第87話「記録されない準備、あるいは計算外の鼓動」
朝、デスクに向かった。
通常のルーティンを開始しようとした。
止まった。
昨日の義隆の言葉が、頭の中にあった。
「陽菜を頼む」という言葉は、直接は言わなかった。
でも、言っていた。
蓮はその意味を確認した。
確認し終えた時、決意があった。
次のステップに進む必要がある、という決意だった。
具体的に何をすべきか、考えた。
【プロポーズの準備、開始】
そこで止まった。
俺のアーカイブに、プロポーズの成功事例が、一件も存在しない。
三年前のシュレッダー資料にも、帝都物産の接待記録にも、オムニ・データの行動分析にも、プロポーズの手順書はなかった。
参考になるのは、ドラマや小説の二次データのみだった。
二次データは、一次データに比べて信頼性が低い。
【極めて不確実なミッションだ】
キーボードを打とうとした。
指先が、わずかにズレた。
打鍵ミス一件。
「エラー」として記録しようとした。
止めた。
これは打鍵ミスではなかった。
指先が震えていた。
その震えが、打鍵ミスを起こしていた。
「初めてのことをする前は、震えるものなんですか」
独り言を言った。
誰も答えなかった。
昼休みに、桐島に電話した。
「なんだ」桐島は出た。
「相談があります」
「珍しいな。何だ」
「プロポーズの準備について」
電話の向こうで、少し間があった。
「ついにか」桐島は言った。
「はい。ただ、手順がわかりません。花は必要ですか。指輪のサイズはどうやって確認するんですか。場所の選定基準は何ですか」
「お前、本当に一から考えてるのか」
「参考データが二次情報しかありません」
「記録者だろうが。陽菜さんの指の太さくらい、目測でわかってるんじゃないのか」
蓮は少し止まった。
記憶を走らせた。
陽菜の左手。
コーヒーカップを持つ角度。
キーボードを打つ時の指の形。
コブシの花を置いた時の手の動き。
【照合:左手薬指、目視計測。直径推定十四・七ミリ】
「……記録していました」蓮は言った。「左手薬指、直径十四・七ミリです」
「そういうことだ」桐島は言った。「お前らしくやれ。それだけだ」
「お前らしく、というのは具体的に」
「考えろ」
電話が切れた。
「考えろ、というのは」
独り言を言った。
誰も聞いていなかった。
次に高梨にメッセージを送った。
「プロポーズについて相談したい」
すぐに返信が来た。
「電話できるか」
「はい」
電話が来た。
「篠原くん、それは大事なことだ」高梨は言った。
「はい」
「誠実さが全てだ。余計なものはいらない。飾り立てない。お前が思っていることを、そのまま伝えれば十分だ」
「そのまま伝える、というのは」
「愛している、という事実を、お前の言葉で言えばいい」
「しかし」蓮は続けた。「俺の言葉は記録の言葉です。愛しているという感情を、記録として出力することが、相手に伝わるかどうか」
「篠原くん」高梨は言った。
「はい」
「第78話で、途切れながら言っただろう。あれが、お前の言葉だ」
第78話という表現は使っていなかったが、高梨が言いたいことはわかった。
「あの時は、計画していませんでした」
「それでいい」
「でも今回は、もっと大切な場面です」
「大切だからこそ、計画しすぎない方がいい」高梨は言った。「誠実さが全てだ。準備は場所と、あとはお前の心だけでいい」
電話が終わった。
桐島は「お前らしくやれ」と言った。
高梨は「誠実さが全てだ」と言った。
二人のアドバイスが、噛み合っていなかった。
でも、どちらも正しいような気がした。
そして、どちらもよくわからなかった。
【脳内ログの混乱度:最高値更新】
午後、陽菜が外出した。
クライアントとの打ち合わせだった。
一時間ほどで戻る予定だった。
蓮はパソコンで何かを調べ始めた。
場所の選定だった。
どこで、どのタイミングで、何を言うか。
向日葵。
という言葉が、頭の中を通った。
70話の夜、ノートに書いた言葉だった。
『向日葵の花言葉:私はあなただけを見つめる』
向日葵が咲く場所。
季節は夏だった。
今は春だった。
向日葵の季節まで、あと何ヶ月か計算した。
「夏に向日葵畑に連れていく」
それが、形になった最初のイメージだった。
場所を調べ始めた。
近郊で向日葵が咲く場所。
いくつか候補が出てきた。
メモした。
そこで、ドアが開いた。
「ただいまです」
陽菜だった。
打ち合わせが早く終わったらしかった。
蓮は画面を閉じた。
速すぎた。
陽菜が蓮を見た。
「蓮さん、何を見ていましたか」
「セキュリティの確認です」
「セキュリティ」
「はい。事務所のネットワークの」
陽菜は少し首を傾げた。
「今日、何か様子が違いますね」
「違いません」
「桐島さんに電話していましたね。昼に」
「はい。業務上の相談です」
「どんな」
「機密事項です」
陽菜はしばらく蓮を見た。
「……高梨さんにもメッセージしていましたね」
「はい。業務の共有です」
「桐島さんと高梨さんの両方に、同じ日に連絡することは珍しいですね」
「そうですか」
「そうです」陽菜は自分のデスクに戻りながら言った。「何か隠していますか」
「隠していません」
「本当に?」
「……セキュリティの確認です」
陽菜は椅子に座った。
しばらく蓮を見た。
それから、少し笑った。
「わかりました」陽菜は言った。「聞きません」
「ありがとうございます」
「でも」
「でも」
「心拍数が高いですよ、蓮さん。声のトーンでわかります」
蓮は少し間を置いた。
「声のトーンで心拍数がわかるんですか」
「あなたが私の声で心拍数を判断するように、私もあなたの声で判断できます」陽菜は画面に向かいながら言った。「三ヶ月、毎日聞いてきましたから」
蓮は答えなかった。
否定もしなかった。
【記録:202X年4月〇日 15:22】
計画の進捗:二十パーセント。
問題点:対象の観察能力が高すぎて、秘匿性が維持できない。
解決策:なし。
ただし、心拍数は下がらない。
夜、一人でノートを開いた。
向日葵の候補地をメモした。
三ヶ所。
どこが一番いいか。
向日葵が一番密度高く咲く場所。
光の当たり方がいい場所。
人が少ない場所。
条件を整理した。
整理しながら、70話の夜に書いた一行を思い出した。
ノートを戻してページを確認した。
「0」の数字の隣に、陽菜の横顔のスケッチがあった。
そのページの隅に。
『向日葵の花言葉:私はあなただけを見つめる』
今夜、その言葉の続きを書こうと思った。
万年筆を持った。
書いた。
『夏に、向日葵の咲く場所へ』
書いた。
それだけだった。
でも、これが準備の最初の一歩だった。
【記録:202X年4月〇日 23:08】
準備、開始。
場所:向日葵畑(候補三ヶ所)。
時期:夏。
内容:記録外。
記録外という分類が、今夜は一番正確だった。
第87話 了
この作品が少しでも気になったら、★評価とブックマークをいただけると励みになります。次回更新の力になります。引き続きよろしくお願いします。




