第84話「母の最後の記憶、あるいは静かに閉じるフォルダ」
事務所に一人だった。
陽菜は先に帰った。
桐島は今日、来なかった。
引退してからの最初の平日だった。
静かだった。
蓮はデスクに座ったまま、少し考えた。
桐島のノートを読んだ。
三年分の、自分の記録を受け取った。
他者の視点から見た自分が、そこにあった。
「俺が愛されていた」ということが、事実として記録されていた。
その事実を受け取った今、気づいていることがあった。
脳内アーカイブの深いところに、ずっと放置しているフォルダがあった。
三年前から触っていなかった。
触れなかった、ではなかった。
触ろうとしなかった。
「桐島さんは俺を記録してくれた」
蓮は声に出した。
「今度は俺が、俺の最深部にある未整理の記録を整理する番だ」
立ち上がった。
電気を少し落とした。
ソファに座った。
目を閉じた。
記憶を呼び出した。
「母・篠原久子」フォルダ。
長い間、アーカイブの奥に置いていたフォルダだった。
最後に開いたのは、48話の母との断絶の日だった。
あの日は、記録を証拠として使った。
でも今夜は違う。
今夜は整理するために開く。
フォルダを開いた。
最初に出てきたのは、最後の記憶だった。
「産まなければよかった」という言葉。十四回目。
「番号が変えられている」という母の声。
法的接近禁止の書類。
それらを、蓮は見た。
でも今夜は、それより古い記録を探した。
もっと、深いところへ。
あった。
小学校の頃の記憶だった。
雨上がりの公園だった。
76話の散歩で嗅いだ、土の匂いと同じ匂いだった。
あの時、この記憶と繋がったのだった。
映像として引き出した。
公園のブランコがあった。
蓮が乗っていた。
母が後ろから押していた。
風が来た。
空が高かった。
「もっと高く」と蓮は言った。
「危ないよ」と母は言った。
でも、もう少し強く押してくれた。
その時の、母の手の力を、蓮は覚えていた。
強くて、温かかった。
危なくないように、でも楽しめるように、調整した力だった。
その力加減を、今の蓮は再検証した。
「あの力加減は」蓮は静かに言った。「俺が楽しめるように、考えていた力加減です」
次の記憶。
夕飯の唐揚げだった。
母が台所に立っていた。
油が跳ねる音がした。
蓮の好物だということを、母は知っていた。
だから作っていた。
それだけのことだった。
でも、それだけのことが、記録の中に残っていた。
別の記憶。
運動会の日だった。
蓮が一位でゴールした。
観客席から、母の声がした。
「蓮!」
名前だけだった。
でも、その声の周波数を、蓮は覚えていた。
嬉しい声だった。
誇らしい声だった。
その声は、偽物ではなかった。
蓮は確認した。
【記録照合:母の声の周波数分析。運動会の日の「蓮!」という発声。感情状態:高揚。愛着行動の発現と一致する周波数パターン】
偽物ではなかった。
あの瞬間、母は確かに喜んでいた。
蓮はその記憶を、もう少し眺めた。
母が去った事実は変わらない。
お金を使い込んだ事実も変わらない。
「産まなければよかった」と言った事実も変わらない。
でも。
ブランコを押した手の力加減も、変わらない。
唐揚げを揚げた音も、変わらない。
「蓮!」という声の周波数も、変わらない。
全部が、同じ人間の記録だった。
ひどいことをした人間が、同時に優しいことをしていた。
それは矛盾でも、どちらかが嘘でもなかった。
全部が本当だった。
「そういう人間だったんですね」
蓮は静かに言った。
「母も、あの瞬間は俺を愛していた」
言いながら、その言葉が正確かどうか確認した。
正確だった。
あの瞬間は、確かにそうだった。
それで、十分だった。
それ以上の結論は、今夜は必要なかった。
蓮はフォルダを閉じる前に、分類を変えた。
これまでの分類を確認した。
「未解決案件」
変更した。
「完結した過去」
変更した後、フォルダを見た。
「完結した過去」
過去は、完結する。
未来に影響を与えないという意味ではなかった。
ただ、それ以上更新されない、という意味だった。
あの記憶は、もう痛くなかった。
痛いはずの記憶が、今夜は痛くなかった。
桐島の記録を読んだからかもしれなかった。
陽菜と一緒にいるからかもしれなかった。
あるいは、ただ、時間がかかっただけかもしれなかった。
どれが理由でも、今夜の結果は同じだった。
【記録:202X年4月〇日 21:44】
母との記憶、整理完了。
分類変更:未解決案件→完結した過去。
備考:あの日の記録は、もう痛くない。
フォルダを閉じた。
事務所を出た。
外の空気が冷たかった。
でも今夜の冷たさは、気温の数値ではなかった。
ただ、冷たかった。
夜空を見上げた。
星が出ていた。
いくつかは数えようとした。
途中でやめた。
数えなくていいと思った。
ただ、星があった。
「母のいない世界で」
声に出した。
「俺は今、確かに生きている」
その事実は、今夜の空気の中に、静かにあった。
恨みでも感謝でも赦しでもなかった。
ただ、生きている、という事実だった。
足元の道が、街灯で照らされていた。
前に、道が続いていた。
「これでいい」
蓮は言った。
歩き出した。
前を向いた。
後ろを振り返らなかった。
でも、後ろには何かが残っていた。
アーカイブの中に、「完結した過去」として。
消えることなく、そこにあり続ける過去として。
それは呪いではなかった。
ただの記録だった。
いつか誰かに、俺の余白を見せることがあれば。
そこにも、あの日の唐揚げの音が入っている。
その記録が、今夜は誇らしかった。
第84話 了
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