第86話「義隆からの依頼、あるいは託される未来」
昼過ぎ、黒い車が事務所の前に止まった。
窓から見えた。
蓮は車を確認した。
【車種:国産高級セダン。ナンバー照合:瀬川商事の社用車に登録された車両と一致】
「陽菜さん」蓮は言った。
「はい」
「義隆会長が来ます」
陽菜が窓を見た。
車のドアが開いた。
義隆が降りた。
コートを着ていた。
いつもの会長の格だった。
でも、今日は少し違った。
歩き方が、違った。
威圧感があった。
でも、それとは別の何かがあった。
事務所のドアが開いた。
義隆が入ってきた。
蓮は立ち上がった。
【照合開始:瀬川義隆。表情、通常時と比較。目が計算していない。……個人的な用件で来た時の目だ】
「突然失礼する」義隆は言った。
「いらっしゃいませ」陽菜が答えた。「連絡いただければ」
「連絡すると、断られるかもしれなかったから」
陽菜が少し止まった。
「父が、断られることを心配するなんて」
「ある」義隆は椅子に座った。「今日は、そういう話だ」
桐島が立ち上がった。
「俺は外の空気を吸ってくる」桐島は言った。「一時間くらい」
義隆が桐島を見た。
「気を遣わせた」
「いつものことです」桐島はコートを着て出ていった。
三人になった。
義隆はコートのポケットに手を入れた。
小さなものを取り出した。
データチップだった。
古い型だった。
「これを」義隆はテーブルに置いた。
「何ですか」陽菜が言った。
「お母さんのものだ」
陽菜は止まった。
「母の」
「亡くなる前に、お前に残そうとしていた。でも、機器が壊れて、データが取り出せなかった。そのままにしていた」
「いつ頃のものですか」
「十二年前だ。陽菜が母を亡くした年だ」
陽菜はチップを見た。
蓮はチップを見た。
「復元できますか」義隆は蓮に言った。
蓮はチップを手に取った。
確認した。
古い規格だったが、物理的な破損はなかった。
データの劣化がどの程度かは、開いてみなければわからなかった。
「試みます」蓮は言った。
機材を出した。
変換アダプターを繋いだ。
パソコンに接続した。
データを読み込み始めた。
エラーが出た。
「破損しています」蓮は言った。「でも、全損ではありません。部分的に読み取れる可能性があります」
「どのくらいかかりますか」
「今日中に、なんとか」
蓮は作業を始めた。
ノイズの中から、データを拾い上げる作業だった。
欠けた記録を繋ぐ作業だった。
家系図の復元と、同じ種類の仕事だった。
でも今日は、目の前に陽菜がいた。
その陽菜の母親の声が、このチップの中にある。
【ミッション:瀬川家の欠落したピースの修復。優先度:生命維持と同等】
手を止めなかった。
義隆は少し離れた椅子に座って、蓮の作業を見ていた。
陽菜はテーブルの端に座って、画面を見ていた。
一時間が過ぎた。
「出てきました」蓮は言った。
ノイズがあった。
でも、その中に声があった。
女性の声だった。
穏やかな声だった。
「陽菜」という一言が、最初に聞こえた。
陽菜の体が、動いた。
「……お母さん」
声が続いた。
音質は悪かった。
でも、言葉は聞き取れた。
「陽菜、聞こえますか。あなたに伝えたいことがあって。うまく言えるかわからないけれど」
「……」
「あなたは、計算が上手ね。小さい頃から。頭がいい子だと思っていました。でも、それより先に、優しい子だと思っていた」
ノイズが入った。
しばらく途切れた。
また声が来た。
「計算しなくていい時間を、いつか作ってほしい。……あなたには、ただ笑っていてほしい。それだけが、お母さんの願いです」
声が止まった。
それだけだった。
陽菜の目から、涙が落ちた。
一粒、二粒。
止まらなかった。
義隆は陽菜を見ていた。
目が赤かった。
何も言わなかった。
言えなかった。
不器用な父親の横顔だった。
蓮はデータを保存した。
静かに、余計なことは言わなかった。
陽菜が席を外した。
洗面所の方向に歩いた。
事務所に、蓮と義隆が残った。
沈黙があった。
義隆が口を開いた。
「篠原くん」
「はい」
「俺は、お前の仕事を冷たいと思っていた」
蓮は義隆を見た。
「最初に会った時、お前は数字と記録だけで動いていると思った。感情がない人間だと思った」
「そうかもしれません。当時は」
「でも」義隆は続けた。「陽菜が笑うようになった。あいつが自分の意志で物を言うようになった。計算を捨てる場面が出てきた」
「陽菜さん自身が、変わったんだと思います」
「変わる理由があったんだろう」義隆は蓮を見た。「お前の冷たい記録の中に、温かさを見つけたからなんだな。陽菜は」
蓮は少し間を置いた。
「俺は記録しているだけです。温かさを意図したことはありません」
「意図しない温かさが、一番伝わる」義隆は言った。「俺は四十年、経営してきて、それだけは学んだ」
蓮はその言葉を聞いた。
記録した。
「義隆会長」蓮は言った。
「なんだ」
「一つだけ、伝えてもいいですか」
「言え」
「俺は記録することしかできません。でも」蓮は続けた。「陽菜さんのこれからを、一秒も漏らさず記録し続けます。それが、俺にできる唯一のことです」
義隆はしばらく蓮を見た。
長い沈黙だった。
「この事務所の記録には、未来がある」義隆は言った。
「ありがとうございます」
「お前に礼を言われる筋合いはない。俺が感じたことだ」
義隆は立ち上がった。
コートを手に取った。
「陽菜によろしく伝えてくれ」
「直接伝えなくていいですか」
「直接言うと、泣かせてしまう。今日は、もう十分だ」
義隆はドアに向かった。
「義隆会長」蓮はもう一度言った。
義隆が振り返った。
「今日のデータ、陽菜さんにとって大切なものになります。持ってきてくださって、ありがとうございました」
義隆は少し間を置いた。
「十二年、遅れたが」義隆は言った。「持ってこないよりはよかった」
「はい」
「じゃあ、頼む」
それだけ言って、出ていった。
しばらくして、陽菜が戻ってきた。
目が少し赤かった。
でも、顔が落ち着いていた。
「父は」
「帰られました」
陽菜は少し間を置いた。
「ありがとうございました」
「俺はデータを復元しただけです」
「そうじゃなくて」陽菜は蓮の隣に来た。
蓮の腕に、少し縋った。
「今日、ここにいてくれて。音声が流れた時に、黙っていてくれて。ありがとうございます」
声が少し揺れていた。
泣き笑いの声だった。
蓮は少し間を置いた。
「陽菜さんのお母さんは」蓮は言った。「計算しなくていい時間を作ってほしいと言っていました」
「聞こえていましたか」
「全部」
「私、今、計算していません」
「はい」
「あなたの隣で、計算していません」
蓮はその言葉を聞いた。
記録した。
でも今日は、記録より先に、胸の奥に来た。
「陽菜さんのお母さんの願いは、叶っています」蓮は言った。
陽菜は少し間を置いた。
それからまた、泣き笑いの声になった。
「蓮さんって、本当に」
「なんですか」
「ずるいですね」
「どこがですか」
「そういう言葉を、さらっと言うところが」
蓮は少し考えた。
「意図していません。記録から出てきました」
「それが一番ずるい」
二人は少し、そのままでいた。
窓の外で、義隆の車が動き始める音がした。
遠くなっていった。
第86話 了
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