第6話 背景という名の存在感
基本的にだらだら話すだけ、ってのが遠野くんなんです。
……どんなときでも。
――はじめはただの背景だった。
興味や関心がなかった、意識してなかった。そんな言葉じゃ彼という人物を表現できない、その存在を表記できない。そう、背景と言うのは彼にぴったりな言葉だろう。
決して彼はその他大勢じゃなかった。
それなのに、中央で照明を浴びる 主役でもなかった。
誰もが彼を認識するのに、それが意識まで昇らない。
孤立していることは間違いないのに、その事実が一切優越感や劣等感、嫌悪感と関わりがない。
日常、班での活動や掃除、体育の体操や試合、行われる様々な行事、学校生活の中で誰かと関らないことはありえない。
その中で人はなんらかの印象を持たざるを得ない。
自分と合う性格でないのなら、関わりたくないそう思うものだ。少しでも気になれば、少なからず仲良くなってしまうものだ。
彼にはそれがない。
彼は、遠野という人物はそんなありえない存在だった。
出会いそのものは中学あがってすぐあったが、それは出会いと言うほどのものでもなく、 すれ違いですらなく、彼を背景とした舞台へと偶然わたしがいただけと言うのが正しいのだろう。
いや、もしくはそれ以前なのかもしれない。彼を背景とした舞台を眺める機会があったというだけなのが、わたしという存在だったのかもしれない。
一年生の頃は同じクラスでなかったために、わたしも彼を認識は出来ても、関わろうとするどころか意識することすら出来なかった。
わたしは彼が一年近くもの間、なにをしていたのかろくに知らない。
それでも、わかる。見るまでもなく、わたしには理解できる。
遠野は一年もの間、なにもしていなかったのだと。
誰とも最低限の会話しかせず、なにひとつ問題を起こさず、誰からも褒められることなく、誰にも注目されず活躍せず、その上できちんとクラスメイトとしての義務を果たし、それを楽にも苦にもせず、それを普通として生きてきたのだろう。
それでも、同じクラスになる前に、二年にあがろうとする前に、わたしは彼を意識した。それはカナをきっかけにして、彼と同じクラスの女の子と友達になったからだった。
彼を意識した理由はたいしたものじゃなく、それなのに驚くべきことだった。言っている意味がわからないだろうか、いや、聞けば彼を知っている誰もが驚く、彼を認識している誰もが耳を疑う。
その女の子は、彼を、なんと遠野を……好きだと言ったのだから。
彼女自身がそれを他の誰にも言えないと、カナと共に居たわたしたちだけに、相談をしたことがことのきっかけだった。
なにが問題と言えば、なにもかも、だろう。
彼女は彼と必死になって接点をもとうとしたのだけど、それがまったく出来なかった。
話しかける勇気がなかったわけではない、彼女はとても活発な女の子で男子や女子関係なく話すことが出来た。カナほどではないけど。
ことあるごとに話をかけ、同じ班や係などの接点をえたのにもかかわらず、なにも……その関係は変わらなかったのだ。
彼女の性格や容姿に問題があった訳じゃない、それは自信を持って断言できる、同じように遠野にも問題はない。それ以外の全てが問題だった。
彼は彼女を認識はしても意識しなかった。
なんというのか、遠野は人間一人ひとりがなにをしたとしても記憶には残しても、印象に残さない。そう言えばいいのだろうか。
だけど、それはわたしたちも同じだった。
わたしたちその他大勢にとって彼が背景であったように、彼にとってもわたしたちはそれ以上にもいかにもなり得なかった。記憶には残っても、印象には彼は残らない。
カナですら、どうすることも出来なかった。
わたしはなにを言っていいのかわからなかった。だって、あんな存在をどうして愛せるのか、好きになれるのか、恋が出来るのかまったくわからなかった。
……今ならすこしはわかる、すこしだけ。
彼女自身なぜ自分がそうなのか、ほとんどよくわかっていないようだったけど。
ああ、こういう言い方も出来るのかもしれない。彼は誰の意識にものぼらないのではなく、むしろ彼が誰もを自らの意識にあげていない。
あげてもそれは僅かな一瞬でしかない。遠野は印象が残らない存在なのではなく、印象を残さない存在なのだ、と。
印象という印象をなんらかの手段で刈り取ってしまうような、存在なのだと。
わたしはこの相談を受けて初めて、思った。彼はいったいどんなひとなのか、と。
不運にもなにかの間違いで印象を残されてしまった女の子を、そのどうしようもない恋をわたしが知って、彼を意識にあげた頃に、印象を残してしまった頃にわたしは二年生になった。
そして、わたしは……。
*
ぼくは助手席でキツキさんの車に揺られていた。
時折、ぼくはバックミラーへと視線を移し、なんとなく妙な気分で狭い車内でキツキさんとどうでもいい話で談笑する。すこしでも気を紛らわすために。
ぼくはあまり車には乗る機会がないだけでなく、そもそも車があまり好きではないのだ。
でも、キツキさんは車を運転するのが好きらしく、移動の時はいつも車だ。
その能力からいけばまるで必要ないものなのだけど、いろいろなバイトで必死に頑張って溜めたお金で、わざわざ買ったこの中古車をキツキさんはとても大事にしている。
そう言った意味でも、キツキさんはかなり変わっている例外的な存在だと思う。
ちなみに免許はある、それも偽造ではない、本物である……ただしきちんと戸籍がないはずの存在が所有している本物の免許、と言うややこしい注釈がつくが。
「で、遠野っち。なんか護身用の武器は持ってきたの?」
「いいえ、特に」
いくつかの防護用の呪具は常に所持しているが、武器らしい武器は一切持っていない。
これはいつでもそうだ。
「さっきまでひどい目にあってたって言うのに?」
ぼくが送り犬にずっと包囲されていたことを説明したとき、キツキさんはぴんと来ていないようだったが、一応は納得してくれた。
ぼくにしか認識できなかったことに関しては、それが事実ならば、と言う仮定の上で「遠野っち、そりゃ、ほとんど取り憑かれてるようなもんだよ?」とそう不吉な言葉を残してくれた。
「フツーさ、怖い目にあったら武器を持って安心感を得ようとすんじゃないのかなっ。 ま、うちはならないけどっ」
「武器と言われてもなにを使おうが、ぼくには扱いきれませんから。銃器はぼくライセンス持ってないんで、規定違反ですしね」
狩人はライセンスさえあれば、狩りを目的とした上でなら、規定された銃の携帯・使用が許可される。
ただし、堂々と目に見えるように身につければ銃刀法違反で捕まってしまう。
すぐに使える状態で所持していると言うことは、剥き身の刃物を手に持ったまま歩いているのと変わらない、と判断されるからだ。
有事以外で所持する場合には、とっさには使えない状態で持ち歩く必要がある。
さらに所持している銃器には監督義務があり、他者に使用させない、厳重な保管をせねばならない。などの規定が数多く存在する。
違反、事故、盗難があった場合の罰はかなり重い。不用意に事件を起こした場合は、狩人全体の信用問題になるため、同じ狩人から殺される危険すら発生する。
完全に規則に則るのなら、銃を使用するたびに許可書を提出し、使用後はどの弾丸をどこでどのようにどれくらい使用したのか、と言う事後報告書を書かなければならない。
現実的にはそういった規則を守っていては仕事にならないため、どこの事務所も少なからず違反をしている。それが表沙汰にならぬようにと言うのが暗黙の了解だった。現実に即した適度な緩さと厳しさを併せ持つのが、裏で生きる人間の法というものなのだろう。
まあ、社会で働く上ではそれがどこでも当たり前だろう、規則はある程度は破られる。
清濁併せ持って、飲み下すように生きるしかない。一般社会との唯一の違いは、せいぜい罰則が死と言うだけの話にしか過ぎない。
それはぼくだって理解している、でもそれ以前にぼくは凶器を持つこと自体が不満だった。
「あまり好かないんですよ、ああいうものは。性に合わないんでしょうね、たぶん」
「性にねー、遠野っちらしーちゃ、まっ、らしーけどっ」
「……甘いと思います?」
「いや、全然っ。 手汚すのが嫌って言うわけでもないみたいだしねっ。 手より大事なものを平然と汚してるし? 覚悟があるならいいよ、別にっ」
「手より大事なもの?」
言っていることがよくつかめない、手はそもそも大事じゃないだろうし、僕に関して言えば特別大事なものなんて特にない。
それに手や身体が汚れたなら洗えばいい、衣服が汚れたら取り替えればいい、ただそれだけの話だろう。大騒ぎするようなことじゃないはずだ。
「世の中、自分が善だってはっきりしてなくちゃ嫌っていう人多いからさっ。 どうもそう言うの駄目だね、うちはっ。 手を汚すか汚さないかって決めた時点で悪党なのにさっ」
「……はあ?」
「そうだっ、武器ってものが嫌ならいくつか、しょちょーが遠野っちでも使用できる呪具を用意してなかったけ?」
「武器そのものが嫌なんじゃないですけどね、使うときもありますし。 呪具なら防護用のなら使ってますよ、前もって準備をしておけば有事に自動的に発動する奴はだいたい」
「他のは?」
「能動的に発動させる奴は駄目ですね、あの名前がわからないんですけど楯みたいな奴ですか? みんなわかってないみたいですけど、楯も戦いのための道具、武器ですよ。間接的に相手を殺すための道具ですから」
自分の剣が相手に届くまでの時間を稼ぐための武器、弾幕と同じだ。
まあ、本当に巫月所長からもらった防護用の呪具には、相手を消し飛ばすほどのものも存在するので、あそこまでいくと武器以外のなにものでもないと思う。
「ふうん。あ、じゃあれは?」
「あれ、ですか」
「そう、ほらあの小刀……『生太刀』だっけ? あれの複製品は?」
「キツキさん、ぼくに刀が扱えるとでも思ってるんですか? 果物ナイフですら危ういですよ。 料理以外に、刃物は使いたくないです」
生太刀……使い手の『生存確率そのもの』を引き上げると言う能力を持つ、殺すためではなく生かすための刀。
殺戮のための凶器でしかない、刃を持つ殺人器具を生存と言う一点に特化させた護身具にして護神具。
それと同じ素材で作られ、同じ形状を模した複製品をぼくは巫月所長から、一振り預けられている。本体より性能は数段劣る。
だが、本体自体の能力が高かったために、かなり強力な一品に仕上がっている。とは巫月所長の談。
巫月所長から預けられた呪具の中でも、最も強力な呪具の一つだ。
最も……という言葉を複数の呪具に使わざるを得ないのは、言葉の上では矛盾してしまうがそれぞれの方向性が違うから仕方がない。
とりあえず、巫月所長の話に聞く限りでは、強力だと判断した。
――判断したのだ。
そう、ぼくはその生太刀を一度も使用したことがない。
自ら抜いたことすら、ない。
「ふうん、まっ、いいけどさっ。 通り犬ぐらいなら、うちと勝負にならないだろうし。 遠野っち一人くらいなら余裕で護れちゃうよーだ」
「ぼくが言うのもなんですが、まぁいい、で済ませるキツキさんは大物だとは思いますよ」
仲間がろくに戦わないと言う意思を表明した上で、自分が護るなんてどんだけ心が広いんだと言う話だ。
単純に自らの力を信じている故に、と判断することも出来なくはない。
しかし、そうは言うが、キツキさんは日中はその能力を制限される。
キツキさんは強い、それは間違いないのではあるが、あまりに日中と夜との戦力差は大きすぎる。
今なら、いくつかの手を打てば、ぼくが呪具を扱っただけでも十分にキツキさんを殺してしまえるだろう。
対して、敵は圧倒的なまでに複数。相手も日中は能力を制限されるとしても不利であることは間違い……いや、まてよ。
送り犬は山犬、ニホンオオカミに近い性質を持つとされる。狼は夜行性か? いや、その面は強いのかもしれないが、昼間に動くことがないと言い切れるのか?
もしかしたら、ぼくが思っているほどには能力が制限されていない可能性もあるわけだ。キツキさんは夜とは比較することが馬鹿馬鹿しいほどに、能力に差が出るタイプだ。逆に、あまり影響を受けないタイプの怪異があってもおかしくはない。
不利なんてレベルで済むのだろうか。
「大丈夫だよ、遠野っち。そんなに不安そうな顔しないの。敵の本拠地に行くんだって言うんだったら、そこそこあれこれうちも考えるけどさっ。今回は女の子を保護するだけでしょ?」
「ええ、まぁ。 ……確かにそうですけど」
「相手はただの犬コロだし。 百いても勝てるどころか一方的になぶり殺しにできる自信があるよ」
「……さすがにそれはやめて欲しいですね」
画的にあまり情操教育によろしくないのは間違いない。
そんな光景みたら、絶対に夢でうなされる自信が僕にはある。そう、ぼくは結構繊細なのだった。
「それに勝てないならさっ、戦わなきゃいいじゃん! ……いざとなれば逃げればいいんだって、ねっ?」
「……それはそう、ですね」
確かに戦って勝つことが目的ではない。そもそも戦いに勝つだけでなにかが解決するのなら、ぼくらは必要ない。巫月所長一人いれば全部済んでしまうことだ。
どこかの映画のように、悪党を殺すだけでハッピーエンドになるのなら、この世に不幸な人間なんていない。
悪事を行うのは、多くは名もなき一般市民。善意で人を傷つける考えなしの善人達が世の中にははびこり、悪意と嘘で人々を騙そうとする悪魔は、実に間抜けな手口で利益を出そうとする無能者しか過ぎない。
ぼくらにとって、本当に敵と為る、憎むべき相手は、仕事であることを抜いたとしてもそういった者達ばかりだ。彼らのせいで、ぼくらは怪物を怪物呼ばわりし、あまつさえ殺さねばならない。
無知が罪とまではぼくは言わない、ただ人を他人から与えられた価値観や常識を疑わないことは悪いことだ、と断言してしまいたくなるくらいに周囲の大切な人達を傷つける。
詐欺という悪事で言うのなら、自分が騙されることで、どれだけの人の迷惑になるか、そのだまし取られたお金でどんな悪事が行われるか、騙された結果誰が犠牲になるのか、『罪がない』人々はあまりにも無責任だ。
ぼくに出来ることは、憎むしかない悪党を裁くことでも憎むべき善人なんかを助けることでもない。
逃げ出してよいのだ、ぼくは相手を殺すためにここにいるんじゃない。
「にしても送り犬って奇妙だねっ。こんな所に出てくるなんて、おかしいなんて言うレベルじゃないねっ。まー、遠野っちの話を聞く限りでは、そう言う疑問以前なのかもだけどっ、本来はそういうものではないはずだからねっ」
「……ああ、対象以外に認知されない。って、部分ですか」
「そう。あれはそういう妖怪ではないはずだからねっ、明らかに別の何かが混在して成り立っているよねっ」
「確かに……狼としての習性や本能を元にしたもの、と考えると、最終的にはぼくを喰らうことが目的、となるわけですが改めてそう言われれば不思議ですね」
隙をうかがう、と言うがぼくなど隙だらけの存在だ。隙しかないと言ってもいい。
「知らないかもしれないですけど、ぼくは小学生にすら喧嘩で負けたことがあるんですよ」
「……生きてて恥ずかしくないの?」
若干引いた雰囲気すらあるキツキさんにぼくはいつものように言う。
「まったく、全然、何一つ、恥ずかしくないですね。むしろ、これで恥ずかしいと思う気持ちがあるならそれこそ恥ずかしいくらいです」
「一瞬、良い言葉に聞こえなくもないけどそれってここで使う言葉かなっ!?」
なにを騒いでいるんだろう? キツキさんは。
「まー、いいや。送り犬自体の解釈的にはおかしくないんだし」
「解釈ですか?」
「送り犬は、そもそも道行く者の守り神という側面もあるしねっ。一概に決めつけられないんだよね、逆に遠野っちが護られていたのかもって言うね? あっ、でもでもやぱやぱ監視する存在と言う面もより強いんだけどっ」
「まあ、わからないこともないです。監視と保護は紙一重ですからね、監護って言うんですか? でも、あくまで元になっているのは、狼や野生の犬の話でしょう。護るなんて現実的じゃないですよ」
「そう言うけど、実際狼がいたら他の動物は近寄りがたいからね?」
それはそうだろうけど納得はいかない。あの何十という目から発せられる半端じゃない暗い感情……念。
確かにあれは害意ではなかった。ただ害意でもなければ、敵意でもなく、獲物を狙う目ですらなかった。
あれが保護欲から来るものだとすれば、おぞましいにも程があるというものだ。
「でも、そうだねっ。送り犬が憑き物だって言うのは、おもしろい解釈だねっ」
「解釈ねえ」
「うん、あー、遠野っちは違和感在るだろうねー。しょちょーとうちじゃ、考え方が全然違うからねー。魂の存在とか、魔術と魔法の違い、妖怪や怪異の成り立ちとか……ね」
「へえ、そういうのは専門家の中で一致した唯一無二の真実があるんだと思ってましたよ」
「はははは、ないよ。そんなの。マンガじゃ在るまいし、そもそもうちは専門家じゃないし。どんな分野でも一致した唯一無二の真実はないんだよっ、遠野っち。
あるのはこういうものにはこういう名前を付けましょうって言う定義。それとあるかどうかわからない事実という名の記録があるだけ。どちらも、勝手に本人がそういってるだけで確かなものじゃない。定義なんかそれぞれの専門家や派閥で違うしね。その時々にあった定義や考えを引用して、周囲と自分を納得させてるに過ぎないんだよっ。
人間はね、遠野っち、誰もが魔術と魔法を使ってる。名前を付けると言う手法で魔術を使い、現実という名前で魔法を使ってるんだよ。それが正しいなんて証拠は一切存在しないのに、誰もがそれを信じて疑わない。そんなどんな魔術でも、単体では再現不可能な魔法をねっ。
……例外は数学くらいかな、あれ自体が一つの世界だからね。唯一無二の真実があるのは閉鎖された小さな箱庭の中にだけあるもんだからねっ。机上の空論なんて、無能な魔術師はそう呼ぶけどさ」
「随分と小難しい話ですね、専門外のぼくにはなんとも」
ぼくは話を聞き流した。
「魔術や現実を専門にしてる人なんていないよ、遠野っち。まあ、これはうちの考えだけどねっ。ああ、そう言えば最低最悪の魔法、幻実って知ってる?」
「興味ないですね、あまり」
「えー、おもしろいのにっ」
「あんまり変な伏線引かないで下さいよ。あるじゃないですか、そう言う話をしてたら、実際に使う敵が現れるみたいなの」
「遠野っちはないと思うけどな、幻実に関しては」
「なら、その話しなくてもいいじゃないですか」
知らなくていいことは知りたくない。
ぼくは普通出来る限りに生きていきたいのだ。
「ふーん。まー、いいや。うち、どうでもいいしっ」
「……なら言うなよ、って言うのは野暮なんでしょうね、たぶん」
「わかってん『なら言うなよ』、遠野っち」
「思いがけないくらいに綺麗な切り返しだ!?」
キツキさんにしては、だけど。
「……で、遠野っち。大神アスカちゃんだっけ。こっちの方向であってんの?」
「ええ、もうすぐのはずです」
「ふうん、よく家知ってたねっ。もしかして友達なの?」
「いえ、違います。ただ同じ学校ってだけです」
「……同級生なんじゃないの?」
「ええ、そうですね。それがなにか?」
同じ学校でも同級生でも、クラスメイトでもあまり変わらないと思うけど。
どれも、全部同じだ。たいして関わりなどない。
「いや……なんでもないよ、遠野っち。 そういえば、そんな人だったね。遠野っちは」
「は?」
「なんでドッペルゲンガー、自分の家に……いや、自分の目の前に来てるんだと思ってるの? 遠野っち」
「さあ。たぶん、ぼくになにか言いたいことでもあるんでしょうね」
「……そうだね、遠野っち。きっと、そうだね」
キツキさんが珍しい位に口調に軽やかさがないことに違和感を持ったが、ぼくは特に気にしないことにした。
たいした問題ではないだろう。
「……遠野っち」
「なんです」
「……前言撤回してもいい?」
「はあ、どれに関してですか?」
「二カ所」
キツキさんは大神さんの家に近づくにつれ、なにかを感じているかのようでその雰囲気が変化している。
ただぼくからすれば、それは少々遅い。
「一つは百匹相手でもなぶり殺しにできるから余裕、みたいに言ったこと。 あれ、ちょっち厳しいかなって……」
「なぜです?」
「あれ、犬なんてレベルじゃなくなってきてるし」
ああ、見えてるよ。さっきから。
朝日で出来た、濃い影に潜む獣たち。
狼には違いない、だけど……狼ってどこからどこまでか狼なんだろう。
何十匹の群が影一ひとつに凝縮されている姿。いったいとなって、の文字通り一体となって存在するその形態。
「あれ、百匹なんて目じゃないよね」
それが影という影すべてに存在しているのだ。
百? ああ、そんな数に収まらないのは最初から、ぼくは承知している。
「ああ、そうですね。で、もう一つは?」
「敵の本拠地に行くわけじゃあるまいし……って部分」
「へえ……」
「だんだんがんがん強くなってるんだよね、気配が」
「キツキさん、もう一つ訂正したらどうです」
「……なに」
「ぼくを護る余裕なんてない、ってね。 そしたら、勝てるでしょう? 少なくとも、対抗は容易なはずです」
「そう簡単にはいかないけどね、一理ある。 でも、それは言えないよ」
「いや、大丈夫です。 間違いないです。 ぼくは襲われません」
気付くべきだった。
所長は気付いていたんだろう、いや、たぶんぼくが気付いていると思ってたんだろう。ぼくがこの事態を把握していると勝手に思ったんだろう。
だから、ぼくの安全のためにキツキさんを派遣した。ぼくが絶対に大神さんに連絡をとるとそう思って。大神さんに必ず会いに行くと判断して。
「所長は案外馬鹿ですね、そうだと知ってたらもう少し慎重に対応しましたって」
あの人自分が頭良いと思ってないから、自分と周りが同じくらい察しがいいとか認識してるみたいだからな。あえて、わかりきってると思って言わなかったな。
「この事件、今の中心地は大神家ですね」
「みたいだねー、どうする遠野っち。引く?」
「キツキさんこそ、ぼくをやっぱ所長の所に連れてくって言わないんですか?」
「いやー、さすがに、ね。今さらかな……って? それに断ったら、この車から飛び降りるでしょ?」
「ええ、そうですね」
それも時間稼ぎにキツキさんに一撃噛ました挙げ句ですね、間違いなく。
「わかんないなー、たいして興味もない相手のためにどうしてそこまでするかなー」
「どうしてって……」
「死ぬかもよ?」
「たかだか死ぬってだけじゃ脅しにもなりませんよ、命賭けるだけなら小学生にも、いや、三歳の子供にだって出来ます。まあ、もし理由があるとすれば――」
ずっと、車に乗ってから見え始めていた彼女へとぼくは目線を映す。
バックミラーに映る、存在感のない彼女を見て。
その存在感を取り戻しつつある彼女を見て。
右腕に巻いた包帯を血に染めた彼女を見て、ぼくは言った。
「女の子だからですかね」
ぼくしか見ていない、もう一人の虚ろな大神アスカを見て。
ぼくしか見えていない、二重身である大神アスカを見て。
ぼくは言った。
「助けるかどうかは置いといて、放ってはおかないでしょう」
それと、もし他に理由があるとすれば、状況を読み間違えた時点で自分が引き返さないことに意味があるのだとしたら、それはたいした理由ではなく。
ずっと、背後に立っていたのに。ぼくは気付かなかった。
ここまで来て、ようやくぼくは気付いた。
「気付かれないのには慣れてるんですけど、気付かないのには慣れてないからですかね?」
たかだか、存在が薄れたって程度で気付けない。
すこし、自分が腹立たしいからだとそう思う。
「変わらずわっけわっかんないなあー、遠野っちはっ」
ぼくは笑われた。
犬歯をむき出しにして、嬉しそうに笑われた。
「それに付いてくるキツキさんもたいがいですけどね」
さて、目指すは一つ。
今さら下がる退路など、ぼくは知らない。
読み返してみると、なんとなく文章全体が見ずらい気がします。
……なにが悪いのかな。なにかいい方法があれば、全体を修正するかもしれません。