プロローグ
彼女は呟いた。
……まるで凍えているかのような、寂しそうな目で。
「あなたがいなければ、気が付かなかったのに」
それがどういう意味なのか、私にはわからない。
ねえ、それはなに?
つまり、私のせいでこうなっているってことなの?
私のせいであなたは死のうとしているの?
私はあなたにいったい何をしたの?
私を恨んでいる、そういうことなの?
……ねえ、私がいなければよかったの?
……ねえ、私は傍にいなければよかったの?
……ねえ、本当は私のことずっと邪魔だと思ってたの?
たくさんの疑問が頭を巡る。
たくさんの後悔が世界を揺らす。
そう、私はこの結末を知っている。
私はこのあと、何が起こるか、それを知っている。
私は彼女に向けて、一歩を踏み出そうとする。
でも、足が動かない。
あの時、私は動かせなかったから。
だから、どんなに頑張っても足は動かない。
彼女は言う、一切の虚構を含まない声で。
「私はアンタを許さない」
そうして私に決別するかのように背を向ける。
おそらくその目が見つめるのは、自分がずっと暮らしてきたこの町。
ただその目が、どんな風にこの町を映し、どんな想いを抱いてそこに立っているのか、私にはわかりようもない。
それでも、私は。
……なにか、彼女に声をかけようとして。私は口を開く。
だけど、声が出ない。
喉は震えたまま、なにも意味のある音を出せずにいる。
なにを言ったらいいかわからない。
どうしたら、声が出せるのかもわからない。
伸ばそうとした指先が震える。
――呼吸が出来ない。
息苦しい。
それでも、なにかを言おうとして。
ヒュ……と小さな音が喉の奥から聞こえ、また呼吸がままならなくなる。
(なにか言わなきゃ)
その気持ちだけが、私の中で反響し続ける。
なにを言ったらいいのか、その言うべき言葉は私の中からは出てこなかった。
その理由は今ならわかる。だって、私は……。
結局、私が考えていたのは――。
その時、一歩を踏み込もうと僅かに彼女の重心が傾いた。
それに気付いて、頭の中が真っ白になった私は『何か』を叫ぶ。
反射的に『何か』を叫ぶ。
それに気付いたのか、彼女はゆっくりと振り向いた。
「アスカ」
涙目で彼女は私へ振り返る。
その表情には決意と、笑顔。
溢れんばかりの感謝と喜び。
私が今までで見た中で、最高の笑顔がそこにあった。
きっと彼女の、本当の笑顔がそこにあった。
止められない。
止められはしない。
私は手を伸ばせない、だってそんな顔をされたら。
まるで、私が……。
彼女は謳う。
「ありがとね」
そう、どこか嬉しそうに。
まるで、自ら心の底から望んでそうするかのように。
力強く一歩を踏み出し、そのままの笑顔でゆっくり崩れ落ちていく。
そして彼女は、――樋口カナは学校という舞台から。
世界という、現実という、日常という、小さな小さな舞台から。
奈落の底へと、飛び降りた。
私は思わず、飛び起きた。
そこは私の部屋、ベッドの上、見慣れた世界。
夢なのはずっと気付いている。
繰り返し繰り返し、あの瞬間を見ては目覚めている。
もうそれが何回目かなんてわからない。
数えることに意味なんか無い。
だって、私は同じことを同じように繰り返しているんだから。
あの時に何度戻っても、私は彼女を止めることなんか出来ない。
何度、チャンスを貰ったって私は何も出来ない。
あれは紛れもなく現実で、間違いなく夢。そして、どうしようもないぐらいに真実。
何度も、何度も私は私の罪深さを知る。
自分の浅ましさを、愚かさ知る。
もし、私があとほんの少し優しくて、ほんの少し誠実で、ほんの少し思いやりがあって、 ほんの少し自分に対して厳しくあれたなら、きっと何かが違ったはずなのに。
そう、なにかがほんの少し違っただけで、彼女に声が届いたはずなのに。
何度繰り返しても、同じ結果になるのは……。
そんな結果になるのは……。
きっと、それが――私の罪深さなんだ。
私は決して、彼女に許されることはない。