CASE-001 例外事案課
片瀬遼は、その通知を三回読み直した。
もちろん、三回読む必要はなかった。
社会統合履歴基盤《AKASHA》から発行された正式通知が、宛先を間違えることなどない。本人識別は出生時に埋め込まれた個人ノードと直結している。世の中から「誤送信」という言葉がほとんど消えて何十年も経つ。
だから問題は、通知が間違っているかどうかではなかった。
書いてある内容を、片瀬自身が受け入れられるかどうかだった。
『人事異動通知』
『社会安全庁 事案管理局 通常事案評価部
片瀬 遼』
『右職員を、同局例外事案課へ異動とする』
「……なんで?」
口に出しても通知は変わらない。
片瀬は机の背もたれに体を預けた。
正面の業務画面では、さっきまで処理していた事案が静止している。
商業施設内で発生した傷害事案。
被害者一名。加害者一名。
発生時刻、位置、双方の接触履歴、加害者の腕部運動、被害者の負傷、周囲の映像記録。必要な情報はすべてアーカーシャ上で照合済みだ。
故意性については分析層が高確度判定。
緊急性なし。
再発予測低。
身柄確保不要。
被害者への医療措置完了。
残るのは処理区分を確認して送るだけだった。
昔はこういう案件にも、警察官が現場へ行き、事情を聞き、証言を取り、映像を集め、誰が何をしたのかを調べていたらしい。
片瀬には正直、想像しづらい。
事実は記録されている。
なら、もう一度人間が再構成する意味がない。
「片瀬さん」
隣の席から声がした。
「人事通知来たんですか?」
「来た」
「どこです?」
「例外事案課」
同僚が一度まばたきをした。
「……何したんです?」
「俺が聞きてぇよ」
「左遷です?」
「だから俺が聞きてぇって」
片瀬は通知を閉じ、代わりに自分の勤務評価を開いた。
処理件数。平均。
判断精度。良好。
重大誤判定。なし。
遅延率。やや高め。
「ほらな」
「何がです?」
「普通だろ、俺」
同僚が画面を覗き込む。
「再照会率、高くないです?」
「……そう?」
「通常事案評価部平均の四・七倍」
「必要だから見てるだけだろ」
「低関連履歴参照率……六・二倍」
「気になったら見るだろ」
「処理済み案件の再閲覧率、八・一倍」
「……」
「片瀬さん」
「なんだよ」
「たぶんそれですよ」
「何が」
「異動理由」
片瀬は勤務評価を閉じた。
「めんどくせぇ」
◇
社会安全庁が現在の形になったのは、片瀬が生まれるより前だ。
旧来の警察組織は、アーカーシャの普及とともに大幅に再編された。
行為そのものが記録され、人物の所在が継続的に把握され、重大犯罪へ至る行動系列が事前に検出される社会では、「犯人を探す」という仕事の需要は急速に減った。
残ったのは、危険を止めること。
人を保護すること。
必要なら身柄を確保すること。
そして、アーカーシャが提示した事実に基づいて、その事案をどう処理するか決めること。
そのため現在の社会安全庁は、大きく事案管理と執行に分かれている。
片瀬がいた通常事案評価部は、圧倒的多数を占める「普通の事案」を処理する部署だ。
対して――。
「ここ?」
片瀬は扉の前で立ち止まった。
表示には確かに、
『社会安全庁 事案管理局 例外事案課』
とある。
庁舎の端。
通常事案評価部のフロアから二階上がり、廊下をほぼ端まで歩いた場所だった。
思ったより普通の扉である。
もっとこう、隔離された地下施設とか、立入制限表示とか、そういうものを勝手に想像していた。
「……何期待してんだ、俺」
ノード認証。
扉が開く。
中も普通だった。
机が六つ。
壁面ディスプレイ。
小さな会議スペース。
窓際には、誰が置いたのか分からない観葉植物まである。
一番手前の机には、二十代半ばくらいの女性が座っていた。
「新しい人ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「今日からここらしい」
「じゃあ新しい人ですね」
「そうなるな」
女性は椅子ごと少し近づいた。
「小峰ひよりです。二十三歳です」
「年齢まで聞いてないけど」
「先に言った方が早いので」
「何が?」
「いずれ聞くかなって」
「……聞かないと思う」
「そうですか?」
「小峰」
奥から低い声が飛んだ。
「入口塞ぐな」
「あ、はい」
ひよりが横へ退く。
代わりに立ち上がったのは、三十代後半くらいの大柄な男だった。
「葛城省吾。元執行局だ」
「片瀬遼です」
「知ってる。今日来るって出てた」
「そりゃそうか」
アーカーシャ社会で「聞いていない」はあっても、「知らされていない」は珍しい。
必要な情報は、必要な人間に必要な時点で提示される。
「元執行局って、なんでここに?」
「俺も知りたい」
即答だった。
「適性だとよ」
「……みんなそれ?」
「だいたいな」
「社会安全庁って、人事までアーカーシャ任せなんですか」
「そこまでじゃねぇよ。候補を拾うのはアーカーシャだが、異動を決めるのは人事だ」
「なるほど」
「正確には、人員履歴から適性候補を抽出するのがアーカーシャです」
別の声が補足した。
壁面ディスプレイの前にいた女性が振り返る。
肩の辺りで切り揃えた髪。こちらへ視線を向けたのは一瞬だけで、すぐ端末へ戻した。
「配置決定権限そのものは人事部門にあります」
「……詳しいですね」
「元分析部門なので」
葛城が親指で女性を示した。
「篠宮奈緒」
「篠宮です」
「片瀬です」
「存じています」
「……でしょうね」
奈緒は片瀬を一度だけ見た。
「再照会率、かなり高いですね」
「初対面で人の勤務履歴見る?」
「配属予定者の職務傾向を確認するのは当然です」
「そうですか」
「通常案件で、必要性の低い追加照会を繰り返しています」
「必要性が低いかどうかは、見ないと分からないだろ」
「通常案件では、関連情報は既に提示されています」
「だから、それでも気になるときがあるんだって」
「非効率です」
「知ってるよ」
「なら結構です」
何が結構なのか分からなかった。
「お、新入りか」
さらに奥。
白髪の混じった男が、椅子に座ったまま片手を上げる。
「久我正臣。よろしく」
「片瀬です」
「前に会ったことあったか?」
「ないと思いますけど」
「そうか。じゃあ別人だな」
「適当だな……」
「俺の記憶だからな。確認した方がいい」
そう言って、久我は本当にアーカーシャへ照会を飛ばした。
数秒。
「ないな」
「でしょうね」
「ほら、記録の方が正しい」
「自分から言うんですね、それ」
「当たり前だろ。人間の記憶なんぞ信用するな」
そう言いながら、久我は妙に満足そうだった。
「全員揃ったな」
最後に、窓際の机から男が立ち上がった。
四十代後半。
スーツ姿だが、ネクタイは少し緩い。
「鷺沢英司。課長だ」
「片瀬です」
「知ってる」
「ですよね」
「座れ。説明する」
空いていた机を示された。
片瀬は荷物を置き、ひとまず椅子に座る。
「まず聞きたいんですけど」
「なんだ」
「例外事案課って、何する部署なんです?」
「その質問が出る時点で、人事は説明してないな」
「『通常処理不能事案への対応』とだけ」
「間違ってはいない」
「分かるように言ってください」
鷺沢は少し考えた。
「アーカーシャで処理できないものを処理する」
「雑だな」
「分かりやすいだろ」
「いや」
片瀬は眉を寄せる。
「そもそも、アーカーシャで処理できないって何です?」
記録は残る。
照合される。
分析される。
必要なら予測される。
犯罪も事故も疾病も契約も、ほとんどの社会活動はその仕組みの上にある。
アーカーシャにない情報を探せと言われるなら、まだ分かる。
だが、そんなものが今の社会にどれほどある。
「情報がないわけじゃない」
鷺沢が言った。
「むしろ逆だ」
「逆?」
「情報は全部ある。それでも既存の分類、照合、分析では説明できない事案が一定数出る」
「……それ、モデル側の更新案件じゃないんですか」
「最終的にはな」
奈緒が口を挟む。
「原因が分かれば、分析モデルへ反映できます」
「原因が分かれば?」
「分からないからここへ来ます」
片瀬は黙った。
嫌な予感がした。
「ちょっと待って」
机に肘をつく。
「つまり、何を調べればいいか分からない案件を」
「そうだ」
「何が起きてるか分からない状態で」
「ああ」
「人間が考える?」
「そういう部署だ」
「なんで?」
「アーカーシャが選んだからだ」
片瀬は鷺沢を見た。
「……誰を?」
「俺たちを」
「アーカーシャで分からないことを調べる人間を、アーカーシャが選んでる?」
「そうなるな」
「意味分かんねぇ」
「俺も最初そう思った」
葛城が笑う。
「今は?」
「今も思ってる」
「ですよね」
片瀬は深く息を吐いた。
「めんどくせぇ部署来たな……」
「歓迎します」
奈緒が無表情で言った。
「全然歓迎してる顔じゃないだろ」
「しています」
「嘘つけ」
「嘘ではありません。歓迎感情の有無は直接記録できませんので、反証不能ですが」
「そういう話してねぇよ」
ひよりが吹き出した。
◇
異動初日は、もっと書類仕事で終わると思っていた。
現実には、席に座って四十分後には案件が来た。
「片瀬」
鷺沢に呼ばれ、会議スペースへ移動する。
壁面に一人の男性の個人情報が表示された。
三十四歳。
会社員。
重大な違反履歴なし。
医療上の認知機能異常なし。
社会生活上の問題も特にない。
「相談案件?」
片瀬が聞く。
「ああ」
「例外まで上がるように見えませんけど」
「通常窓口では処理済みだ」
「なら何でここに」
「本人が再審査を繰り返した」
「それだけなら珍しくないでしょう」
「九回だ」
「多いな」
「しかも内容が変わらない」
表示が切り替わる。
女性の顔写真。
三十二歳。
死亡済み。
片瀬は記録を読む。
「死亡は三週間前。事故?」
「家庭内事故です。第三者介入なし。そこは確定しています」
「で?」
鷺沢が一つの音声履歴を再生した。
『この人は、俺の妻です』
男の声。
片瀬は画面を見る。
女性の婚姻履歴。
配偶者――別人。
「違いますね」
「アーカーシャ上ではな」
「同居履歴も……別の男」
奈緒が操作する。
婚姻開始から死亡まで。
住宅入退室。
共同決済。
旅行。
契約。
生活設備の使用。
すべて一人の男性と綺麗に繋がっている。
一方、相談者との関係履歴は薄い。
職務上の接触が数回。
数年前に同じ施設へいた記録。
それだけだ。
「記憶違いじゃないんですか」
「通常処理ではそうなった」
「医療評価は?」
「異常なし」
「異常なしでも誤記憶はありますよ」
「ある」
「じゃあ終わりでは?」
鷺沢は返事をせず、相談記録を開いた。
「本人と話せ」
「俺が?」
「今日来たばっかなんですけど」
「だからだ」
「意味分かんないんですが」
「先入観がない」
「みんなアーカーシャ見てる時点で同じでしょう」
「いいから行け」
片瀬はしばらく鷺沢を見た。
課長は動かなかった。
◇
相談者の名は、三崎直人。
三十四歳。
面談室に入った片瀬を見ても、特に期待した様子はなかった。
九回も同じ説明をしているのなら当然かもしれない。
「社会安全庁の片瀬です」
「はい」
「例外事案課というところに異動してきたばかりで」
「……はあ」
「なので、同じ話をもう一回聞かせてください」
三崎は少し顔をしかめた。
「履歴、見れば全部あるでしょう」
「あります」
「なら何を話せば」
「あなたが何を覚えてるのか」
三崎の表情が固まった。
「記憶は証拠になりませんよ」
「知ってます」
「じゃあ」
「証拠として聞くんじゃないです」
片瀬は椅子に座る。
「検索条件にするだけです」
三崎はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと話し始めた。
「沙耶とは、二十五の時に知り合いました」
故人の名は三崎沙耶ではない。
公式履歴上の姓も違う。
だが片瀬は止めなかった。
「最初に住んだ部屋は狭くて。台所なんて、二人立ったらぶつかるくらいで」
「場所は?」
三崎が住所を言う。
片瀬はまだ照会しない。
「続けて」
「結婚したのは、その翌年です」
旅行。
喧嘩。
転職。
引っ越し。
妻の癖。
嫌いだった食べ物。
休日に行った店。
三崎は具体的に語った。
もちろん、それだけでは証拠にならない。
人間の記憶は簡単に形を変える。
他人の人生を自分の記憶として信じ込むことだってある。
記録がそう示すなら、それがまず基準だ。
片瀬自身も、その考えに異論はない。
「最後に住んでた家なんですけど」
三崎が言った。
「台所の上の棚、扉が一回壊れたんです」
「棚?」
「蝶番が外れて」
「いつ頃です?」
「三年前くらい」
「修理業者は?」
「呼んでません。俺が直しました」
三崎が少しだけ笑った。
「部品の規格間違えて買って。銀色のネジの中に、一本だけ黒いの使ってるんです」
片瀬の指が止まった。
「一本だけ?」
「はい。沙耶がずっと文句言ってました。見た目悪いって」
「今も?」
「たぶん。直す直すって言って、そのままになってたから」
片瀬はそこで初めて照会を飛ばした。
三崎本人には閲覧権限のない故人宅の生活設備履歴。
社会安全庁権限。
台所。
収納設備。
保守記録。
――三年前。
一件。
収納扉の開閉異常。
住人による手動補修。
交換部品認証。
片瀬は詳細を開く。
銀色の固定ネジ三本。
黒色一本。
「……」
無言のままアクセス履歴も確認した。
三崎直人。
該当記録への照会歴――なし。
故人の住宅記録へアクセス可能だった履歴もない。
片瀬は画面を閉じた。
「どうしました?」
三崎が聞く。
「いや」
記録は正しい。
三崎の記憶が正しいとは限らない。
この情報を知る経路だって、まだいくらでも考えられる。
本人から聞いた。
誰かに聞いた。
偶然見た。
記録外の会話があった。
それだけだ。
それだけのはずなのに。
胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
「三崎さん」
「はい」
「そのネジの話、誰かにしたことあります?」
「ないと思います」
「沙耶さん以外には?」
「たぶん」
「分かりました」
片瀬は立ち上がった。
「今日は一旦ここまでで」
「……やっぱり、俺の記憶違いですか」
その問いに、片瀬は少し迷った。
「アーカーシャ上では、あなたが彼女の夫だった記録はありません」
「はい」
「だから、現時点ではあなたの記憶の方を事実とは扱えません」
三崎は目を伏せた。
「ただ」
片瀬は扉へ向かいながら続ける。
「ちょっとだけ、確認します」
「何を?」
片瀬は振り返った。
「まだ分かりません」
◇
面談室を出ると、奈緒が待っていた。
「どうでした?」
「ネジ」
「はい?」
「三年前、故人宅の台所収納に補修履歴あるだろ」
奈緒がすぐに照会する。
「あります」
「黒いネジ一本混じってる」
「……ありますね」
「三崎は照会してない」
「確認します」
数秒。
「アクセス履歴なし。本人に当時の住宅入室履歴もありません」
「だよな」
「ただし、情報取得経路が他に存在する可能性はあります」
「分かってる」
「これだけでは、三崎氏の主張を支持できません」
「それも分かってる」
「では?」
片瀬は頭を掻いた。
「なんで知ってるんだよ、あいつ」
「それを調べるんですか?」
「……」
「片瀬さん?」
通常部署なら終わっている。
記録は整合している。
婚姻履歴も、同居履歴も、生活履歴も。
三崎直人という男だけが、自分は別の人生を生きていたと主張している。
人間の記憶とアーカーシャが食い違えば、採用すべき情報源は決まっている。
それでも。
「……めんどくせぇな」
奈緒が一拍置く。
「何がです?」
「終わってるはずなのに、終わってる感じがしない」
奈緒は片瀬を見た。
それから、自分の端末へ視線を落とす。
「では、条件をください」
「まだない」
「……」
「だから今から探す」
奈緒は小さく息を吐いた。
「本当にめんどくさいですね」
「お前が言うな」
例外事案課への異動初日。
片瀬遼はようやく、自分が何のためにここへ送られたのかを、少しだけ理解した。
お読みいただきありがとうございます。
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