を聞きつけた男性が瀬ノ原駅駐在所に通報した……。
「にしても、犯人はどうやって脳を取り出してるんでしょうかね。頭部にはそれらしい傷なんてないんでしょ?」
遠藤は一昨日から何度も疑問に思っていることを口に出した。
「わからん。こんなもん、人間がどうにかできるもんじゃねえだろ。犯人はバケモンか、新手の自然現象か、そのどっちかだろ」
「俺は、ガイシャの眼球がないことが、キーポイントだと思うんですけどねえ。ほら、脳と眼球って繋がってるでしょ」
「バカヤロウ。それ以前の問題だ。考えても無駄だろうが、こんな事件」
金森は相当頭に来ているのか、吐き出すように言った。
「やっぱり、不件行きですかね。この連続殺人も」
遠藤はぽつりと呟いた。
不件とは不可解事件の略である。不件の烙印を押された事件の記録資料はすべて極秘扱いにされ、各警察庁の地下にある資料室に入れられて鍵をかけられ、永久に開かれることはない。
しかし、と遠藤は思う。ここ五年間で全国の不件発生数はうなぎのぼりに増えている。遠藤が所属する戸施署の管轄内でも、この連続殺人事件以外に六つの不件が発生した。これらの事件は全てマスコミに伏せられ、世の明るみに出ることはない。
警察上層部が事件を隠すのは、単に事件が不可解だからではない。警察が犯人を特定することなく、事件が早期に終結するからだった。これらの事件は遅くとも半年以内に犯人の犯行が途絶える。犯人に何かが起こったのか、それとも考えが変わったのか、警察には分からない。その不備を警察上層部はひた隠しにするのだった。
「そういえば、平尾はどこですか?」
遠藤は現場にいるはずの新米刑事を目で探した。
「あそこで発見者を事情聴取してるだろ」
金森が指差した先にはスーツを着たOLと白いポロシャツの若者相手にメモをとっている平尾の姿があった。
「あのOLが第一発見者ですね。で、その隣にいる兄ちゃんが通報したんでしたっけ」
遠藤が尋ねると、金森は汗をふきながら、「ああ、たしか涼海巧っていったけな」と答えた。
巧は刑事の事情聴取にうんざりしていた。先程から同じことばかり繰り返し答えている。
本来ならもう八峰川の並木道に到着しているはずであった。
――昨日鈴木さんに話を聞いたばかりでこれか。
巧は自分の運の悪さを嘆くしかなかった。あの少女に出会ってから何かがおかしくなってきている。
巧は、隣の女が自分に起こった悲劇を懸命に刑事に訴えているのを横目で見た。
そもそも巧は彼女の悲鳴を聞いて駆けつけたのではなかった。高架下を自転車で通り過ぎようとしていたところ、前を歩いていた彼女が悲鳴を上げて、彼に助けを求めてきたので警察に通報しただけだった。もし、第一発見者が巧だったなら、警察に通報せずに通り過ぎただろう。
「分かりました。分かりましたって。あとは署の方で話を聞きますから」
平尾と自己紹介した若い刑事は喚いているOLをなだめると、巧の方に笑顔を向けた。
「それじゃあ、涼海くん。君はもういいよ。協力ありがとね」
そう言うと、平尾刑事はOLの肩を抱き、警察車両に向かっていった。
巧はひとり取り残された。
「帰るか」
彼はそう呟くと、停めてある自転車に乗り、アパートに向かって漕ぎ始めた。
走りながら、巧は思う。
盗み聞きした刑事の話によるとあの死体は眼だけでなく脳もなくなっているらしい。
――あの顔……。
思い出すだけでもゾッとする。開いたまぶた。その中には、眼球がなく、ただ、深い闇が眼窩を空虚に覆っているだけだった。
巧の日常はもう崩れ去ってしまったのだろうか?
――いや、こんなもので僕の平穏は変わらない。明日になれば元通りになるさ。
巧はペダルに力を込めた。灰色のビル街が飛ぶように過ぎていく。交差点を左に曲がると、狭い路地に入った。この路地を直進すれば巧の安アパートはすぐそこだ。
その時、巧の視界を黒いものが横切った。
それが何かを理解する前に、巧の体は宙に放り出された。
「っ痛――」
背中をアスファルトで強打し、彼は思わず呻いた。
前方の自転車を見ると、後輪がフレームごと切断されている。どうやら巧は後ろに投げ出されたらしい。
「やっと見つけたわ」
透き通った声が聞こえた。
頭をあげると、黒いワンピースを着たあの少女が、巧を見下ろしていた。