シロ
シロが住むこの小さな世界は、太陽より産まれし神が統治している。神とは、数千年前に太陽からこの地に移り住み、この世界を創造した者。人間の十倍もの寿命を持ち、天を駆けるなど人間には無い能力を持ち、慈悲を持ち、博愛を持ち、人道を説く。人間たちは皆、神の恩恵を受けてこの世界を生きている。神のもとにすべての人々は平等で、そこに貴賤は無い。
現在、神は一柱のみとなっているが、最初から一柱だったわけではなく、さほど多くはないが仲間たちがいた。
天孫降臨の後、しばらくこの世界は神だけの楽園だった。太陽から降りてきた神々が、自由に生活していた。太陽光を浴び、泉の綺麗な水を飲み、山で木の実を摂って生きていた。思い思いの住居も作った。とはいっても神自らが工具を使うのではなく、神が念じれば気の精霊と通じ合うことが出来、それによって材木が切れて立派な住居が建ったのだが。
自由に穏やかな生活をしていた神々。ところが数百年を掛けて、その数は段々と減っていった。どういうわけか、願っても祈っても太陽から仲間が降りてこないようになったのだ。太陽の側になにかあったのかもしれないが、一度地上に降りて来た神は太陽には戻れない。なにがあったのか、確かめようが無かった。太陽は、変わらず地上を照らしてはいたのだが、決して新しく仲間を降ろすことはしなかった。試しに月にも祈ってみたが、結果は同じだった。それと関係あるのか否かは判らないが、精霊たちと話をすることも出来なくなった。
寂しがった神々は、気まぐれにいくつかの人形を作った。神の能力の一つである分身の術は、自分の実子を生す時にしか使えないが、泉の水や土、空気を使って人形を作って神の息吹を吹き込んだら、動くようになったのだ。それが今日人間と呼ばれている生命体である。
驚くべきことに、人間は動いただけではなく独自に繁殖を始めた。やがて神の柱数を超え、人間だけの村が出来るようになるほどに。実際に神が作った人間の数は十体ほどであったのに、数百年の間にどんどん数を増やした。神には出来ない繁殖方法で。
人間たちは、どんなに数が増えても神々をよく敬った。自分たちの命が神々によって与えられたことが、魂に刻まれているのだろう。自然と神々に仕えるようになった。それは、神の数が減り、たった一柱になった現在でも変わらない。
神と神に仕える神官が住まう、海に囲まれた島を神界といい、神界と人間が住まう地を繋ぐ港の関所をほかの関所と区別する為に神関と呼ぶ。
現在、神は人間界に姿を見せない。先天的、後天的に目の見えない者、耳の聞こえない者が不平等だと感じないようにする為だ。この世界は平等であるからこそ争い無く成り立っている。
当代神以外の神族は絶滅した為、神官たちは全員が人間だ。年に一度の難しい試験を受けて、合格出来た者だけが神官になる。彼らは人間たちの憧れの職業であり、神官であることは人間の誇りだ。そんな彼らであってもよほどのことが無い限り会うことが許されない神に、唯一定期的に会える者がいる。それが巫女だ。
巫女は、神に選ばれた人間である。「巫女」とは書くものの、選ばれるのは女性とは限らない。歴代巫女には男性もいた。この世界には、男女にも不平等はない。巫女選抜に血筋は関係なく、ある日突然神からの宣を受けた先代巫女が迎えに来る。巫女に選ばれるということは、神と人間との懸け橋になることを指し、人間の中ではこの上ない誉とされている。神官のような試験を受けることなく神界に入ることが出来るのは、この世でたった一人巫女しかいない。
ただし、巫女に選ばれた人間はその時点で神界に入り、それ以降は神の言葉を降ろす以外で人間と口を利くことは許されない。神官はこの限りではないが、例え家族であっても、神の許可無しには会うことさえ出来なくなる。当然、未婚の者は結婚できないし、既婚者は伴侶と別れることになる。これも、巫女の家族ということによる不平等を生まない為だ。人間では誰よりも神に近く、尊い存在。それが巫女である。
だがそれは同時に、神でも人間でもなくなるということだ。自分と同じ立場や目線の者が無になってしまう。誰かと気軽に雑談も出来ない。人生の途中から召し上げられる分、巫女は神以上に孤独な存在だと言える。
会ったこともない、そしてその先頻繁に会うわけでもない神一柱と、家族をはじめとした親しい人間すべてと。
天秤に掛けた時に後者を取る人間がいてもおかしくはない。幼い少女ならなおのこと。
そんなことをぼんやり考えながら、シロは歩いた。
「シロの家は近くか?」
「ああ、少し先に赤い屋根が見えるだろ。あそこだ」
「ふむ。その、左手に持っているものはなんじゃ? 何やら温かいにおいがするが」
「肉まん」
「ニクマン……おお、知っておるぞ。肉まんじゃな? 食べ物であろう?」
「ああ」
「ふふ、そうか。実物を見てみたいと思っておったのじゃ。家に着いたら見せてくれ」
「まあ、見せるくらいなら…」
しかし、なにかおかしい。シロは思った。
この少女が巫女であることは疑いようがないが、この世間知らずさはなんだ。巫女とは確かに浮世離れした存在ではあるが、巫女に召し上げられるまでは普通の人間なのだ。少女は確かに幼いが、傘も持ったことが無い、肉まんの実物も知らないような年齢にも見えない。巫女に召し上げられる前は、ものすごいお嬢さまだったりしたのだろうか。この世界には、そんなに大きな貧富の差は無いはずなのだが。
少しだけ考えて、止めた。聞いたら面倒なことになりそうだったからだ。
面倒事は御免だ。
もう、御免だ。
「着いたぞ」
「おお、ここがシロの家か。ずいぶん小さいな」
「悪かったな」
玄関の引き戸を開けようとして、シロが止まる。
「おい、傘畳め」
「…たたむ…?」
「……」
小さく首を傾げたミーコを見て、そりゃそうかとシロは息をついた。持ったことが無いのなら、畳んだことなどあろうはずも無い。仕方なく、ミーコに肉まんを押し付け、少女を抱えたままなんとか自分で傘を畳んだ。
足場が不安定になったミーコは、シロの首にしがみついてその様子を興味深げに眺めていた。
「おい、帰ったぞ」
傘を脇に置き、戸を開けて、シロが中に声をかける。玄関の正面に伸びる廊下の奥には襖があって、その向こうから返事があった。
「遅ーい! 肉まん買うのに何時間かかってんの!」
「事情があるんだよ。いいから手ぬぐい持ってきてくれ」
「濡れたの? 傘持ってってたでしょう」
訝しそうな声とともに、襖が空いた。シロの同居人が顔を出す。
肩の線を優に越える髪を耳の横でふわりとまとめ、落ち着いた藍色の小袖を身にまとう彼女は、シロとシロが抱えている少女の姿を認め、動きを止めた。
間があった。
「……。誰それ」
「ミーコだ」
「ミーコじゃ」
「猫か。っていや、それ巫女でしょ」
「違う。ミーコだ」
「うむ。ミーコじゃ」
「いやだから、巫女でしょうよ」
「いやだから、巫女みたいな恰好をしたミーコだ」
「そうつまり、巫女のように見えるであろうがただのミーコじゃ」
シロの同居人は、額に手をやった。また間があったが、やがてふうと息をついた。
「うん、まあ、いいか。まずは手ぬぐいね。待ってて」
言って、ぱたぱたと家の奥の方へ消えていく。それを見届けて、ミーコはふふふと笑った。
「ごまかせたようじゃな」
「なんておめでたい頭してんだ」
「なに、違うのか?」
「……いや、もういい」
言い返す気も起きず、シロは下駄を脱いだ。懐に入れていたミーコの草履も三和土に置いた。廊下に上がって進んでいくと、すぐに手ぬぐいを持った同居人が戻ってくる。
「はい、手ぬぐい」
言いながら、ふわりとミーコに手ぬぐいをかけた。白い頭巾をかぶったような姿になる。
「かたじけない」
「今お風呂も入れ始めたから、沸いたら入りなさい。あったまらないと、風邪でも引いたら大変だからね」
「む…。至れり尽くせりじゃ。ありがとう」
「あら、良い子ね。ちゃんとお礼が言えて」
笑って見せた同居人に対し、ミーコは手ぬぐいで顔を隠した。そして、ぽつりと言う。
「違う」
「うん?」
「わらわは…良い子などではない」
「どういう意味?」
ミーコは答えようとしない。その小さな身体が強張っていることに、少女を抱えるシロは気付いていた。
「まあ、いいだろ。とりあえず、あったまるほうが先だ」
「それもそうね。あ、濡れた着物を着替えなきゃ。なんか着替え出してくる」
「ああ、頼む」
同居人がまた家の奥に走って行って、シロも歩き出した。
「風呂はすぐに沸くから、脱衣所で待ってろ」
「もう家の中であるし、わらわは自分で歩けるぞ」
「足袋も濡れてるだろうが。廊下濡らされちゃ迷惑なんだよ」
「まさかそなたも脱衣所に入る気か?」
「お前を放り込むだけだ。子どもが妙な心配してんじゃねぇよ」
すたすたと歩いて廊下を曲がり、さらに家の奥へと進んでいく。脱衣所は、廊下の突き当たりより少し手前に引き戸がある。
「ほらよ。降りろ」
ミーコを降ろして、シロは軽くなった右手を小さく振った。
「しびれたか?」
「そんなにやわじゃねぇ」
「力持ちなのじゃな」
「普通だ」
素っ気なく答えると、ミーコは笑った。
「やっぱりシロは良い奴じゃ」
「言ってろ」
罪人に向かって笑う逃亡者。
滑稽だと思いながら、戸を閉めた。
と、そこにシロの同居人が戻ってくる。
「ミーコ、着替え持ってきたよ。入るね」
同居人が声を掛けてから引き戸を開ける。一緒に入ろうか、いや遠慮するという会話を背に、シロは自室へと足を向けた。濡れているミーコを抱えていたせいで、シロの右腕もしっとりと濡れているのだ。
着流しを脱ぎ、洗濯したばかりの着物に袖を通しつつ、シロは口元を引き締めて考えた。
あれが、当代巫女か。ずいぶん幼い。歴代巫女の中でも、おそらく一番幼いだろう。あの世間知らずさを考えれば、巫女に召し上げられたのはもっと幼い頃なのかもしれない。
だが、シロには関係の無いことだ。目の前で雨に濡れて震えていた。それを見捨てておくのは気分が悪かった。だから拾ってきた。それだけだ。ミーコの為と言うより自分の為に。
何があって家出をしてきたのか知った事ではないが、風呂から上がったら神界に連れて行くべきなのだろう。いや、神界まで行かずとも、近くの関所に通報すべきだ。解っている。しかし。
シロは罪人だ。神界はもちろん関所に近寄るのもまずい。当時のことを知っている神官はもういないだろうが、神には極力近寄りたくない。神界に行っただけで神に会う可能性は限りなく低いことは解っている。それでも、あの場所には近寄りたくない。近寄ったら、覚悟が揺らぐ。
舌打ちをした。やはり拾ってくるべきではなかったか。それともこれは、いわゆる神の思し召しという奴なのだろうか。考えていると、昔のことを思い出すように仕向けられたとさえ思えてくる。しかし何故、今になって。今までだって、決して忘れていたわけではないが。忘れたいと願うことすらきっと許されないから。
結局、逃げられないのか。
逃げることなど、最初から出来はしないのに。




