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短編

夜の姫様

作者: 遍駆羽御

夜の姫様


 私はゆめを手に入れて夢を捨てた。もう、過ぎた時間を思い出しては駄文を書き進める。ディスプレイに映る光は眩しく、眼にも毒だ。その証拠に去年までは裸眼だったが、今年、初めに眼鏡を購入した。まだ、眼鏡に慣れず、鼻の辺りがむず痒い。

 キーボードに最後の一文字を入力し終える。ディスプレイの電源をオフにした。数分経てば、パソコン本体の電源も落ちるのでそのままにして、襖を開けて居間の様子を窺う。

 毛布を抱いてすやすやと眠っている幼子、ゆめの姿がそこにあった。金色の髪は彼女の寝相の悪さが功を奏したのか、三本が林檎飴のように赤い唇に貼り付いてしまっている。小さな指がぴくりと動いた。眩しそうに瞼がぴくりと動く。

 腕時計で時刻を確認する。午後十時十二分を示していた。そろそろ、ゆめの起床時間だ。十時三十分ぴったりに起きるゆめが着る服を箪笥から出しておく。白いワンピースがゆめのお気に入りだが、生憎、梅雨の影響でまだ、乾いていない。二番目にお気に入りと思われる赤い子供用ドレスをそっと、畳に置いた。

 ゆめの朝食はいつも、パンだ。米はあまり好きではない。だが嫌々ながらもしっかり食べてくれる律儀な娘だ。そんな天使にわざわざ、嫌いなものを食べさせる理由もないだろう。バターと砂糖を沢山、パンの生地に塗りつけていく。これでもか! と塗ったパンをレンジの皿に載せる。

「おはよう、お父様。今日はシュガートーストね」

 ドレスの紐を弄ぶ娘の、左眼の黒い虹彩と右目の青い虹彩が私の心を射貫く。いつも、私と私の妻 エミリの若かりし頃の記憶をそこに投影してしまう。彼女の青い虹彩も私を捉えては穏やかに笑うのだった今のゆめのように。だが、ゆめは私よりもパンの方をちらちらと見ている。電子レンジを乗せた台に顎を乗せて口笛を吹き始める始末だ。

 ピー。

 同時に彼女は電子レンジの扉を開けた。もう、だいたい彼女がそれ以降、行う動作を見切っている。

「熱いから止しなさい」

「ゆめ、平気だよ」

 手を伸ばしてパンに触ろうとするのだが少々、恐ろしいらしく、小指でちょっと触る。触った瞬間、すぐに手を引っ込めた。泣きそうな透き通った瞳を強調するべく、私を見つめる。

「大丈夫?」

 ゆめの指は白い肌が少し赤みがかっていたが、問題は無さそうだ。赤くなった部分を何の効力もないが撫でておく。

「熱い、熱い、熱かった!」

「熱いって言ったろう?」

「でも、熱かった!」

「意味不明だ」

「うん」

 皿に乗った小麦色に焼けたトーストを手掴みもせずにそのまま、口を寄せて食べる。手で触るのは熱い。よってそのまま、口に運んでしまえ作戦だろうか? 

 もぐもぐと口を動かしているが、しばらくするとだらしなく舌を出して冷やし始めた。

「熱かったけど、美味しいね」

 澄ました顔をして、お下品なゆめちゃんなんていませんでしたよなんてその顔が語る。

 

 六月特有の長雨はほとんど、ゆめちゃんのお散歩お休み宣言を仕切りに叫んでいた。そんな彼もゆめの膨れ顔は怖いようだ。

 今日は久方ぶりの快晴! 満月が人工の灯りよりも柔らかい光でゆめの運動靴を照らしていた。歩く度に可愛らしい音がする。

 ゆめと同じ年代の子は濃い暗闇に唐突にある公園にはいない。彼女は同年代の子と遊んだことがない。それは彼女の身体時間が普通の人とは違い、逆に働いているからだ。一人で砂場へと向かう姿はさも、不自然だ。彼女もテレビや小説、絵本などで知っている、これが常識ではない事を。

 だが、ゆめは笑っている。影一つ無い輝かしい顔を見せてくれる。

「今日は滑り台乗り放題だね。雨が降ってたらお洋服が濡れちゃうもん。お父様、お洗濯上手じゃないからゆめのお洋服台無しにしちゃうもんね」

 正確にいうと、ゆめが寝ている朝に行うアイロン掛けの途中でつい、うとうとしてしまい、洋服を焦がしてしまう失敗を何度も繰り返している、だ。

 私は本当に情けない父親だねと両手を軽く挙げて外国人のように澄ましたポーズでやれやれと表現した。彼女はそれがお気に入りらしく、うひっひと品のない野性的な笑みを零した。それでも本人は品を保とうとしているようで唇の皺がお口チャックをがんばっている。スカートが捲れるのを気にせず、オコジョさんパンツに包まれたお尻を滑り台へと降ろす。

 娘の愛らしさに幸福を覚えながらも、同時に不幸も覚えている。怖いのだ。今、彼女は五歳。来年は小学校進学を考えなければならない。

 みんなとは違う。ただ、それだけで人間は他者を否定する。その当たり前が許せずに私はぎゅっと、拳を握り締めた。

「お父様、……てね」

 ゆめが透き通った空気のような声で何か、私に告げた。

「何だってゆめ?」

「もう、お父様。ゆめの言葉は僕の大好物だよって言ってた癖に無視かよ!」

 頬を膨らませてふて腐れた。彼女は沸点がもの凄く狭い。例えば、毎日二時間、時間を割いている二人だけの勉強会でも、解らない問題があるとすぐに癇癪を起こす。癇癪といっても凶暴なものではなく、実に可愛らしいものだ。それが何かって? すぐに観られるだろう。

 滑り台を無言のまま、滑って私の前に来る。そして、眼を細めて私にがんを飛ばす。丁度、雛鳥が親から餌を強請るときの頭の位置と同じだ。少し丸みのある幼児特有の顎が保護欲をくつぐる。その姿勢を保って、私のくたびれたTシャツをか弱い指達が掴んだ。その姿勢は放って置くと永遠に続く。最高新記録は約一時間だ。

「解ったよ」

 とゆめの顔を覗き込んでウィンクを噛ます。

「うわぁ、お父様……それはゆめみたいなプリィ……プリィ? 可愛い女の子だけに許されている必殺技なんだよ」

「言ったな? そんな子にはお仕置きだ! よっこいしょ」

 ゆめを持ち上げて肩車をしようとする。てっきり、暴れ出すと思ったのだがどうやら、彼女は徹底抗戦よりも外での遊びを優先したようだ。

 ゆめと私の視界がほぼ、同じ位置になる。すると、彼女は感嘆の声を上げた。何を観てそう感激したのだろう。私と視界の範囲は同じなのだから、と周囲を見回す。

 真っ暗闇で何も見えやしない。おまけに風に揺らいで木の葉と木の葉が擦り合う音は不気味な笑い声に聞こえなくもない。自分には解らない感性だ。夜空へと視線を向ける。そうか、そういうことか。

「お星様が綺麗。今まで見えなかった遠くのお星様も見えるよ!」

「そうだな、綺麗だ」

「お父様はいつも、こんな空を見上げられるなんて贅沢」

「贅沢か。いつか、ゆめも一人でこの夜空を観られるようになるよ」

「いつ?」

「うーん、十年後かな」

「えー、そんなの待てない」

「こら、暴れてもこれが世界のルールなんだからどうしようもない。時間は誰の指図も受けずにゆったり流れていく。そんな流れの中に僕も、ゆめも生きているだけさ」

「哲学だね」

 ゆめはまだ、その言葉を解っていない。勿論、知識だけはある。これについては無理矢理、解らせない。知識で終わってはならないものの一つだから、自分で発見しなさい。そうゆめを心の内で励ましつつ、外面ではゆめの知識を突き放した。

「ゆめは頭良いな」

 そう、だから私はゆめに早々と色々な知識を植え付けている。私はいつか、死ぬ。恐らく、死んだらゆめを助けてあげられないだろう。それはいつ、訪れるか解らない。今日かもしれない、明日かもしれない。だから、差別を区別に変換しておこう。

「お父様? どうしたの、ぼっーとして熱でもある……」と小さな掌が私のおでこに触れた。ひんやりと気持ちいい。「ないね。オーケー」

 砂場にピンク色の見るからに柔らかそうなボールが置き去りにしてある。

「ゆめ、サッカーしようか」

「昔はサッカー部で毎朝、練習したもんだって自慢して、子ども相手に本気になるから嫌」

「ドッジボールはどうだ?」

「昔は昼休みにドッジの貴公子と呼ばれて恐れられたものだなんて言って、ゆめの右肩を狙ってばっかだから嫌」

「お父様は嫌われたもの?」

 わざとらしい溜息を吐いて、ゆめの様子を窺う。

「当たり前でしょ。子ども相手に全力なんだもん」

「砂場、遊びなら良いよ」

 砂を掻き集めて山を創る。そういえば、ゆめが三歳の頃から砂場遊びを一緒にやり始めた。私が子どもの頃、最初に砂場遊びをしたのは何時のことだっただろうか? 記憶を探ってみる……。確かと前振りを心の中に置いても思い出せなかった。ゆめは覚えているのだろうか?

「ゆめ、初めて砂場遊びした時、どうだった?」

「楽しかった。砂がざらざらしてたんだよ」

 欲しかった感想とは程遠い。子どもの記憶なんてそんなものだ。その時、何処にいた? 何した? よりも感覚が先に出る。だからこそ、ゆめもしゃがんで一生懸命に泥団子を作っている。そこには無邪気さだけがある。

 ゆめは泥団子を一つ、私の足元に置く。

「はい、お父様、泥団子です」

「ありがとう」

 手を伸ばして掴もうとする。ゆめがその手を叩いた。

「一つ、三百円です」

「高いなぁ、おい……」

 財布を取り出して、両手でおわんを作ったスペースに三百円を投げ入れる。ゆめはすぐ、ポーチに入っている財布に三百円をしまう。

 ちらっ、ちらっと私の顔を見る。そして、見ていないと言うかのように砂を自分の膝に掛け始めた。手を休めてまた、顔色を窺う。

「どうしたの?」

「御菓子が食べたくなった。だってこのお団子、食べられない」

 ゆめは私に差し出したはずのお団子を私に向かって投げた。だが、彼女の体格では私の真新しい運動靴に当たるのが精一杯だった。白に茶色の泥が交わる。その色をじっと、見ていると急に私は物悲しくなった。

 白い肌のゆめが茶色のようにドロドロで、混沌めいた世界に汚される日が来ると暗示しているようだった。風が妙に肌寒い。その肌寒さに耐えきれず、私はゆめをぎゅっと、抱きしめる。

「お父様、お髭が痛いし、臭い。ゆめは好きだよ、これ」

「さて。このまま、コンビニに突っ走るか!」

「うん」

 私はゆめを脇に抱えたまま、走りだした。ラグビーボールを脇に抱えながら走っていた大学時代とは違い、私はこのボールを絶対に離さない。指先に血が急速に通い、不思議な熱さが宿った。

 ああ、この熱さを昔……私は何処かで感じたはず。


 そうか……あの時だ。

 十五年前にゆめの母親、私の妻になるとは思えなかった大きな屋敷に住むエミリに誘われて森へと昆虫採集に来ていた。エミリ曰く、オオクワガタを捕まえれば、三万円くらいに専門店で売れる。そんな甘言に騙されて、私はエミリの背中を追うように歩く体たらくと化したのだ。

 崖下に流れている激流の音に混じり、妙に近い自分の情けない息が聞こえる。それは全く、途切れない。要するに今の私には休憩が必要だ。

「おい、えみ」

 彼女がそう呼ばれるのを嫌っているなんて事実は充分、理解している。絶対、報復される。

 案の定、彼女は洋人形の如く、美を保ちながらも、古代の戦士のような勇ましい掛け声を発した。赤い舌の中央に唾の宝石が溜まっている、真珠貝だ。そう思った瞬間、笑ってしまった。

 馬鹿野郎、爪先栄二郎! と眉を潜めた瞬間には虫取り篭が頭部に炸裂した。一人で学校に生息する獰猛な虐めっ子達と対立している彼女がこれで終わりにするはずがない。やはり、脇腹に蹴りが飛んだ。

 それでも悪戯心は萎えず、すらっとした子鹿の足を上へ、上へ辿っていく。パンツが見えそうになると、けしからんスカートが防壁となって立ちふさがる。痛い、心と体が。

「おい、私はエミリ。はい、私に続いて言ってごらん、馬鹿エイ」

 ちょっと、むっとした。そっちだって私の名前を省略しているじゃないか。海にいる不気味な頭部の形をした魚類を連想させるその呼び名は不快だった。彼女に持たされていた彼女のリュックサックに八つ当たりをしよう。その八つ当たりとしてとにかく、走っていって何処かへとリュックサックを隠してしまう案が頭に浮かんだ。善は急げ! と両足が勝手に動き出した。

 草を踏みしめる音。さくっ、さくっ。

 緑の香りが大地から空へと伝う。さくっ! さくっ!

 さっ、さっ、さっさと歩く四本の足。

 そのリズムを刻み、時はさっ、さっ、過ぎ去る。

 さっ? さっ?

「あれ? エミリ? 全力で走りすぎたか……。学校では男子相手にリアルバトルを繰り広げている百戦錬磨のあやつも少女、乙女だったわけかのぉ。おい、どこで倒れているんじゃ、エミリちゃん。えっちゃん! えみ?」

 私は最初の内はそんな軽口を叩きつつ、エミリを捜した。きっと、探している最中に私の隙ができたら、襲いかかるのだろうとさえ考えていた。だが、その考えも時間が経過するにつれて、霧が掛かっていく。その霧は不安で成り立っていた。お化け屋敷の空恐怖ではなく、肌が逆立つ本物の恐怖だ。

 サッ、ザッーーーーー、ザッーーーー、そんな音が耳障りで仕方がない。耳障り? 違う。その水音は自分が見たくない未来を無理矢理、見せようとする。

「エミリ!」

 私は力の限り叫んだ。私の声が山彦となって、「エミリ! エミリ……」と聞こえる。その合間には苛立ちを駆り立ててくれるくそたれな川の音。地団駄を踏んだ。

 髪の毛に冷たい水が落ちた。指先でなぞり、それを確認する。空を仰ぐと、雲が太陽を隠していた。一滴が、数滴もの雨粒を呼ぶのにさほど、時間は掛からなかった。

 雨に打たれながらも、私はエミリを再び、探す。別にエミリなど、置いていっても構わなかった。だが、下山しようと心に決める度に彼女の横顔が脳裡に蘇る。自分が馬鹿みたいな満面の笑みを浮かべているのが丸分かりな笑窪なんぞ、エミリには絶対見せられない。

 恥ずかしいだろう!

 その羞恥心を場違いな山奥へと吹き飛ばす為だけに私は叫んだ。

「エミリのパンツには黄色い染み―」

「ねぇーよ、ばーか!」

 そんな女の子らしくなドスの効いた声の後、私の足元に水筒がぶつかった。そのピンク色の水筒には女の子らしい丸い字でえみと書いてあった。

「おい、気に入ってんじゃねぇかよ!」

「馬鹿エイ、後で覚えていろ。すげぇ、効く回し蹴りをお見舞いしてやる」

「わりぃ、ありがとう。最近、肩凝ってたんだよ」

「お前、わざとだろう。なんだ、その艶めかしい肩の露出は」

 私なりの女の子を慰める為の渾身のギャグはどうやら、怒りを買ったらしい。右肩だけ、Tシャツから露出させるよりも両肩の方がお気に入りだったのだろうか? 私は半分冗談、半分本気でそっと、左肩も露出させようとした。

 睨まれた、凄い剣幕だ。この剣幕があったからこそ、虐めっ子は男子だけになったのだろう。女子では太刀打ちできない。

 驚いた。エミリもちゃんとした女の子だったらしく、二メートル下の崖下で右膝を手で押さえて泣いていた。

「運が良いな、えみ。お前、もう少し先で落ちていたら死んでたな、確実にさ」

 そう慰めの言葉を私は掛けたのだが、瞼で留まっていた涙を頬へと伝わせる起爆剤になってしまったようだ。

 これには私も焦った。どうして、女の子の涙とは透明感があるのだろうか? 当時の私は答えられなかった。今の私でもそれには答えられない。きっと、女の子だけの秘密でできているからかなと憶測するに留まる。

 雨が酷くなり、今から下山するにもエミリを背負ってでは当時の私では荷が重すぎた。小学四年生だったのだから仕方がないだろう。それでも男の子としての沽券を守りたくてエミリを負ぶって近くにあった大木へと移動した。

 彼女のお尻が濡れないように自分の膝の上に彼女を乗せた。その箇所だけが他と比べて僅かに熱を帯びていた。

「腹減ったな」

「あたしのリュックにゼリーが入ってるから、食べて良いよ」

「本当だろうな。もう、取り消しって言っても俺の手は止まらないぜ。ありが……とう」

 私はリュックを漁る手を止めた。言葉も冬の水道管のように凍り付いた。ゼリーの蓋にはカブトムシ オスとクワガタ メスが仲良く、緑色のゼリーを貪っている絵がプリントされてある。私の視力が正常ならば、ムシゼリーと書いてある。

 無言のまま、ムシゼリーを野に放った。きっと、自力でカブトムシ メスがゼリーをこじ開けて明日へと命を繋ぐのだろう。実に良いことをした。

「あー! あたしのムシゼリーが」

「お腹を壊すっての!」

「ギャグをギャグと理解できない男って最悪。特に水筒の中に飲むプリンを入れてくる男が一番、最低」

 私の黒い水筒には飲むプリンが入っていた。毎日、愛飲していれば、糖尿病になってしまうレベルの甘さが常飲性の高い要因だ。そんな素晴らしい百五十円のユートピアを最悪と表現してしまう女なんぞ、理解できない。

「最低だ」「最低ね」

「真似すんなよ」「真似すんな、馬鹿」

「飲んでみろよ、これ、本当に美味いぞ」

 私は水筒の蓋に飲むプリンを注いでエミリの鼻に近づけた。彼女が匂いを嗅ぐ空気の音が聞こえる。妙に居たたまれない。また、あの熱が意識の内へと入ってくる。その熱は私をゾクゾクさせる。

「早う、飲めよ。毒、入っていないぞ」

「飲めるか。間接キスになるでしょ」

「だが、お前はそのプリンの芳しき香りに耐えられるのか、少女よ」

「喉渇いたから飲んでやるわ」

「あれ、お前の水筒は?」

 私はエミリの肩に食い込む水筒の紐に目をやった。その視線に気が付くと、彼女は水筒の紐を手に持って腹の方へと水筒を移動させた。

「あれはもう、殻。あたし、飲む苺パフェが大好きだからあんたが来る前に全部、飲んだわ」

 俯き、恥ずかしそうに声を微かに発した。雨の音に混じり、聞こえ難いのたが、不思議とエミリの声がそれだけ、切り取ったように耳に入ってくる。その声の一つ、一つがむず痒かった。それに耐えきれず、渇いた唇は何かを言おうと蠢く。

「水筒、意味ねぇ。お前なぁ、水筒さんにも仕事させてやれよ。最近、世の中は不況で正社員になるのも一種のステータスになってきているんだぜ。水筒さんも毎日、シンクという名の電車に乗ってな、頑張ってお前さんのランドセルに通勤してるんだぜ」

 早口気味で可笑しな例え話をしたものだ。私は急に過去へ戻って数秒前の恥ずかしい発言を撤回したくなった。勿論、不可能だ。

 雨粒達が私を嘲笑しているかのように雨脚を早めたのだと思い、無性に叫びたくなった。

 私とエミリの間に唐突に無言の時間が訪れた。お互いに喋るな、そう言われている気がした。誰にだって? 誰かが私達に質問したならば、私はこう答える。

 人の心を自然と同化させる静を持った空気にだろう。その空気達は生を見事に連結させる。水溜まりに沈んだ小枝にまとわりつき、小枝の感触に飽きたら、私の頬を断り無く、触る無邪気な風が良い例だ。

 そう、解釈を並べていると私は私の身体にもたれ掛かっている清涼な香りのする小さな生き物の存在を忘れることができた。

 だが、彼女の後頭部が喋る口と同調して動き出す。するとエミリが心の中心へと移動する。

「そう言えば、いつも、あたし一気飲みだ」

 私の水筒を引ったくってエミリは水筒を傾けて飲み始めた。確かに飲むプリンが通ったと首が微かに動くことによってそれを知る。全て飲み干した後、彼女はゲップした。

「これ、食べる?」

「あ、わりぃ、ありがとう」

 彼女がリュックから取りだしたのは何の変哲もないスナック菓子だった。私がさっそく、受け取ろうとするが、彼女はそれを指で静止する。そして、スナック菓子の封を開けてから背中をくるっとこちらの方へと向けた。彼女の済んだ蒼い瞳と私の平凡な黒い瞳の焦点が互いの顔を覘き合う。

「恥ずかしいから向こう向け」

「馬鹿エイ、あたしだって頭の良くなるスナックを食べたいんだ」

「詐欺だろう、その名称?」

「カルシウムが入っている。詐欺だとは言えない」

「胸、平たいな」

 ただからかうだけで終わるはずだったのに、彼女はそれを許さなかった。スナック菓子が腹の辺りで潰れる音を立てた。私の視線はエミリの旋毛に向けられていた。口の中には私以外の唾液が入り込んでくる。それはあの熱の持ち主がエミリであることを私に教えてくれた。今感じる熱はあの熱が残滓であり、この熱こそがエミリだと主張する。

「あんただけはあたしを虐めないで。その意味はもう、解るでしょ」


 昔のことを思い出しすぎて、妻との初めての口づけまで思い出してしまった。それもこれも、こいつのせいだ。私は頭の良くなるスナック菓子を睨み付けた。あの商品が国民的スナック菓子の地位まで登り詰めるとは随分、時間が経ったものだ。その御菓子を小さなお姫様が両手で抱いて私の持つ篭へと投下した。そして、買っての微笑みを私に放つ。

「ゆめ、この御菓子買ってもいいよね?」

 ゆめの強引さと平らな胸は将来も変わらないだろう。そんな未来予想図が黒色と青色の虹彩の輝きに入っているような気がする。だから、私はある衝動に駆られるのだろう。だから、エミリは私の心に現れたのだろう。

「やっぱり、エミリの子だよな、ゆめは」

「う?」

 だから、私はその衝動に従う。

「ゆめ、予定変更だ。お母様に会いにいくか?」

「えー、でも、フランスって遠いんだよね」

「ああ、とても遠いよ……。遠いよな」


 夜の墓場というのはどうして、こう生者を拒むような空気を発しているのだろうか? その空気に充てられたのか、ゆめは私の右足に抱きついて離れようとしない。先程まで唄を歌っていた元気さは今のゆめには感じられない。

 私の両足は一つの墓石の前で止まった。ゆめが大きく息を吸う音が一度だけ耳に届いた。それを合図に私は真実を語る。

「俺は嘘……吐いた」

「嘘だ」そう鋭く、ゆめは私に言った。その言葉が痛い。小さな赤い唇は必死に言葉を続けようと震える。それを諦めて、瀬夜エミリと刻まれた墓石に耳を当てる。「お母様のどくん、どくん、聞こえないよ!」

 そう言うと自分の胸に手を当てた。

「ゆめ、それが止まった時……人としての時間は終わる」

「お父様はゆめを置いていかないよね」

 悲壮な娘の歪んだ表情の雲を晴らしたかった。一呼吸して、ゆめと同じ目線へと合わせるべく中腰になる。私は首をゆっくり、振った。

「ヤダ。ゆめも一緒に行く。お空の上に行く」

 ゆめは私の両頬を抑えて、叫んだ。娘の両頬から顎に掛けて透明な涙が伝う。娘の口から飛び出した唾が唇に付着した。そこまで必死に幼い我が子は私とエミリを慕ってくれるのか、心が温かくなった。それでも、私は我が子に伝えなければならない。

「駄目だ。ゆめ、エミリは君の心に生きた記憶を託した。それをいつか、ゆめの子に伝えて欲しい。そして、その子を守り抜いた後の遠い、遠い未来にお父様やお母様と再会して君がどんなに頑張ったか、語ってくれ。ねっ」


「お母様、私……施設なんかに行きたくない。お母様と一緒に天国に行く」

 私は幼い頃、言われた言葉を正しく、理解できなかった。今なら、解る。あの時、父が身を裂かれる思いで私にあの言葉を贈ったことを。私は言わなければならない。

 息が続かない、喉が痛い。目の前が霞んで全ての景色がモザイクに変わっていく。だが、娘の顔だけは鮮明だった、当たり前だ……娘なのだから。

 私の障害は彼女には受け継がれず、健常に育った娘。それが私には嬉しかった。全身が怠いのに生涯で一番の微笑みを浮かべている。

 もっと、生きたかった。まだ、娘は九歳だ。悔しい。

 感情は入り乱れる。それでも言わなければ、もう一度、全身の力を込めて口を開く。

「駄目、夢歩。お母様は貴女の心に私が生きた記憶を託す。それをいつか、夢歩の子に伝えて欲しい。そして、その子を守り抜いた後の遠い、遠い未来にお父様やお母様と再会して泣き虫夢歩の物語を聞かせてちょうだい」

 すっと、力が抜けた。だが、自分の名は覚えている。爪先ゆめ。


 とある空気のお話し。

 ―少し、長いお話しになるけど、良いかな? お父様。―

  ―聞かせて、ゆめ。俺が君の高校卒業を待たずに死んだ辺りから。おっと、エミリに睨まれたよ。そうだったね、エミリは君の口から直接、君のお話を聞きたいそうだ。飲むか、ゆめ?―

  ―馬鹿エイ、娘にそんなゲテモノ飲ませるな―

   ―飲むプリンを馬鹿にするな、百三十センチ―

    ―新しい渾名を唐突に付けるな、ばーか―

      ―お父様、お母様、子どもみたいだよ―

         ―馬鹿エイは放置。ゆめ、おいで―


 人は生きることに怯え、人は死ぬことに怯える。そして、時としてその怯えから逃げるべく、心を失う。けど、それで祖先からの伝言リレーを終わりにしてしまって良いのだろうか?

 逃げ続けるのであれば、僕達と同じ道を辿るだろう。

 僕が誰だって? 君は言いたいのだろう。そう、僕はね、遠い、遠い、まだ人が猿であった時代、猿が単細胞だった時代、地球が無かった時代、宇宙が無かった時代から存在する旧世界の忘れもの。

 尤も、僕自身……微かな意思しかない存在。旧世界の灯火。

 君達の心が鍵へと成長した瞬間、僕は僕の役割をその解放者に与える。そして、生と死の幸福な呪いを背負う者達を見守って欲しい。

 足音が聞こえる。いよいよ、その時が来たのだろう。

「君の名前は?」

「名前は……ありません。私はエミリであり、ゆめであり、夢歩であり、夢恵であり……全ての人間の意思を持つ存在ですから」

「なるほど、それが君達の答えなんだね」

「はい」

 僕の目の前に存在する透き通った肌が印象的なボブカットの女児はそう、肯定した。女児の肌には全ての記憶が詰まっていた。まるで記憶の箱船だ。

 しばらく、記憶を鑑賞した後、女児に僕は祝福の言葉を述べる。

「全ての命よ、幸福であれ」




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