第9話 可能性と言う名の不都合
私は学校に通うようになった。
どうせ、そのうち死ぬのだ。
いつもつきまとっているそいつは、いつか私を殺すだろう。
私の望みを叶えてくれるだろう。
彼を彼が殺したように。
私も私に殺されるに違いない。
それはすこしだけ、嬉しさと誇らしさがあった。
私は学校に行った。
なにも変らない日々がそこにあった。
彼を失っても、続いていく世界があった。
私は世界を憎悪した。
それでも、私は学校に行った。
世界はひどくうるさく。
耳障りで。目障りで。
世界に対する意識を取り戻せば、取り戻すほどに。
認識を持てば持つほどに。
醜くて、鈍感で、無関心で。
そのくせ、小うるさくて、耳ざとくて、余計なことばかりしてくる。
もう邪魔はしないで。
私に構わないで。
「こんな世界なくなればいい」
……私はそれでも学校に行った。
その背後に私自身を引き連れて。
*
ぼくは教室に足を踏み入れる。
慎重にゆっくりと。
まるで、水面に波が立たないようにするように。
ぼくは物音も立てずに一歩、一歩と進んだ。
時間は放課後。
校舎からはほとんど他の生徒の気配はしない。
残っているのは、ぼくと……。
次第にうっすらと目の前に現れる気配。
それはまずは影として、次第に形が見えるようになり、目をこらしていくうちにそれは女の子だとわかった。いや、もともとわかってはいた。
ハミに調べてもらい、その存在がまだいることを確認し、他の余計な気配がないこの時間を見計らってぼくは来た。
彼女に会うために、彼女の気配を他の気配が隠してしまわないように。
ぼくとハミの隣の教室、つまり、彼女自身のクラスで。
「やっぱり、まだ残ってたんだね」
ぼくは彼女に話しかける。
こうして話すのはおそらく初めてだろうか。
「……遠野くん、ね」
それは、ぼくが大神アスカと見間違えた人物。
そう、ぼくは樋口カナと会いにここに来た。
「……ぼくのことを知ってたの?」
「まぁ、ね。こうして話すのはたぶん初めてだけど」
「そう、だよね」
あまり顔は広くないつもりなんだけど。
なんかまずい噂広まってるのかな、やっぱり。
「で、その遠野くんが私になんの用?」
「いやね、なんでこんな時間になってまで残っているのかなって」
ほら、とぼくは窓へ目線を促す。
真っ赤な光が窓から差し込む光景がそこにあった。
「もう、放課後だよ」
「……そうね」
彼女の瞳をのぞき込む。
そこには光はなく、夕暮れの赤を映すことはない。
死者の目……というものなのだろうか。
「なんかこの教室に用事でもあるの? ……樋口さん」
ぼくは、無言の彼女に笑いかける。
「……ねぇ、こういう話があるんだけど、知ってる?」
彼女の瞳はぼくを見た。
その瞳にぼくは映らない。
だが、言葉は聞こえている。
きっと、ぼくには彼女を本当の意味では理解できないだろう。
ぼくは彼女の死の意味を知らない。
だから、ぼくは――…。
静かな声で紡ぎ始めた。
「誰もが眠る静かな夜、私の恋人はかつて此処に住んでいた」
彼女はぼくをいったい何事か、と。
そんな顔で見る。
ぼくはもう一度、笑いかける。
「あの人はもうこの街にはいないけど、この家はまだ此処に残っている」
彼女の瞳はぼくを映さない。
だけど、彼女のその目は大きく見開かれる。
「私はここからその家を見上げる」
彼女は痛みを知っている。
「この手が大きく震えて、鈍く重い痛みが私を襲う」
「その姿を見て私の心臓は激しく鳴った」
それはぼくの知らない痛み。
僕の知らない――傷。
「私の家の中に住まう影」
「月が照らすその影はいつかの私」
「私を見下ろす私の姿」
「ああ 貴方はもう一人の私 その青ざめた顔」
「そう 貴方は去りし日の私」
「二度とは戻れない日の私」
「幾夜 此処に悩み佇んでいたのだろう」
「私は幾度となく同じことを繰り返す」
「そして……同じことを想うだろう」
彼女はいつかしか、自身の痛みをその詩に重ね合わせていた。
痛みや傷を持つ人は、それに触れるたびに思わずにはいられなくなる。
たぶん、それが人間の弱さだ。
ぼくが彼女の死の意味を知らなくとも、過去と言う存在を連想させるような言葉を言えばいい。
すでに死んでいる彼女にとって過去とは、死んだ理由に直結せざるをえないのだから。
だから、ぼくは――…。
「永久にそこで悩み続けるのも美しいのかもね?」
そう彼女に語りかける。
この詩のように、もうその影を見上げてくれる人はいなくなったけど。
彼女の場合は見下ろした、いや、見限ったわけだけど。
彼女ははっとしたようにぼくを見、口を開いた。
「……そうでもない、よ」
「そう……そうだね。いいことばかりじゃない、かもね」
樋口さんがそう言うならそうなのだろう。
想い続けることは美しい。
残留する想いは不変かもしれない。
だが、変らない想いを抱き続けるのは。
治らない傷を持ち続けるのは、きっと、とても。
……つらいことなのだ、とそう思う。
「女の子ってさ」
「……うん?」
「さっさと終わったことはアルバム燃やして忘れて、ああ、自分のいい経験になった……そう一方的に勝手なこと言って忘れるもんだと……ぼく、思ってたんだ」
「……それ、たぶん大正解」
「そうかな」
ぼくは樋口さん見てたらわかんなくなったよ。
樋口さんは笑いながら話す。儚げな笑顔。
「女ってさ、基本忘れるんだよ、たぶん。自分が生きてくのに都合が悪いことは」
「……うん、それはなんとなくぼくも思ってた」
「それを女子に面と向かって言う? でも、ま、実際なんだかんだ女友達でおしゃべりして、昔の暴露話なんかの格好のネタになって。 きっと最後には楽しくやれちゃうんだ」
そう、つらそうに話すから。
ぼくは思った。
「それが許せなかったの? それが、君の未練?」
彼女から返答はない。
その代わり、彼女は問いを返した。
「さっきの……さ」
「……うん」
「さっきのは……なに? 遠野くんが考えたの?」
「いや、違うよ」
ぼくは詩人じゃない。
そうだとしても、自作の詩を人前で発表できるほど厚顔な人間じゃない。
「ハインリヒ・ハイネって言うドイツの詩人がいてさ、その詩をぼくなりに解釈して、まぁ、訳してみた」
「へえ、そんなことが出来るんだ」
「いや、あれですよ。ぼくはドイツ語なんて読めないですよ?」
「……わかってる、苦手教科は英語なんでしょ」
「誰がそんなことを!?」
「なんだ違うの?」
いや、事実だけど。むしろ、全教科苦手だけど。
つか、事実だからこそ広めるなよ!
「でも、あれだね。男子ってみんなそういうの知ってるの?」
「……いや、そういうわけじゃないと思うよ。ぼくなんか、昨日今日に知っただけだし」
詩なんて普段読みません。
同年代の男子代表で赤霧先輩もアウトだろう。
あの人が詩とかなんとか読んでたら、正直鼻で笑ってしまう。うん、笑った挙げ句、思いっきり見下してしまう。
「ふうん……そういうものなの?」
「うん、詩なんて興味ない人が大半じゃないのかな」
「そう……なんだ」
どこか深く、地面の下を覗き込むように床を見下ろした後、彼女は言った。
「私の好きな人はさ、そういうの書いてた」
「へえ、変ってるね」
「そう?」
「うん、ぼくには無理だな」
そういうのって、成人してから見たら悶絶しそうだ。
若いうちの恥を掻くっていうのはいい経験だとしても、可能なら形には残したくない。
「……なんていうのかな、楽器とか演奏する人でさ」
「へえ、格好いいね」
「うん、バカみたいだけど、まぁ、格好よかった」
「ぼくは、……そういうの出来ないから羨ましい、かな」
「あー……でも、うん。ウジウジしたヤツでさ。なんかもうソイツ見るたびに、苛ついて苛ついて、もう気持ち悪いったらなくて。すっごく前のこと常に後悔してんの」
「へえー……」
なんだろう、なぜかぼくが責められているような気分になるんだけど。
「えーと、それはもう済んじゃってどうしようもないことばかり?」
「そう、そんなんで生きるだの死ぬだの、幸せだの不幸だのって騒いでんの。どう思う?」
「どう思うって……」
たぶんその人とぼく、同類だと思う。
ぼくは女々しい人間だった。
「……そういう人って、周りの人のこと見えてなかったりするかもね」
「え?」
彼女の表情に理解の二文字が浮かんでなさそうなので、ぼくはもう少し、言葉を付け足す。
「いや、周りを見る余裕がなさそうってこと」
あれ? だからぼく、他人に興味が持てないのか?
自分で言っていて、納得しそうになった。
「……んー、まぁそういうとこはあったかもね」
「ああ、やっぱり?」
「うん、周りの想いとか全部ないがしろにしてさ。騒ぐだけ騒いで迷惑掛けっぱなし」
……じゃあ、ぼくもそうなんだろうな。きっと。
うん、みんなごめん。
「……そんなんで、たぶん私の気持ちなんか気付かなかったと思うよ」
「――え?」
「アイツ、私といる時、ずっと自分の好きな女の話してたから」
「あ、ああ、そうなんだ」
……ひどい話だ。
てか、付き合ってる訳じゃなかったんだ。
「でも、好きだったんだ」
「うん、今となってはなんでか、わかんないけどね」
「今は好きじゃないの?」
「……たぶん好きだよ。でも、アイツと付き合っても幸せにはならなかったと思う」
「……うん」
「誰かと付き合って幸せになるってさ。 一人でもそれなりに幸せに生きて行けそうなヤツを選ばないと無理だと思うんだよね、自分もそれぐらい強くなきゃ無理と思うしさ」
「どういうこと?」
「……誰かと付き合っても、ホントは人間一人ぼっちってこと」
……なんか難しいこと言うな。
「なに、遠野は誰かと付き合ったことないの?」
「……ないけど」
「……へえ、そっか」
「なんでさ」
「いや、ちょっと意外。 もうそういう相手いるのかなと思って」
「そう言う相手?」
「うん、許嫁的な」
「いつの時代だよ!」
いやいや、そういうことじゃなくて。と樋口さんは焦ったように言う。
……本気の科白だったのか。
「なんか、そういう雰囲気だからさ」
「雰囲気?」
「話してから思ったんだけどね、私さ、男女間で友情はない、と思ってんの」
……いきなりなんだ。
「彼はさ、私のこと親友だとかほざいてたけど、そんなのバカみたいな話でさ。実際、私はそう思ってなかったし」
「……うん、まぁ、そうだよね」
「でも、アンタはさ、向こうがどう思ってようがそういうの真っ先に無視できるんだろうな、って思って」
無視する? ……相手の想いを?
んー、そういうことは今まで考えたこともない話だった。
どうだろうか、……そう言われたらそんな気もするけど。よくわからない。
「……でも、それと婚約者とどういう関係が?」
「もう、最初からそう言う相手が決まってるんなら、そういう人もありえるのかなぁって思って。 男って基本、手を出せる相手には出すもんだと思うからさ。 出さないのなんて、他の女に完全に目が行ってるか、相当魅力がない時ぐらいでしょ?」
「……それに関しては否定しないけど。でも、残念ながらぼくには好きな相手はいないよ」
本当に残念なことに今も昔も。
ぼくは誰も愛してない。
だから、好きな人の手を握ったこともなければ、いっさい話したこともない。
もし、そういう相手がいたら今より多少人生楽しくなるのだろうか。好きな人がいる人を見て、そうだとはまったく思えないのだけど。
「……そっか、じゃあ――」
「うん」
「ま、もうこの話は私には関係ないけど」
「なんだそれ」
ひどい話の切り方だった。
女の子って、みんなこうなのだろうか。
ハミもこんな感じの一方的な切り方する気がする。
「それはともかくさ、彼もアンタみたいな感じだったら良かったのかな。それとも、今よりキツかったのかな?」
まぁ、どっちにしろ死んじゃってたと思うけど。
そう、彼女は冗談めかす。
死ぬほど笑えない冗談だ。
「もしかしたらだけどさ、恋が上手く行く相手だったら好きにならなかったかもね」
ぼくはなんとなくそう思った。
上手くいかない相手だから、恋しくなる。
「……かもね」
彼女もなんとなくなのか、頷いた。
「……結局似たもの同士だったなのかな」
「なにが?」
「彼さ、好きな女が死んだらしいのよね。私はその女と直接会ったことは……まぁあるにはあるけどさ、話したことは何度かしかなかったから、いまいちアレだけど」
「へえ……」
それは、何とも言い難い話だな。
本当に、何とも言い難い。
「彼ひどく落ち込んでさ、元気なくって。 私、これでも必死になって彼の所通ったんだよ?でも、まるで効果なくて」
「……うん」
「しばらくそうしてたら、勝手にふっきれたって言って学校通い始めて」
「学校に?」
「うん、で、私も複雑な心境ながら、一応安心してたんだけどいきなり電話来てさ、家に来てくれないかって」
そしたら……。
そこまで話していた彼女の顔が一気に歪む。
「死んじゃった」
「死んだ?」
「うん、自殺」
痛そうに彼女は胸を押さえる。
まるでそこになにかが刺さっているかのように顔を歪ませ、胸にその爪痕が残るんじゃないかというほどに抑え付けている。
……もしかしたら、彼女にとってその出来事は覚えているどころの話ではないのかもしれない。
死者である彼女は、風化することのない残留する記憶として、消えることのない記録として、決して色あせずにその時の想いを持っているのかもしれない。
常に当時の心境のままだとしたら。
――ぼくはなんて残酷なことをしているんだろう。なんて卑怯なやり方でそれを探ろうとしているんだろう。
「ねえ。 それは本当に自殺なの?」
「……わからない。 でも」
「自分が自分を殺したのには、違いない?」
やっぱり、彼女は答えない。
問いを返してくる。
「ねえ、私、後追い自殺ってことになるの?」
「さぁ、どうだろう」
そういった話をぼくは聞いていなかった。
だから、ぼくは正直に言った。
「……君とは仲良くなかったしね、わからないよ。正直な話興味もなかったし」
嘘は嫌いだし、ごまかしも嫌だ。出来るなら吐きたくはない。
彼女は複雑な顔をして見せた。
「まぁ、そう……だよね」
意外にも納得する彼女。
気分を害した様子はなさそうだったが、何とも言えない表情で言葉を続けた。
「……私さ、なんかさ。もし、後追い自殺だと思われてるんだったら嫌、かな」
「嫌?」
「私は、彼のために死ぬんじゃないの。 私は私が嫌になったから死んだの」
「そっか……ならぼくがそれを伝えておくよ」
「……誰に?」
「一番わかってくれそうな人に」
「……んー、まぁ、じゃあ――…それでいいや」
彼女の姿がどこか薄くなったように感じる。
もう日も落ち、あたりは暗くなり始めていた。
ぼくは彼女に出来るだけ、優しく語りかける。
「そろそろ、帰らないといけないね」
「え……ああ、そうだ。もうこんな時間――」
「うん、そう。実はもうこんな時間なんだ」
「なんだろ、最近さ、時間の感覚がなくって」
「ぼくは、よく曜日感覚を失う」
「……なにそれ」
呆れたような、でも、楽しそうな笑い声。
その存在は限りなく遠くなり、もはや目の前にいるのかどうかも定かではない。
「そういえば、さっきの詩さ」
「うん?」
「題名、なんて言うの?」
「題名……そんなのが気になる?」
「彼がさ、そういうの好きだったからさ」
なるほどね、そうぼくは頷いて。
言葉を続けた。
「詩の題名はね、『影法師』……またの名を」
――ドッペルゲンガー。
「ドッペル……ゲンガー?」
「そう、その意味を『二重に出歩く者』。つまり、もう一人の私」
「もう一人の私……」
「君は見たことある?」
「私……は?」
僅かに見える樋口さんの顔は、なにかを見ようとするように目を細めていた。
それは近くもあり遠くもある記憶。それを……。
「……あ……る」
掴んだ。
「……あるよ」
「本当に?」
「うん、見てた」
「見てた?」
「ずっと、見てた。ああそうだ。私は―……」
「君は?」
「私がもう一人の私だった」
「え?」
ぼくは彼女を見る。
彼女は笑った。
「ホント、駄目だな。私の周りの人ってみんなお節介だ、余計なことを気付かせてくれる」
「……そりゃ悪かったよ」
正直、余計なことをしているような自覚はあった。
「ううん、私もたぶんそうだったんだ。 でも、ごめん。 ああ、遠野くんに言ってるわけじゃなくて……そう謝っといて欲しいの」
「誰に?」
「あのね、でも……ううん、それよりも苦しんでると思う」
「だからなにが?」
「私が私自身を見るようになったのはね、彼のを見たからなの」
「……見た?」
彼女は頷く。
その声は最後に耳元で囁かれたような、いや耳の奧から響いたような気がした。
ドッペルゲンガー……と。
*
「この事件の自殺者はその以前にほぼ全員がこう証言している」
コーヒーを飲み、一息おくようにして所長は言った。
「もう一人の自分を見た、と」
「それはつまり……ドッペルゲンガーですか」
「ドッペルゲンガー? なんだそれ」
赤霧先輩は眉にしわを寄せて聞いた。その仕草は凄んでいるように見えなくもない。
ぼくはいつものように呆れる。
「……先輩、魔術師なのにそんなことも知らないんですか」
「俺はまともに魔術を修めている訳じゃねぇんだよ……それに、今回の話はあんまり魔術の領分ではなさそうだし、な」
そう言って、コーラを一気のみする先輩。
空のグラスをぼくに向けて先輩が差し出したのを確認するが、ぼくは先輩の目の前にボトルを置くことで対応する。……わざと大きく音を立てて置いてやった。
それぐらい自分でつげ。
巫月所長はその様子を見て苦笑しながら、赤霧先輩の科白に同意を示した。
「……そうだな、赤霧の言うとおり魔術の領分から外れている部分もあるかもしれない。私は魔術の専門家ではないのでなんとも言えんがな」
じゃあ、所長の専門ってなんなんですか。
とは、聞けずに話は進む。聞いたら話が横道に逸れかねないし。
「ドッペルゲンガーというのは、ありえない状態で目撃されるもう一人の自分のことだよ。言葉そのものを直訳すれば『二重に出歩く者』と言うのが一般的な解釈だろうか。 特にドッペルの言葉の意味には、悪しき存在を意味する部分があってね。 悪霊的なものだと考えることも出来る」
「悪霊? もう一人の悪い自分と言うことですか?」
「その『悪い』は人間から見た定義だろうだがな、今いる自分と言う人間にとっては都合の悪い自分、人が切り捨てられたもう一つの可能性なのかもしれない」
「可能性……」
「そう、人間の霊的な部分は陰と陽、光と影、善と悪、と言った複数の二つ以上の概念に分かれるといった解釈がよくなされている」
ああ、そういうのはなんとなくわかる。
あれだろう、天使の自分と悪魔の自分が語りかけてくるみたいな図がよく漫画かなにかであったりする。ああいった感覚なのだろう。
「そうなると人間の悪の部分がドッペルゲンガー、だと?」
「そう解釈出来ると言うだけだ。 そもそも、このドッペルゲンガーと言う言葉自体はドイツ語なのだが、こういったモノの記録や伝承は実は世界各地にある。
それも最近の目撃例すらあるほどだ。……この現象の定義はこうだ、一つ目がもう一人の自分自身を自分が目撃してしまうこと。
もしくは第三者がもう一人の自分を目撃することを指す。この時、自分自身を見た者は死ぬ、と言う話も付属することがある。
よく勘違いされるのだが、この時目撃されるもう一人の自分は必ずしも自分と同じ姿形をしているモノとは限らない。自分よりも老いていたり、逆に幼い場合もある。 それどころか、自分とはまるでかけ離れた姿であることも少なくない。 それでも、人は見たときに確信するそうだ。
――これは自分自身だ、とね。
その本人の認識そのものには善も悪もない。 ただ自分自身だと言う実感のみがある。 その現象に恐怖を覚える例がないわけでもないがね」
自分と同じ顔すらしてない相手を自分と思う。
なんとも奇妙な話に思うけど。
でも実際、自分自身を鏡で見たとき、こんな顔してたっけと思うことなんかざらだもんな。精神的に疲れている時なんか特に。
……よく鏡の前で自分を見失います。
「一般にこの現象はオカルトだと解釈されるが、これは医学では自己像幻視と言われる現象でね、なんでも脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域に異常があると、自分の身体の外に自己が存在すると錯覚する場合があるらしい」
「自分の身体の外に自分が?」
「そう、自分の身体が自分でないような錯覚を覚えたことはないか? それがあるように、さらに進んで自分の身体でない場所が身体のように思うことがある。と言うことだ」
「……なんか漠然とイメージしがたいんですが」
巫月所長は、出来の悪い生徒に向かって優し気にほほ笑んだ。
「人間とそれ以外の境界線は、もともとはっきりとしない曖昧なものなんだよ。 私が彼なのか、彼が私なのか。私はどれなのか、どこにいるのか……遠野は胡蝶の夢を知らないか?」
「……胡蝶の夢? 電気羊とかの夢を見たとかそういう話ですか?」
なんか思いついた単語を言っただけで、馬鹿を見るような目で見られた。
そして、ため息をはかれた。
「それはブレードランナーの原作だな。 ある意味、合ってるかもしれないが」
そのうえで、さらに絶望的な馬鹿を見るような目で見られた。
「まぁ、それは置いておくとしよう」
「なにがですか」
「とにかくその脳の異常によってドッペルゲンガーを見た者は死ぬ、と考えれば科学的にこの現象に一応の説明は付けられるかな。
病気だからドッペルゲンガーを見、病気だから死ぬ、とね。
また精神的な病を原因とすると言う説もある。この現象の後によくみられるのが、原因不明の病、もしくは事故自殺と言った形での死。
いずれも、今のような医学的な裏付けがあれば簡単に納得できる程度のモノだよ。
……と言っても、ドッペルゲンガーは第三者からの観測も可能な場合もあるから、これだけでは説明は付かない。 私が思うに、いくつかそれぞれことなる現象をまとめてドッペルゲンガーとしてしまっているんだろう。だからこそ混乱が生まれているのではないかな。
自己のドッペルゲンガーを目撃した人物は、そうだな、有名な人物だとゲーテ、日本だと芥川龍之介がそうだと言われる。 またドッペルゲンガーと言う存在自体が文学や詩の題材として、古くから使われているものでもある。哲学や芸術と言った部分には意外と縁深いものなんだよ」
「えーと、……それってつまりどういうことですか」
「詳しくはよくわからないと言うことだ」
……ここまで話しておいてそれですか。
ぶっちゃけ、話し長すぎて途中から聞いてなかったよ。
「……なんだよ、巫月らしくねぇな。そんな話で終わりかよ」
「一応、他の解釈としては、『魂や精神体の分離現象』などの観点も考えられるが、どうにもすっきりしなくてね。結局、幽体離脱の延長線上のようなモノと言うことになる。 ただし、本人が覚醒している状態での幽体離脱はあまり現実的でない。 それも、本人の肉体が別の活動しているという状態でね。 そんなことを出来る人間は見たことがないし、それがなんら特別な訓練も行っていない人間がそんなことをするなんて言うのもおかしい。 そんなものが外部からの要因なく自然発生するとは考えられない」
「いや、だからお前自身はどう思ってんだよ」
「……まず、自己の分身を作るというのは術者にとってはよくある話だろう?」
「ああ、まぁ、魔術師の使い魔なんかまさにそれだよな」
所長の言葉を肯定する赤霧先輩。
なんだよ、それ。まずぼくにその言葉の意味を説明してください。
「……ぼくはそういうの正直よくわかりませんけど、そうなると赤霧先輩が言ったこととは違って、本当は魔術関係あることになるんじゃないですか?」
「そんなもん、ドッペルゲンガーとは別だろうが。確かに使い魔は主人と命や魂、もしくはその一部を少なからず共有する。陰陽道における式もまた役割としては近いモノだが、この場合ただの人間の話だろ」
……ただの人間。 まぁ一般人の話と言えばそれはそうだけどさ。
「でも、所長は関係があると思ってるんですよね?」
「ああ、一般人にそんなことはありえない。 ならば、そうでないなら話は別だろう。 似て非なる分身、使いこなせなければ牙をむく従者。 リスクと共に使役されるモノ。 ドッペルゲンガーを表出させた事例の中に、予言者によるものがある。 なんでも同時に複数の場所で説法を始めたらしい。 アレがそういった存在なのだとすれば……」
「はっ、誰がそんな面倒なことを。 いちいち素人にそんなことを施すって、どんな重いリスクを背負えばこなせるのか検討もつかねぇよ。 つか、ありとあらゆる術はその秘匿性が重要だろうが、公然と人前で使うための術なんてありえねぇよ。 集団催眠ならわかるがな」
「……そこで私が考えたのは先の話だ」
「先の?」
「人間の今生きている中で、切り捨てた不要だと判断し封印した部分を表出させる。 あってはならないもう一つの可能性、自分」
「……シャドウか」
あの、なんか、ぼく話から置いて行かれているような。
なんなんだよ、シャドウって。普通に直訳すれば影……だよな?
ぼくは赤霧先輩に聞いた。
「ああ? ……ようするによ、お前、もしも今の今までずっと子供の頃から自分がきちんと勉強してきてたら、もっと頭よくなったんじゃないか、とか思わねぇか?」
「そりゃ、まぁ、思いますけど」
「でも、お前は別の道を歩んできた」
「……そうですね」
「歩まれなかった道、なることのなかった自分、それがシャドウ。お前の人生の影の部分だよ」
……つまり、パラレルワールドの自分みたいなものだろうか。
Ifの自分と言うこと、もしもあの時自分がああしていたなら。という過程。
確かに、そこにはもう一人の自分がいるのかもしれない。もっと上手く人生生きていたのかもしれない自分、と言う人間が。
「……まぁ、単純に抑圧されてきた自分の欲望や願いを指すこともあるがな」
「自分の欲望をシャドウって言うんですか?」
「ああ、欲望に限ったことじゃねえけど、それも可能性の一つだろ。もしも、その欲望が満たせたなら……つーな」
「……それも魔術用語なんですか?」
「いや、心理学かなんかだったんじゃないか?」
なんで先輩がそんなの知ってるんだよ。
ぼくの視線に気付いたのか赤霧先輩は面倒そうに話を続ける。
「……魔術ってのは学問であるのと同時に、己の内面と常に向き合うモノでもあるんだ。 魔術は行使する、つまり火を出して燃やしたりなんて言うこと自体は、本来どうでもいいことなんだよ。 己自身を高め、真理に近づき到達するために研究を死ぬまで続ける、求道者のような、いや、殉教者達のためにあるみたいな世界つった方が正しいか。 神やそれすらを超越した超自然的概念と一体化することを目指すんだ。 ま、正気の沙汰じゃねえよな」
へえ、なんか赤霧先輩とは対極にある世界の話だな。
宗教的というか、お坊さんのする修行みたいだ。
「うるせぇな、おい」
「……ぼく、なにも言ってませんよ」
「目がうぜえんだよ!」
ひどい言われようだ。
「じゃあ、あれですか。先輩もその真理への到達って言うのを目指しているんですか?」
「いや、俺には無理だからな。ありゃ生まれで決まるんだ。それでも目指すかどうかは自由だけどな、俺は無駄はしない主義だ」
「……へえ」
無駄に自信ありげな先輩が無理だなんて、どんな過酷な目標なんだ?
要するに世の中、才能が全てってことなのか。
「で、巫月はその可能性の表出と、魔術などによる外部からの影響の双方を原因として考えてるわけだな」
「あくまで私個人がその可能性があると思っているだけだ、根拠はない」
所長はどうも自分の持論にすらしっくり来ていないようだ。
ぼくは所長に尋ねる。
「それって可能なんですかね? ぼくからしたら、どっちにしろあり得ない事態に思うんですが」
「さぁ……可能かどうかと言われれば、普通は無理だろうな。 普通と言う概念が通じる事態かは不明だが。 とにかく確かなのはドッペルゲンガーと呼ばれる現象が確かに発生していると言うことだ」
「確たる証拠もなく目撃証言だけ、ですけどね」
「話を聞いていなかったのか? この現象は目撃があることを言うんだよ」
「……なるほど」
ぼくは自分の分のコーヒーを飲み干す。
所長の分と一緒に淹れたものの、タイミングがなくそのまま放っていたのだ。
かなり温くなっていたそれは、一気飲みする分には悪くなかった。
もう一人の自分。
ドッペルゲンガー。
それは、ぼくが所長に相談したことの全てのことに対する答えになっていた。
複数の問いに対する、たった一つ解。
本人は関係あるかわからないなどと嘯いていたが、おそらく所長はそのつもりでこの話を始めたに違いない。
最近の仕事とやらも、それに関係するものなのだろう。
でも、だとすると……。
これから続く沈黙の中で、ぼくはつまらないことばかり考えていた。
それはたぶん、迷い――というものだろう。
できること、やれることはわかってる。
それなのに実行するのに、考えるための時間と未来への保証を望むのは。
それは要するに……ぼくが臆病者ということなのだろう。
樋口カナがどこかへ……おそらくは『別に天国でもないところ』へと帰って行くのを見送っていると。
廊下から、誰かが入ってきた。
そして、第一声。
「ハミはぁ、ただの邪魔だったかなぁ」
「……そんなことはないよ」
……うん、正直存在を忘れてた、とは本人には言えない。
「いる意味なかったよね?」
「まぁ、……確かに出番はなかったけど」
「ただのデバガメ? ハミ、デバガメ?」
デバガメ?
出歯のカメ?
……なにそれ。
「いや、ハミの言ってる意味がよくわからないんだけど」
「なんか、異様に仲良さげだったし」
「いや、初対面だから」
ふ~ん、とハミは何度も頷く。
「……じゃあ初対面の相手に詩を朗読したの?」
「悪かったな!」
ぼくだって恥ずかしかったんだよ、ホントは!
……とまぁ、実はもしもの時のために、ハミにはこうして待機してもらっていたのだった。
危険かもしれない相手の前へ、丸腰、無防備で行くほどぼくもお人好しではない。
……それも悲しい話だけど。
「でもぉ、あれはなんだったのぉ? 結局ぅ、樋口カナの幽霊ってことぉ?」
「あれを発見したのはハミの方だったろうが」
「……いるのは始めからわかってたけど、なにかは知らないよ」
うん、だよね。
君は他人に興味持てない人ナンバーワンだもんね。
「そういったって、ハミはこの事件の真相には気付いてるだろう?」
「どこから飛び降りがあったかぁ、ってことぉ?」
「そう」
「そりゃねぇ、この校内においてぇ。ハミが知らないことなんてそうそうないよぉ」
ただし、それも知ろうと思えば、の話らしい。
コイツ、その気になれば不可能犯罪をいくらでも量産できる能力の持ち主だからな。
……ある意味で既にしているけど。
「トオくんがぁ、大神アスカとの会話についてぇ。 ……ぜーんぶ話してくれたら、私も話していいけど?」
「後半、素に戻ってる」
「いいじゃん、二人きりなんだし」
「……なにがあっても、言わないものは言わない。これは人と関わる上でのマナーだよ」
「変なとこ真面目なんだから」
真面目って言うな、そう呼ばれることにいい思い出がないんだ。
せめて誠実といえ、誠実と。
「でも、遠野。 わかっちゃったんでしょ、いったいあの日なにが起きていたのか」
「そんな大層な話でもないけどね」
人ひとり死んだのに大層な話でもない。
そう、口走った自分に嫌悪感を感じたが、事実、大層な話ではないとそう思っていた。
「ハミはさ、大事な人が死んだらどうする?」
「……なに、それ?」
「死にたいと思う?」
「だからそれ、関係あんの?」
ハミの言葉には怒りが混じる。
ハミにとってはばかばかしい質問なのか、それともそれだけ大事な質問なのか。
ぼくにはわからない。
ただぼくは正直に「うん、ある」とだけ、答えた。
「今回のはそう言う事件」
「……そういうの、よくわかんないけど。 そう思うかも……しんない」
「そっか、正直、ぼくもよくわかんないんだ。 そう思うのかってだけじゃなくて、大事な人が死ぬってこと自体がさ?」
ぼくはまだ人を愛したことがないので、感覚としてつかめない。
ハミの表情からはなぜか、感情が読み取れなかった。声だけが怒りを示す。
「で、それとなにが……」
「うん。でさ、死にたいと思ったとするじゃない?」
そう、仮に、大切な人が死んでしまったから。
それを理由に、死にたいと思ったと仮定して。
「その後、なにかの間違いでそれがなくなったらどうする?」
「……は?」
「なくなったのになくならない、それが可能性なんだよね」
選ばなかった可能性が影として残るように、ぼくの中と外には何かが残る。
たぶん、それを記憶って言って、それを見て出てくるモノが気持ちなんだろう。
「……あのさ、私がなに質問したか憶えてる?」
「わかってるよ、要するにさ樋口カナは」
そう、樋口カナは。
屋上から飛び降りた。
そういうことだった。