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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第六章「新しい記録」

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第87話「記録されない準備、あるいは計算外の鼓動」

朝、デスクに向かった。

通常のルーティンを開始しようとした。

止まった。

昨日の義隆の言葉が、頭の中にあった。

「陽菜を頼む」という言葉は、直接は言わなかった。

でも、言っていた。

蓮はその意味を確認した。

確認し終えた時、決意があった。

次のステップに進む必要がある、という決意だった。

具体的に何をすべきか、考えた。

【プロポーズの準備、開始】

そこで止まった。

俺のアーカイブに、プロポーズの成功事例が、一件も存在しない。

三年前のシュレッダー資料にも、帝都物産の接待記録にも、オムニ・データの行動分析にも、プロポーズの手順書はなかった。

参考になるのは、ドラマや小説の二次データのみだった。

二次データは、一次データに比べて信頼性が低い。

【極めて不確実なミッションだ】

キーボードを打とうとした。

指先が、わずかにズレた。

打鍵ミス一件。

「エラー」として記録しようとした。

止めた。

これは打鍵ミスではなかった。

指先が震えていた。

その震えが、打鍵ミスを起こしていた。

「初めてのことをする前は、震えるものなんですか」

独り言を言った。

誰も答えなかった。

昼休みに、桐島に電話した。

「なんだ」桐島は出た。

「相談があります」

「珍しいな。何だ」

「プロポーズの準備について」

電話の向こうで、少し間があった。

「ついにか」桐島は言った。

「はい。ただ、手順がわかりません。花は必要ですか。指輪のサイズはどうやって確認するんですか。場所の選定基準は何ですか」

「お前、本当に一から考えてるのか」

「参考データが二次情報しかありません」

「記録者だろうが。陽菜さんの指の太さくらい、目測でわかってるんじゃないのか」

蓮は少し止まった。

記憶を走らせた。

陽菜の左手。

コーヒーカップを持つ角度。

キーボードを打つ時の指の形。

コブシの花を置いた時の手の動き。

【照合:左手薬指、目視計測。直径推定十四・七ミリ】

「……記録していました」蓮は言った。「左手薬指、直径十四・七ミリです」

「そういうことだ」桐島は言った。「お前らしくやれ。それだけだ」

「お前らしく、というのは具体的に」

「考えろ」

電話が切れた。

「考えろ、というのは」

独り言を言った。

誰も聞いていなかった。

次に高梨にメッセージを送った。

「プロポーズについて相談したい」

すぐに返信が来た。

「電話できるか」

「はい」

電話が来た。

「篠原くん、それは大事なことだ」高梨は言った。

「はい」

「誠実さが全てだ。余計なものはいらない。飾り立てない。お前が思っていることを、そのまま伝えれば十分だ」

「そのまま伝える、というのは」

「愛している、という事実を、お前の言葉で言えばいい」

「しかし」蓮は続けた。「俺の言葉は記録の言葉です。愛しているという感情を、記録として出力することが、相手に伝わるかどうか」

「篠原くん」高梨は言った。

「はい」

「第78話で、途切れながら言っただろう。あれが、お前の言葉だ」

第78話という表現は使っていなかったが、高梨が言いたいことはわかった。

「あの時は、計画していませんでした」

「それでいい」

「でも今回は、もっと大切な場面です」

「大切だからこそ、計画しすぎない方がいい」高梨は言った。「誠実さが全てだ。準備は場所と、あとはお前の心だけでいい」

電話が終わった。

桐島は「お前らしくやれ」と言った。

高梨は「誠実さが全てだ」と言った。

二人のアドバイスが、噛み合っていなかった。

でも、どちらも正しいような気がした。

そして、どちらもよくわからなかった。

【脳内ログの混乱度:最高値更新】

午後、陽菜が外出した。

クライアントとの打ち合わせだった。

一時間ほどで戻る予定だった。

蓮はパソコンで何かを調べ始めた。

場所の選定だった。

どこで、どのタイミングで、何を言うか。

向日葵。

という言葉が、頭の中を通った。

70話の夜、ノートに書いた言葉だった。

『向日葵の花言葉:私はあなただけを見つめる』

向日葵が咲く場所。

季節は夏だった。

今は春だった。

向日葵の季節まで、あと何ヶ月か計算した。

「夏に向日葵畑に連れていく」

それが、形になった最初のイメージだった。

場所を調べ始めた。

近郊で向日葵が咲く場所。

いくつか候補が出てきた。

メモした。

そこで、ドアが開いた。

「ただいまです」

陽菜だった。

打ち合わせが早く終わったらしかった。

蓮は画面を閉じた。

速すぎた。

陽菜が蓮を見た。

「蓮さん、何を見ていましたか」

「セキュリティの確認です」

「セキュリティ」

「はい。事務所のネットワークの」

陽菜は少し首を傾げた。

「今日、何か様子が違いますね」

「違いません」

「桐島さんに電話していましたね。昼に」

「はい。業務上の相談です」

「どんな」

「機密事項です」

陽菜はしばらく蓮を見た。

「……高梨さんにもメッセージしていましたね」

「はい。業務の共有です」

「桐島さんと高梨さんの両方に、同じ日に連絡することは珍しいですね」

「そうですか」

「そうです」陽菜は自分のデスクに戻りながら言った。「何か隠していますか」

「隠していません」

「本当に?」

「……セキュリティの確認です」

陽菜は椅子に座った。

しばらく蓮を見た。

それから、少し笑った。

「わかりました」陽菜は言った。「聞きません」

「ありがとうございます」

「でも」

「でも」

「心拍数が高いですよ、蓮さん。声のトーンでわかります」

蓮は少し間を置いた。

「声のトーンで心拍数がわかるんですか」

「あなたが私の声で心拍数を判断するように、私もあなたの声で判断できます」陽菜は画面に向かいながら言った。「三ヶ月、毎日聞いてきましたから」

蓮は答えなかった。

否定もしなかった。

【記録:202X年4月〇日 15:22】

計画の進捗:二十パーセント。

問題点:対象の観察能力が高すぎて、秘匿性が維持できない。

解決策:なし。

ただし、心拍数は下がらない。

夜、一人でノートを開いた。

向日葵の候補地をメモした。

三ヶ所。

どこが一番いいか。

向日葵が一番密度高く咲く場所。

光の当たり方がいい場所。

人が少ない場所。

条件を整理した。

整理しながら、70話の夜に書いた一行を思い出した。

ノートを戻してページを確認した。

「0」の数字の隣に、陽菜の横顔のスケッチがあった。

そのページの隅に。

『向日葵の花言葉:私はあなただけを見つめる』

今夜、その言葉の続きを書こうと思った。

万年筆を持った。

書いた。

『夏に、向日葵の咲く場所へ』

書いた。

それだけだった。

でも、これが準備の最初の一歩だった。

【記録:202X年4月〇日 23:08】

準備、開始。

場所:向日葵畑(候補三ヶ所)。

時期:夏。

内容:記録外。

記録外という分類が、今夜は一番正確だった。


第87話 了


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