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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第六章「新しい記録」

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第86話「義隆からの依頼、あるいは託される未来」

昼過ぎ、黒い車が事務所の前に止まった。

窓から見えた。

蓮は車を確認した。

【車種:国産高級セダン。ナンバー照合:瀬川商事の社用車に登録された車両と一致】

「陽菜さん」蓮は言った。

「はい」

「義隆会長が来ます」

陽菜が窓を見た。

車のドアが開いた。

義隆が降りた。

コートを着ていた。

いつもの会長の格だった。

でも、今日は少し違った。

歩き方が、違った。

威圧感があった。

でも、それとは別の何かがあった。

事務所のドアが開いた。

義隆が入ってきた。

蓮は立ち上がった。

【照合開始:瀬川義隆。表情、通常時と比較。目が計算していない。……個人的な用件で来た時の目だ】

「突然失礼する」義隆は言った。

「いらっしゃいませ」陽菜が答えた。「連絡いただければ」

「連絡すると、断られるかもしれなかったから」

陽菜が少し止まった。

「父が、断られることを心配するなんて」

「ある」義隆は椅子に座った。「今日は、そういう話だ」

桐島が立ち上がった。

「俺は外の空気を吸ってくる」桐島は言った。「一時間くらい」

義隆が桐島を見た。

「気を遣わせた」

「いつものことです」桐島はコートを着て出ていった。

三人になった。

義隆はコートのポケットに手を入れた。

小さなものを取り出した。

データチップだった。

古い型だった。

「これを」義隆はテーブルに置いた。

「何ですか」陽菜が言った。

「お母さんのものだ」

陽菜は止まった。

「母の」

「亡くなる前に、お前に残そうとしていた。でも、機器が壊れて、データが取り出せなかった。そのままにしていた」

「いつ頃のものですか」

「十二年前だ。陽菜が母を亡くした年だ」

陽菜はチップを見た。

蓮はチップを見た。

「復元できますか」義隆は蓮に言った。

蓮はチップを手に取った。

確認した。

古い規格だったが、物理的な破損はなかった。

データの劣化がどの程度かは、開いてみなければわからなかった。

「試みます」蓮は言った。

機材を出した。

変換アダプターを繋いだ。

パソコンに接続した。

データを読み込み始めた。

エラーが出た。

「破損しています」蓮は言った。「でも、全損ではありません。部分的に読み取れる可能性があります」

「どのくらいかかりますか」

「今日中に、なんとか」

蓮は作業を始めた。

ノイズの中から、データを拾い上げる作業だった。

欠けた記録を繋ぐ作業だった。

家系図の復元と、同じ種類の仕事だった。

でも今日は、目の前に陽菜がいた。

その陽菜の母親の声が、このチップの中にある。

【ミッション:瀬川家の欠落したピースの修復。優先度:生命維持と同等】

手を止めなかった。

義隆は少し離れた椅子に座って、蓮の作業を見ていた。

陽菜はテーブルの端に座って、画面を見ていた。

一時間が過ぎた。

「出てきました」蓮は言った。

ノイズがあった。

でも、その中に声があった。

女性の声だった。

穏やかな声だった。

「陽菜」という一言が、最初に聞こえた。

陽菜の体が、動いた。

「……お母さん」

声が続いた。

音質は悪かった。

でも、言葉は聞き取れた。

「陽菜、聞こえますか。あなたに伝えたいことがあって。うまく言えるかわからないけれど」

「……」

「あなたは、計算が上手ね。小さい頃から。頭がいい子だと思っていました。でも、それより先に、優しい子だと思っていた」

ノイズが入った。

しばらく途切れた。

また声が来た。

「計算しなくていい時間を、いつか作ってほしい。……あなたには、ただ笑っていてほしい。それだけが、お母さんの願いです」

声が止まった。

それだけだった。

陽菜の目から、涙が落ちた。

一粒、二粒。

止まらなかった。

義隆は陽菜を見ていた。

目が赤かった。

何も言わなかった。

言えなかった。

不器用な父親の横顔だった。

蓮はデータを保存した。

静かに、余計なことは言わなかった。

陽菜が席を外した。

洗面所の方向に歩いた。

事務所に、蓮と義隆が残った。

沈黙があった。

義隆が口を開いた。

「篠原くん」

「はい」

「俺は、お前の仕事を冷たいと思っていた」

蓮は義隆を見た。

「最初に会った時、お前は数字と記録だけで動いていると思った。感情がない人間だと思った」

「そうかもしれません。当時は」

「でも」義隆は続けた。「陽菜が笑うようになった。あいつが自分の意志で物を言うようになった。計算を捨てる場面が出てきた」

「陽菜さん自身が、変わったんだと思います」

「変わる理由があったんだろう」義隆は蓮を見た。「お前の冷たい記録の中に、温かさを見つけたからなんだな。陽菜は」

蓮は少し間を置いた。

「俺は記録しているだけです。温かさを意図したことはありません」

「意図しない温かさが、一番伝わる」義隆は言った。「俺は四十年、経営してきて、それだけは学んだ」

蓮はその言葉を聞いた。

記録した。

「義隆会長」蓮は言った。

「なんだ」

「一つだけ、伝えてもいいですか」

「言え」

「俺は記録することしかできません。でも」蓮は続けた。「陽菜さんのこれからを、一秒も漏らさず記録し続けます。それが、俺にできる唯一のことです」

義隆はしばらく蓮を見た。

長い沈黙だった。

「この事務所の記録には、未来がある」義隆は言った。

「ありがとうございます」

「お前に礼を言われる筋合いはない。俺が感じたことだ」

義隆は立ち上がった。

コートを手に取った。

「陽菜によろしく伝えてくれ」

「直接伝えなくていいですか」

「直接言うと、泣かせてしまう。今日は、もう十分だ」

義隆はドアに向かった。

「義隆会長」蓮はもう一度言った。

義隆が振り返った。

「今日のデータ、陽菜さんにとって大切なものになります。持ってきてくださって、ありがとうございました」

義隆は少し間を置いた。

「十二年、遅れたが」義隆は言った。「持ってこないよりはよかった」

「はい」

「じゃあ、頼む」

それだけ言って、出ていった。

しばらくして、陽菜が戻ってきた。

目が少し赤かった。

でも、顔が落ち着いていた。

「父は」

「帰られました」

陽菜は少し間を置いた。

「ありがとうございました」

「俺はデータを復元しただけです」

「そうじゃなくて」陽菜は蓮の隣に来た。

蓮の腕に、少し縋った。

「今日、ここにいてくれて。音声が流れた時に、黙っていてくれて。ありがとうございます」

声が少し揺れていた。

泣き笑いの声だった。

蓮は少し間を置いた。

「陽菜さんのお母さんは」蓮は言った。「計算しなくていい時間を作ってほしいと言っていました」

「聞こえていましたか」

「全部」

「私、今、計算していません」

「はい」

「あなたの隣で、計算していません」

蓮はその言葉を聞いた。

記録した。

でも今日は、記録より先に、胸の奥に来た。

「陽菜さんのお母さんの願いは、叶っています」蓮は言った。

陽菜は少し間を置いた。

それからまた、泣き笑いの声になった。

「蓮さんって、本当に」

「なんですか」

「ずるいですね」

「どこがですか」

「そういう言葉を、さらっと言うところが」

蓮は少し考えた。

「意図していません。記録から出てきました」

「それが一番ずるい」

二人は少し、そのままでいた。

窓の外で、義隆の車が動き始める音がした。

遠くなっていった。


第86話 了 


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