第5話 予感と言う名の確信
結局、仕事らしい仕事は事務所にはなく、ぼくは近所に買い出しに行くことにした。
コーヒー豆以外は、その辺のコンビニやドラッグストアでなんとかなるのだが、豆の銘柄やらなにやらに所長はこだわる。
ぼくには差はたいしてわからないのだけど。
その豆はたいていの場合、きちんとした場所にしか本来ないようなブランドなのだが、幸い、今ではとある喫茶店のマスターと知り合いになったおかげで、その方から豆を分けてもらう(当然、お金は払う)ことが出来るようになった。
近所で買い物が済むようになって、よかったと思う。
今日の買い出しはそれほど苦労はなさそうでなによりだ。
……時々、とんでもないものをお使いさせられるから困るんだけどね。
買い出しにはバイクに乗りたいものの、所長はお使いに関してガソリン代は出してくれない。
いや、言えば出してくれるんだろうけど、言いづらいので節約して徒歩か、自転車でがんばるのが基本だった。
まぁ、広くても基本的に町内だしね。
あくまで基本的には、ね。……頑張ろう。出来る限り。
まぁ、あれだよ、頑張れば頑張るほどにお給料になっていくと思えば。
なにせ時間給だからね! その、時間計算もかなりアバウトだけど!
……とりあえず、荷物の軽いコーヒー豆調達の方から先に済ませておいたので、その近くにあったスーパーで買い物をすることにした。
入ってまず、店内を見回す。
「えーと、なに買うんだっけ?」
メモは基本的にとらないので、自分の脳内からいちいち記憶を探ることにしている。
確か、買うものはまずは適当に食料、それに先輩用にそれこそ適当な飲み物。
先輩の場合、ぼくがなにを用意しても文句言うからな。もう、コーラでもなんでも渡しておけばいいだろう。
あと、お菓子とか、かな。滅多に来ないけど来客用のと、あとみんなで食べる分でもあれば。
ああ、洗剤が安かったら買い足しておくか。
それと、それと、うん、お醤油とみそ……も今度安かった時にまとめ買いするとして、今日は魚が安いから買って行って、作ったやつを家に持って帰っておかずにしようかな。
あと、歯磨き粉と新しい歯ブラシだろ、いや、使い捨てでいいか? 先輩用に塩入の奴を買い置きして……それに……。
「なにをブツブツ独りで言ってるの?」
「え?」
あれ、あんまり友達のいないぼくに話しかけるなんて誰だ?
……って、またしても、大神アスカだった。今日はよく、縁のある日だ。
「えーと、どうかした? なにか用?」
「なにか用、とは冷たいんじゃないの?」
そう、大神さんは言ってほほえむ。
違和感。
どこか、不自然に明るいんだけど、なにかが暗く重たい。
そんなほほえみ。
「大神さんって」
「なに?」
「そんな表情する人だっけ」
――え?
そう、大神さんは聞き返す。
それは普通に考えれば自然だけど、やはりぼくはそれすらも不自然な気がしてならない。
「それってつまり、わたしが笑ってるとおかしいってこと?」
「いや、そういうことではなく」
なにかおかしい、のか。
改めてみて見ると間違いなく、その顔はぼくの知る大神アスカに違いない。
むしろ、前に話した時よりも生き生きとしていて愛嬌があるというか、素直に可愛いとも思う。
――だけど。
いや、でも。
「……うん、おかしくはないよ。そういう表情の方がいい、と思う」
「そう?」
「ああ、大神さんだったらその方がもてると思うし」
「本当に? ……良かった」
会話していて感じる、ざらざらした感触が常に口の中にあるような、異物感。異質な感じ。
でも、ぼくは彼女のことをあまり知らない。
だから、ぼくが知らない面があっても仕方がない。
それに違和感を感じるのもおかしな話だ。
「遠野は、買い物?」
大神さんは柔らかく話す。
「ああ、うん」
「家の手伝い?」
「いや、バイト。それに今、一人暮らしてるからさ、ついでに自分のも」
「一人暮らし? ……へー、そうなんだ。いつから?」
「一昨年の冬にね、他の家族は新しく出来た家に引っ越しちゃってさ、ぼくだけ古いアパートにいるんだ」
「一昨年って……そっか、中学の頃からだったんだ」
「そう、その頃からだいたい……」
やっぱり、違う。
これは、この人は違う。
人間がこんなに違う表情をするはずがない。
同じ人間なら、ここまで。
仕草だけじゃない、雰囲気だけでもない。
――目が違う。
だけど、それでも。
クラスメートがクラスメートでない、なんてことがあっていいはずがない。
そうは思っても疑問は口をつく。
「君は、本当に大神さんなのかな」
「……それはどういう意味?」
同じ姿形をしているだけの、別のモノに見えるのは。
気のせいであるべきだ。
たまたま、そう、大神さんの気分がいい、とかそういうものであるべきだ。
「わたしは、大神アスカ。それ以外の誰でもないと思うけど」
「……まぁ、そうだよね」
「そう、わたしは大神アスカ。他の誰かに見える?」
「見えないよ、ただいつもと感じが違う気がしたから」
「……いつもと違う、ね」
大神さんはわざとらしく首を傾げ、笑う。
その仕草はハミによく似ていた。
「遠野はいつもの方がいいの?」
「いや、別にそういうわけじゃ……」
「だよね、いやでしょ? あんな」
目つきも口も悪い女なんて。
「――っ!」
そいつは……。
にこやかに、それがなんでもない当たり前のように。
そう言った。
「いったい、君はだれなんだ。なぜ、大神さんの姿をしている」
「大神アスカが大神アスカの姿をして、いったいなんの問題があるっているの」
「君が大神アスカだって?」
「そう」
「……ぼくは嘘は嫌いだ」
「嘘じゃないよ、じゃあ遠野はわたしの……」
彼女の目はぼくの目を射貫く。
「あなたが大神アスカの何を知っている、っていうの?」
それも、真っ直ぐに。
「……それは」
「そう、知らないよね。遠野はわたしに興味ないしね」
「そんなことは……」
「そんなことはない、とでも? 遠野、自分で嘘は嫌いだって言ったのに、それなのに嘘つくの?」
彼女は、その言葉の内容とはうらはらに、その雰囲気にキツさをかもしだすことはない。
あくまで、優しい落ち着いた声のトーン。
それは彼女のイメージとはかけ離れたものだが、その言葉の内容はまさに正論だった。
ぼくは、嘘をつこうとしている。
大神アスカに限らず、ぼくは誰かに興味を強く持てない。
ぼくは彼女から、目をそらす。
「ああ……ごめん」
「遠野にとって、しょせんわたしは、ただのクラスメイト。 へたをすれば知人未満の関係」
そう、ぼくにとってクラスメイトと言うのは、知ってすらいない、いてもいなくてもどうでもいいい存在。
「否定はしないよ」
「それなのにわたしを理解できるはずないでしょ」
「ああ、確かにそれもそうだ」
「それでも……別にわたしを理解しろ、って言ってるわけじゃないけどね。 それはあなたの勝手だし、ね。 とにかく知ったような口は叩かないでくれる?」
ぼくは頷くことでそれに同意した。
同意せざるをえなかった。
それは言いくるめられたわけでも、気圧されたわけでも、ましてや身に危険を感じたからではない。
彼女の正体が、大神アスカであると信じたわけですらない。
彼女に対する違和感、それどころか、本人ではありえないという、その確信と実感はなくなりはしない。
それでも、ぼくがそれに同意してしまわざるを得ないのは、彼女の言うことに事実だったから、というだけではなく。
彼女が本気でそれを言っていたからだ。
「あなたが大神アスカのなにを知っている」
それは間違いなく、本気だった。
ぼくは嘘は嫌い、だ。
だからこそ、ぼくは嘘を知る。違う、嘘を知るからこそ、ぼくはそれを嫌悪する。
その中で間違いなく感じたのだ。
この言葉は間違いなく、この目の前の存在の感情であり、この彼女自身の本気だろう、と。
そして、それは本当に大神アスカの本音ですらあるのかもしれなかった。
本気であるからこそ、嘘がないからこそ、ぼくも偽りのない同意を返すしかない。
言いたくない言葉を言わず、それでいて言葉を濁さず、ぼくが嘘をつかずにあるには、無言で最期に頷くしかぼくにはなかった。
「わかってくれれば、別にいいから。あまり気にしないでくれる?」
「ああ、わかった」
言いたいことはわかった。
「でも、遠野も忙しそうだしね。 わたし、そろそろ邪魔だろうから行くね」
「……帰るの?」
「まぁ、そんなところ。遠野もバイトもいいけど、さっさと帰った方がいいんじゃないの?」
「……そうしたいんだけどね」
それは心の底から同意だ。働くのは、そこまで好きではない。
この場合は特に。……やりがいもないし。まぁ、自分のための買物もしていてなんだけど。
「それじゃあ、またそのうち」
「ああ」
そのうち、ね。本当なら、また明日、だろうに。
学校の授業が中止にならなければだけど。
彼女はスーパーの出口へと歩き出す。が、その足は数歩歩いたところで止まった。
「そうそう、忘れてた」
なにかを思いだしたかのように、そう言い。
彼女は言った。
「軋呑ハミ、には近づかないで」
彼女がまるでどうでもいいことのように、そう口にするのと同時に。
その目に、ドロリと薄黒いものが揺れた。
気がした。
背筋に寒気が走る。
「君はそれを言いに来たの?」
ぼくがそう聞く、と。
彼女は、さあ、どうかな、と小さくつぶやいて。
再び歩き出したのだった。
その、彼女を見送る視界の端に。
黒い影が蠢いた見えたように思うのは。
おそらく、気のせい。……そう思う方が精神衛生上にはいいのだろう。
そんなことよりも、今は。
ぼくは携帯を取り出す、かける先は……。
「……ああ、ハミか?」
ぼくは、すぐに彼女に電話をし、現在の状況に異変がないかを問いただした。
携帯電話は可能な限り持ち歩きたくないが、こういう時に必要になるから手離せない。
「えっとぉ、つまりぃ? どういうことぉ?」
「最近、周囲で変わったことはないかって聞いてるんだよ」
「べつにぃ、って言うかぁ、最近はいっつも夜一緒じゃん。 変ったことがあったら、気付くでしょ~」
「それは確かにそうだけど……」
昼間の飛び降り直前とか、コイツの発言の意味ありげなことを言っていたこともあるし。
なにかぼくの気付いていないことを感じてるのかな、とか普通は思うだろう。
……それに、いや、その前にさ。
「あのさ、こんな堂々といつも夜一緒って人聞きの悪いことを素で話すなよ」
「なんでぇ? って言うか、どこがぁ」
「どこがって、そりゃ小学生じゃないんだからさ。 そういう関係だと思われるだろ」
「そういう関係ってどんな関係?」
「……お前、わかっててわざとぼくに聞いてるな」
「えへへ……」
えへへ、じゃねえよ。
なにをぼくに言わせたいんだよ、お前は。
……だから、変な噂されるんだぞ。
「そう言われてもぉ、ハミ、気にならないしぃ」
「お前は気にならなくてもな」
「じゃあ、なに……」
「遠野は気にしてるの?」
…………あー。
そう普通に言われると、なぁ。
んー、いや別に。
「……正直、気にならないかな」
所詮は噂だし、どうせ相手はハミだ。今さら迷惑もなにもない。むしろ、何も迷惑しかないくらいだから、それが十や百や千増えたところで微小な数字でしかない。
これが他の女子なら気を遣うんだけど。
……別に噂をすること自体が悪いとは思わないしな。
そう言うと、受話器の向こう側から笑い声が聞こえた。
「だよねぇ~」
んふふ、と笑ういつものへらへらした声。
いや、なに楽しんでるんだよ。
「そういうことじゃなくてだな、周囲からの評価が悪くなってるんだぞ」
「ハミはぁ、周りの人間なんか、どうでもいいからねぇ」
「お前はよくてもな、ぼくはそうはいかないんだよ」
「……だから、遠野は気にするの? 周囲の評価なんて」
「するよ」
そう言うと、驚きと失望の入り混じったような表情でハミがぼくを見た。
……ような気がした。あくまで、気がしただ。
実際に目の前にいない人間の表情なんてわからない。
いや、それでも、なんて顔してるんだ。
と、ぼくが見た時に思うような表情をハミがしたのだとそう思った。
……ぼくに呆れたのだろうか。
でも、そんなもの、気にする決まってるだろ。だってさ。
「なんで、お前が悪く言われないとならないんだ? おかしいだろ。 お前、実際、言われるほど悪いことしてないだろ」
そうだ、ハミが実際になにをしたって訳でもないのに、なんでなにも知らないような奴らに、いい加減にいいように言われないといけないんだ。
そりゃ、気にするに決まってる。
と、さっきから、ハミの返事がない。
「おい、ハミ?」
どうしたんだ?
なにか、変なことでも言ったか。
「もしかして、遠野さ」
「あ?」
「ハミのこと心配してるの?」
心配? ぼくが?
そんなわけないだろ。
「なんで、ぼくがお前の心配なんかするんだよ」
「そうだよねぇ……」
なにを言い出すかと思えば、別に、心配……ではない。
そもそも、そこまで余裕のある生活は送ってないぞ。
人を気にしたり、心配が出来るほどは。
とりあえず、と言った風にハミは「まぁ、憶えてはおくよ」と、返答した。
ああ、ぜひそうしてくれ。
「で、ただそれだけで電話したの? なんなの?」
「いや、そうと言われても」
別に周囲に異変がないなら、どうしようもないと言うか。
ぼくがハミに言えるのは。
「せいぜい、身の回りに注意してくれとしか言えないな」
「身の回り?」
「そう、気をつけてくれればそれでいい、かな」
ハミならなにかあっても、そうそう危険はないと思うけど、それもどうなるかわからないしな。
ただ、ハミは周囲の獲物や、天敵に対する感覚だけは半端じゃないから。
日頃から気をつけてもらえばわかる、と思うしかない。
ぼくがいても足手まといだしね。
「ふうん」
「……なんだ、どうかしたか?」
「やっぱり、トオくん心配してるんじゃん」
ハミのぼくへの呼び方がトオくんに戻る、ふざけた、くだけた呼び方。
「……うるさいな、用件はそれだけだよ」
ハミのからかう声が聞こえそうな気がして、ぼくは一方的に電話を切った。
後でうるさく言われそうだが、どうせもう今日は会わない相手だ。明日、キレられるぐらいは別にいい。
今はそれよりも。
「所長に、話した方がよさそう……なのかなぁ」
なんて、話した方がいいかはわからないけど。
とにかくぼくは、すぐに事務所に行こう。……とはあえてせず、まずは買い物をしっかりと済ませることにした。
ぼくの晩ご飯のおかずも密かにかかってるわけだしな。
買物せずに帰ったら、バイトの時間計算に下方修正がかかりそうだし。なによりもぼくは、まず、日常を大切にする人間だった。