真夜中の少女
◇◇◇
少女は夜に舞っていた。
雲のない静かな夜に、住宅地から隔絶された川沿いの並木道で、傍らの男と舞っていた。
彼女がその細い腕を振り上げるたびに、男は鮮血をほとぼらせ、彼女の黒いワンピースを濡らす。
――彼女は素手で男を切り刻んでいた。
やがて男は苦悶の声をあげると、仰向けに倒れこみ、そのまま動かなくなった。
あたりを静寂が支配する。
ただ川の流れる音だけが、しじまを破ることなく響いている。
彼女は男の死体を見つめている。
彼女の黒い髪から血が滴り落ち、その白い肩に跡を付けるが気にする様子は全くない。
不意に彼女は口元を歪め、声もなく笑いだした。
電灯の黄色い光がその狂気を帯びた表情を照らしている。
夏の雲一つない真夜中の空の下、彼女はただ崩れ落ちそうな笑顔を浮かべていた。
◇◇◇
涼海巧は目覚まし時計が放つ強烈な音で飛び起きた。あまりの勢いだったので、ソファーベッドから落ちそうになる。
時計は午前十時を指していた。
巧は痛む体を起し、時計のアラームを止めるとベッドに腰掛けため息をついた。
――僕が見たあれは一体なんだったのだろう。
まぶたを閉じると、真夜中の出来事が鮮明に蘇る。
巧は高校を卒業した後、この瀬の原町で一人暮らしをするようになって二年になる。彼はこの町でコンビニのバイトをして生計を立てていた。フリーターになったのは巧自身がそう望んだからだ。
同級生はみな大学へ進学したり、会社に就職したりして人生を歩んでいる。彼らは巧に「お前には目標はないのか」とよく尋ねたものだ。その度に彼は自分が望んでいるものは平穏な生活であると再確認する。なにかに縛られるような生活は今の巧にとっては地獄に等しかった。
巧はこの生活が続いていくものと思っていたし、確信もしていた。昨日の夜、あの光景を目にするまで……。
昨日、巧はいつものように夜中の十一時頃にバイトを終え、帰宅している途中であった。バイト先は瀬の原町の郊外にあるので、自転車で通う巧には駅前のアパートまで半時間ほど掛かってしまう。だから普段はできるだけ早く帰れるルートを選ぶのだが、その日、巧は少し遠回りをしてみる気になった。
巧にはこの街で気に入っている場所がある。それは街の郊外を流れる八峰川の堤防であった。八月の今は新緑生い茂る並木道であるが、春になれば桜が満開となり、花見が所々で開かれる。近郊都市のベッドタウンであるこの街で巧が唯一自然を感じられる場所であった。
昼間はキャッチボールをする子供や登下校をする学生で人通りは少ないとは言えないが、夜になると打って変わって閑散とする。少し心細く感じながらも、巧は自転車を押して歩くことにした。
二分ほど歩いただろうか、巧は誰かが前方にいるのに気づき、足を止めた。
電灯の明かりの下で、まだ高校に通うほどの歳の少女と、背広を着た会社員風の男が向かい合っていた。
少女は黒いワンピースを着ており、肩元まで掛かった髪はそれよりも一層深く黒かったので、もし電灯の光がなかったら夜の闇に紛れてしまうだろう。
男は少女の白い顔を見据え、何かを呟いた。それは微かで巧には聞き取れない。
少女はその言葉に納得したのか、軽く頷く。
そして――。
そのあとに起こったことは巧には理解しがたいものだった。
彼女は何も持たない手で男を切り刻んだのだ。
腕そのものが大きなナイフになったかのように、やすやすと男の体を引き裂く。
男は抵抗もせず、ただ切られるがまま体を血で濡らしていた……。
巧は人が切られるという場面を見るのはそれが初めてのことだった。大量の血を見るのも初めてだった。そして、少女がどうやって男を切り裂くことができるのかも分からなかった。
目の前で行われていることがあまりにも現実離れしており、巧はただ呆けて立ちすくんでいることしかできなかった。
巧が我に返ると、少女は血の海の中で笑っていた。
地面に倒れた男はすでに事切れたのかぴくりとも動かない。
今の今までぼんやりとしていた巧の意識がはっきりとしていき、それと同時に彼の中で警笛が鳴った。
――今のうちに逃げないとダメだ、彼女がこちらに気がつかないうちに……。
巧は自転車に乗ろうとしたが、あまりに慌てていたのでハンドルを滑らしてしまう。
辺りを覆っていた静寂が自転車の倒れる音で破られた。
巧はもう動けなかった。少女は絶対に自分の存在に気づいただろう、そう思うと巧は、恐る恐る彼女の方へ目をやった。
やはり彼女は巧に顔を向けていた。彼女の顔からはすでに笑みは消えており、代わりに巧がいた事に驚いたのか、その黒い瞳を宿した目を見開いている。
時が静止した……。ように、巧は感じた。彼女が――目の前で殺人を犯した少女が――巧に近づいてくる。彼の心臓は今や、かつてないほどにその鼓動を早めていた。
彼女は巧に触れられるほど近づくと、彼の顔をじっと見つめた。巧の心臓は跳ね上がる。
「君、いつから見ていたの?」
それは透き通った、それでいて感情の込もっていない声だった。
「いや、あの……」
巧は突然の質問に声を詰まらせてしまった。――どう答えれば見逃してくれるのだろうか。巧の頭を様々な言葉が逡巡し、消えていく。
「ねえ、いつから見ていたの?」
少女は再度尋ねる。語気は苛立ちを含んでいた。
巧は意を決した。
「さ、さっきから見てたんだ。たまたま通りがかって……」
巧の声は緊張か恐怖のためか、震えていた。
「そう。全部見てたのね」
少女は無表情で呟くと、夜空を見上げた。木々の隙間から見える空は夏の熱気のためか少し揺らいで見える。
「あなたが見ていても、同じことなの。」
「えっ……?」
巧には彼女の言葉の意味が分からなかった。
「同じ、なの」
少女は巧に視線を戻すと今度ははっきりと言った。その瞬間、巧の背筋に冷たいものが流れる。
――彼女はこう言いたいのか、目撃者が死ねば見ていても同じことだと……。
見逃してもらえるという巧の甘い考えは粉々に砕け散った。このまま自分は目の前の少女に殺されてしまうのだろうか。そんな考えが巧の思考を支配する。
しかし、巧はここで死ぬわけにはいかなかった。瀬の原町に越してきて二年、やっと手に入れた平穏をこんなにも早く手放すことはできなかった。
巧は、電灯の下にある男の死体をちらと見る。
――これしかない。
「な、なあ」
巧は少女の肩ごしに男の死体を指差した。
「あの人、まだ生きてるみたいだけど……」
もちろんそんなことは嘘である。巧はそんな初歩的な罠に引っかかる人は見たことがない。しかし、今の彼には、この手段しかなかったのだ。
そんな巧の不安に反して少女は彼の言葉を聞くやいなや、素早く身を翻し、死体のもとへ歩いていく。
巧の方に振り返る気配はない。
今しかなかった――。
巧はひと呼吸置くと、来た道を全速力で駆け出した。
自転車を拾う暇などなかった。去り際に何かを貫くような音が聞こえたが、巧は振り返らなかった。
巧はただ走った。
何も考えず、何も見ず。ただ走ることだけに集中した。
あの少女から逃げるために――。
巧はまぶたを開けた。
部屋の窓からは正午の日差しが差し込んでいる。いつの間に網戸にとまったのだろうか、蝉が五月蝿く鳴いていた。
――あの子がどんな方法で殺したとしても、やっぱりあれは人殺しだ。
――だとしても。
巧は伸びをすると立ち上がり、頭の中を空にするように首を振った。
――もう、僕には関系ないことだ。
午前二時、巧がアパートに到着した時点で、昨日の出来事は彼の中では終わったことなのだ。だから、警察にも通報することはなかった。巧が通報しなくても、あの死体はいずれ誰かに発見されるだろう。
ただ一つ、巧が気になることは、あの場所に自転車を置いてきたことだ。あの自転車は防犯登録をしているので、警察はすぐにでも彼に連絡を取ろうとするだろう。
「まあ、その時は適当に説明すればいいか」
巧は自分に言い聞かせるようにひとりごちると、新しい自転車を買いに出かける準備を始めた。
今日は木曜日、巧のバイトは休みである。
巧がアパートの二階にある部屋を出ると、夏の熱気を含んだ風が顔に吹き付けた。
それから五日経っても、警察から巧に連絡が来ることはなかった。
テレビを点けても、あの死体がニュースに挙がることもなかった。
巧はそのことを少し気にしたが、あの並木道には決して近づかず、彼の心配は日々の忙しさに流されていった。