世界を、渡る
トンネルの向こうは、夜でした。くぐって無いけど。
そいつの事を、おかしいなぁ、とは思ったよ。
出会っていきなり、相手に違和感や不信感をあれ程持ったことは、無かったと思う。
通報レベルの不審人物に出くわした事が無いし、詐欺師とかにも出会った事が無いから、他人に対して警戒を露わにして近づくことは少ない人生を歩んできた筈だった。自分の内面的な事を語るか否かは置いといて。
ホラ、そういう事は仲良くならなきゃ話せないじゃないの。
まぁ、目が覚めたら病院で寝ていたってのも驚いたけれど。そして、その問題の”相手”ってのがすっごい美形だったのも驚いたけれど。
「初めから説明しようか」
彼の、鈴の音を転がすような爽やかな声に一瞬でも心を奪われかけた自分が悔しい。
まぁ、容姿を見た時にも奪われかけているから、二度の盗難未遂だけどね。現行犯逮捕ぐらいできるレベルだからね。ほんと、この美形。
「窓から外は見えるかい?」
ナメとんのか。と怒鳴りたい衝動を抑え、病室の窓から外を見渡す。たくさんの街灯に照らされた夜の町並みは、いつもの見慣れたものでは無く、家の近所では無い事が分かった。そして、この病室がけっこう高い所にあることも。普段、学校の校舎内で三階の音楽室から見下ろすよりも若干地面が遠いから、四階か五階なのだろう。
明かりに照らされて見える地面を見つめ、遠くの町並みを見つめ。
見たけど何か?と言わんばかりに、表情だけで美形に訴える。
「此処はね、君の居た所とは違う場所」
「見れば分かる」
多少のイラつきを交えて声を発する。なんだか、声が出せた事に一瞬だけ安心した自分がいた…事に驚いたが。
「七道市」
「ななみちし?」
「この街の、名前」
聞いたこと無いな…。近所じゃないし…一体ここは都道府県のどこだと言うのだろうか。とりあえず、道の通り方や建物の感じ、住宅の並び方から、幾つか候補は削られるが。
街の名前を呟きながら、窓からの風景を見渡す私に、美形が一枚の紙を渡してきた。手に取るとそれは和紙で、メモには住所らしきものが書かれていた。
「そこに行っておいで」
「はぁ?」
幾ら美形であろうとも、目的も何も分からない行動を強いるとは何事か。いや、後半はどうでもいいんだけど、一体全体何がどうなっているのかきちんと説明してくれない美形に、いい加減腹が立ってきたのも本音。
「あとこれもあげる」
美形がガサゴソと服…と言っても、現代の衣装では無く平安時代の…何だっけ、あれ。十二単じゃなくて、男性が着る奴。それの垂れた袖から何かを取り出した。
美形の白くてほっそりした綺麗な指に摘み上げられたそれは、巾着袋。受け取ったそれの中身を見てみると、ゴルフボールくらいの大きさの水晶玉が入っていた。
「何かあった時、それが君を護ってくれる」
「何かって…何…」
普通には太刀打ちできなさそうな雰囲気を感じ取り、美形と会話をしていて初めて恐怖を感じる。変な服を着て変な事を言う美形の存在に対しては、何故かいまいち恐怖は感じず、苛立ちが増すばかりだ。はぐらかすこの人が悪いよね、うん。
にこり、と美形が微笑む。黒髪が、藍色の着物が、金に近い瞳が、白い肌の輪郭が粒子をまとう。
「一週間後に、また」
何かが始まるのかとワクワクしていた気持ちが急速に萎えていく。同時に、絶壁から突き落とされるような感覚…。
「ぇええええええ!?」
いつの間にか開け放たれた窓から突き落とされていた。
夜分遅くにごめんなさい、と心の中で謝る。意外と冷静に落下し、着地してから何故無傷なのか気になったが、あの美形のせいだろうなと感じとる。
そうでなければ、粒子をまとうなんて事できやしない。
植え込みの中に落下した体が、何とも無い事を確認して服に着いた葉っぱや木の枝を払う。
「さて…手元にあるのはこの紙切れだけか…」
今現在の服装は、学校の制服なのに荷物は無い私。持ち物は、先程貰った和紙のメモと巾着の中の水晶だけ。知らない土地に連れてこられて、頼る人はいない。そこに行けと言われたのだから…行ってやるか。どの道、私に帰る術は無さそうだ。お金も無いから、はっきり行って帰るに帰れない。
電柱に張られた住所とをみれば、メモの場所は町内のようだ。指定された場所を求めてうろつくこと数時間。夜が明けるのでは無いかと危惧するほどに、時間を費やし疲労した。知らない土地で、メモ一枚を頼りに地図も無く特定の場所を探せというのは中々大変な作業だった。
此処で間違いは無いだろう…と、夜中であるが心の中で謝罪をしつつ玄関のチャイムを押す。あの美形に指定されたのは、普通の民家だった。
小さな門から玄関まで続く数歩のレンガ敷きの道の脇にある小さな庭は何も無く、家自体は小奇麗な感じなのに人が生活していると思しきものが何も無い冷たい家。
建物は、人が住んでいるからこそ温かみがでるのだと、何となく悟った。
ならば、この家には家人は居ないのだろうか。
「誰も出てこない…鍵…開いてるし」
何気なく握った冷たいドアノブが、ガチャリと回転する。ゆっくり開けてみると、中は真っ暗で何も見えない。恐る恐る一歩だけ踏み出し、手探りで壁をペタペタすると、カチリと電気がついた。
玄関からすぐの廊下に積まれていたのは、大量のダンボールだった。
「だ、ダンボール?あ、宛先がついてる」
宛先の住所は、七道市…と目で追っていて、さきほどまで散々見ていた住所であることに気がついた。確認のためにメモを開き比べる。間違いない、この荷物はこの家に届いている。そして、あの美形が指定したのはこの家で良かったのだと分かり、ホッとした。
「宛名は…わたし?」
全てのダンボールを確認し、その全ては“絢凪璃夢”となっていた。住所はこの家だから、まるで私がこの家の住人のようだ。
そして、ダンボールの中身は家具だったり教科書、制服、普段着、その他諸々。引っ越しの荷物のようなそれらをダンボールから引っ張りだして不思議がっていると、カサリと何かが落ちる。
シンプルな真っ白い封筒。中身は一枚の便箋で、
“これらの荷物は全て貴女のもので、この家も貴女のものです。教科書と一緒に、新しい学校の地図が入っています。来週から行って下さい。”
と書かれていた。
「ふーん………………え?」
まて。待て待て待て!新しい学校?新しい家?今までの学校は?両親はどこ?
手紙を握りしめながら、混乱する。思えば、病室で目覚めた時からおかしい気はしていたが、これは…一体どういう事なのか?両親が海外転勤で自分だけ日本に、というコナンくんパターンか?いやいや、うちの両親そんな世界に羽ばたいてるような人じゃないし。学校変えるくらいなら付いていく方がいいじゃないか。それに知らない土地ってのがひっかかる。
「神隠し…」
ぞわっと嫌な気配がした。ぽつりと呟いたその言葉に反応するかのように。
手紙を握り締めながら、恐る恐る廊下を進む。
チリン…――――
ビクリ、と肩が跳ね上がる。
清涼な鈴の音が居間から聞こえる。ぎゅっと手を握り、緊張が走る。ゆっくりと襖を開ける。
テレビと机と箪笥。ちゃぶ台とも呼べる高さの机の上に。クロネコが座っていた。尻尾の先に結わえられた鈴が、神聖な音を空気中に伝える。
黒い艶やかな毛並みに金色の瞳が、あの“美形”を思わせる。
――と、そこまで考えて、何故か無性に目の前の猫にむかっ腹が立った。近づいても逃げようとしない黒猫をそっと抱き上げ、頬をうにうにと引っ張る。
「に…にゃー」
「何か…お前の顔どっかで見た事あるような気がして腹が立つのよねー。綺麗な顔して意味分かんない事言ったあの男にさー。ほんとに腹立つなんてレベルでは済まない事をされたんですけどー人を突き落とすってどういう事ーまじでホント次に会ったらぶっ飛ばす!」
「にゃー…」
抱き上げた猫がイヤイヤと言うように、モゾモゾしながら私の手を離れる。言葉が…分かるのか?老齢の猫は人語を理解する事が可能と言うが。
「お前…さっきの」
美形に似てるわね…と続けようとして。猫はパッと私と距離を取った。
一瞬の変化。
瞬き一つの後、猫は美形になっていた。
「……」
「あ、え?」
呆けた顔をしている私を、美形さんはバツが悪そうに見る。
「すいません。殴らないで頂けますか…?様子を・・・見に来ただけなんです・・・。まさかバレるなんて・・・」
はっ!先手を打たれた!
「事情は現時点で可能な限り説明します」
「事情…」
そうだ。私の家や家族や学校や友人はどうしたのか。
何故、あの病院で目を覚ます前の記憶があやふやなのか。
何故、この男は不思議な事を引き起こすのか。
何故が多過ぎてゲシュタルト崩壊しているし、処理もできない。
「この世界は、貴女がいた世界とは違います。こちらでは、異能は当たり前です」
「世界…伊能?」
「異能です。私が猫に変身するアレは異能の一種です。世界が違うというのは言葉通り、地球であって地球でない。この地球に、貴女の存在は無いし、家族も友人もいません」
異世界トリップぅぅ!と心の中で叫んだ。