第85話「高梨の帰還、あるいは四人の座標」
メッセージが届いたのは、昼過ぎだった。
高梨からだった。
「出張で東京に行く。今夜空いているか」
それだけだった。
蓮は少し止まった。
手紙を送ったのが四日前だった。
返信は、七十二時間で届くと計算していた。
でも返信は来ていなかった。
来なかった理由が、今日わかった。
本人が来る、という形の返信だった。
「手紙は七十二時間かかると思っていた」蓮は陽菜に言った。「でも本人は数時間で来た」
「それが高梨さんらしいですね」陽菜は言った。「文字より、移動する方を選んだ」
「移動のエネルギーが、文字以上の熱量を持って近づいてくる」
「詩的ですね」陽菜は笑った。
「事実の記述です」
陽菜はスマホを取り出した。
「桐島さんに連絡します。今夜来てもらいましょう」
「顧問は不定期出勤では」
「今夜は特別です」
陽菜が電話した。
出た瞬間に「高梨さんが来ます、今夜」と言った。
電話の向こうで桐島の「わかった」という声がした。
それだけだった。
「来るそうです」陽菜は言った。
「予想通りです」
夜、事務所の近くの店に四人が集まった。
テーブルが少し狭かった。
でも、それがよかった。
高梨が来た時、蓮は玄関で待っていた。
「久しぶりだ」高梨は言った。
「はい」
「元気そうだな」
「高梨さんは少し痩せましたか」
「地方の飯が合わなかった。でも慣れてきた」高梨は蓮を見た。「お前は太った」
「一キロ増えました」
「それは健康の証拠だ」
二人は店に入った。
陽菜がいた。
「高梨さん、お久しぶりです」
「陽菜さん、綺麗になったな」
「ありがとうございます」
「いや、本当に。何かいいことがあったか」
陽菜は少し間を置いた。
「はい。いいことがありました」
高梨は蓮を見た。
蓮は正面を向いていた。
高梨は全部を察した顔をした。
何も言わなかった。
でも、目が少し笑っていた。
桐島が来た。
「遅れた」
「三分です」蓮は言った。
「それが遅れたということだ」桐島は高梨と握手した。「地方はどうだ」
「静かだが、仕事は多い」
「そうか」
四人が座った。
グラスが来た。
「乾杯しよう」高梨は言った。
「何にですか」陽菜が言った。
「全員が、今日ここにいることに」高梨は答えた。
グラスを上げた。
四人が合わせた。
音がした。
料理が来た。
話が続いた。
高梨が地方での仕事を話した。
建設談合の捜査が、少しずつ進んでいること。
まだ時間がかかること。
でも、糸口があること。
「篠原くんの記録が、今も使えている」高梨は言った。「一見無関係に見えたデータが、別の案件と繋がった」
「役に立てているなら」蓮は言った。
「役立っている。十分すぎるくらいに」
桐島が「篠原が地方の事件を解決しているのか」と言った。
「直接ではありません」蓮は答えた。「記録が使われているだけです」
「同じことだ」高梨は言った。
酒が進んだ。
桐島が「こいつら最近、仕事中も変な雰囲気がある」と高梨に言った。
「変な雰囲気、というのは」高梨は言った。
「言葉で言えないが、結界のようなものが張られている」
「結界」高梨は蓮を見た。
「俺は何もしていません」蓮は言った。
「お前が何もしなくても、そうなっていると言っている」桐島は言った。
「それは」
「いいことだ」桐島は続けた。「俺が三年間見てきた結果だ」
高梨は陽菜を見た。
「篠原くんのことを、よろしくお願いします」高梨は言った。
頭を下げた。
まるで身内に頼むように。
陽菜は少し目を見開いた。
「高梨さん、頭を上げてください」
「お願いしているんだ」
「わかりました」陽菜は答えた。「でも私の方が、蓮さんにお世話になっています」
「そうか」高梨は頭を上げた。「二人で頼み合っているなら、それが一番いい」
桐島が「本当にいい話だな」と言った。
「笑っていますか」蓮は言った。
「感動している」桐島は言った。
「笑顔で感動しているんですか」
「俺のやり方だ」
店を出た。
夜の空気が冷たかった。
桐島と陽菜は先に歩き始めた。
蓮と高梨が少し後ろになった。
「話があった」高梨は言った。
「はい」
「君の記録に救われた、と手紙に書こうと思っていた。でも書く前に、直接言いたくなった」
「それで来たんですか」
「それだけが理由ではない。でも、大きな理由だった」
蓮は少し間を置いた。
「高梨さん」
「なんだ」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「高梨さんは、今も正義を追いかけていますか」
高梨は少し止まった。
それから笑った。
「追いかけている、という感覚は薄くなった」高梨は言った。「今は、ただ、目の前にあることを記録している感覚だ」
「記録」
「お前から学んだのかもしれない。事実を丁寧に積み上げることが、一番確実だということを」
蓮はその言葉を聞いた。
「高梨さんの正義が、俺の記録と繋がっていた」蓮は言った。「俺も、高梨さんの正義に救われました」
「お互い様だな」
「今の俺の記録は」蓮は続けた。「誰かを救うためにあります。追い詰めるためではなく」
高梨は蓮を見た。
「変わったな、篠原くん」
「はい、変わりました」
以前なら、否定していた言葉だった。
今夜は、真っ直ぐに受け取った。
変わったことは、事実だった。
事実は、否定しない。
「いい変化だ」高梨は言った。
「はい」
「陽菜さんのおかげか」
「陽菜さんと、高梨さんと、桐島さんのおかげです。あと、三年前の俺のおかげです」
「三年前の自分のおかげ、というのは」
「あの頃、全部記録していなければ、今日はありませんでした」
高梨は少し頷いた。
「そうだな。あの頃のお前が、今のお前を作った」
前を見ると、陽菜と桐島が先を歩いていた。
二人の声が聞こえた。
笑っている声だった。
「では、また」高梨は言った。
「はい。地方での捜査、進んでください」
「進む。君の記録が、また役立つ日が来るかもしれない」
「いつでも」
高梨が手を差し出した。
握手した。
力強かった。
「次は俺が会いに行きます」蓮は言った。
「そうしてくれ。地方の飯も、悪くないぞ」
高梨が歩き出した。
駅の方向に向かった。
背中が遠くなった。
蓮は見送った。
【記録:202X年4月〇日 21:58】
高梨誠一、一時帰還。
四人の再集結、確認。
世界は変わった。でも、俺たちの座標はズレていない。
「蓮さん」陽菜が戻ってきた。
「はい」
「高梨さんと、何を話していましたか」
「変わったな、と言われました」
「何と答えましたか」
「はい、変わりました、と」
陽菜は蓮の隣に来た。
高梨の背中が、見えなくなった。
「次は、会いに行くつもりです」蓮は言った。
「地方まで」
「はい」
「一人で行きますか」
蓮は少し考えた。
「陽菜さんが来るなら、一人ではありません」
陽菜は少し笑った。
「では、二人で行きましょう」
「はい」
次の目的地が、決まった。
第85話 了
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