第9話「最後の一ヶ月」
退職まで残り二週間になった頃、オフィスの空気がまた変わった。
黒川が蓮に対して妙に丁寧になった。仕事の依頼も以前より言葉を選ぶようになった。引き止めは諦めたが、引き継ぎを少しでも充実させようとしている、そういう空気だった。
麻衣は逆に距離を置くようになった。七話のコーヒーショップでの会話以来、プライベートな話題を出さなくなった。仕事上の会話だけになった。
蓮にとってはその方が楽だった。
桐島の会社から正式なオファーレターが届いた。
給与は前職と同水準。ただし業績連動のインセンティブが上乗せされる条件だった。蓮は数字を見て、一年後の試算を頭の中で計算した。
問題なかった。むしろ、上振れる可能性の方が高い。
承諾書にサインして送り返した。
その夜、蓮は母に電話した。転職の報告ではなく、仕送りの件だった。
「来月から仕送りを三万円に変更します」
『は? 今まで五万だったじゃない』
「転職するので、最初の半年は収入が安定しません。その間は三万が限界です」
『転職って、仕事辞めるの? なんで言わなかったの』
「今言いました」
『そういうことじゃなくて』母の声が高くなる。「大事なことは相談しなさいよ。お母さん、心配するじゃない』
(二〇〇〇年〇月〇日、午後九時四分。「大事なことは相談しなさい」。過去同様の発言:十七回)
「相談しても結果は変わりません。決めたことなので」
『冷たい子ね、あなたは本当に』
「三万円、来月から振り込みます。では」
電話を切った。
後ろめたさはなかった。数字で考えれば、これが正しい。感情で動けば、また同じことを繰り返す。
蓮はノートに書いた。転職後六ヶ月の収支計画。投資の継続額。仕送りの段階的な見直しスケジュール。全て数字で整理した。
感情ではなく、計画で動く。
それが蓮の答えだった。
退職三日前、総務部長にもう一度呼ばれた。
「餞別を渡したくてね」
小さな封筒だった。商品券が入っていた。
「ありがとうございます」
「篠原くん、最後に一つだけ聞いていいか」
「はい」
「黒川部長の件で、何か思うことはあるか」
蓮は総務部長を見た。この人は何かを知っている。社内で動いている何かを。
「特にありません」
「そうか」総務部長は少し間を置いた。「君が思っていることを、全部胸にしまっておくのも一つの選択だ。ただ、事実は消えないから」
事実は消えない。
蓮はその言葉を、完全な形で記憶した。
「ありがとうございます。お世話になりました」
第9話 了
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