第83話「渡されたもの、あるいは他者の瞳に映る自分」
自宅に帰った。
鞄を置いた。
コートを脱いだ。
桐島のノートを、テーブルに置いた。
見た。
「観察記録」という文字を見た。
しばらく、開けなかった。
なぜ開けられないのか、考えた。
怖い、という感情ではなかった。
準備が必要な感じがした。
コーヒーを淹れた。
飲んだ。
ノートを手に取った。
表紙を開いた。
最初のページに、日付があった。
三年前の、蓮がこの事務所に来た最初の日の日付だった。
桐島の文字は、少し乱れていた。
急いで書いた字ではなかった。
力強く書いた字だった。
「今日、新しいやつが来た。篠原蓮、二十八歳。前職で解雇、らしい。顔が死んでいると思ったが、目だけ生きていた。あの目は、全部を記録しようとしている目だ。厄介なやつを雇ったかもしれない」
蓮は読んだ。
もう一度読んだ。
三年前の自分が、「厄介なやつ」と記録されていた。
次のページに移った。
「飯を食わせたら、泣きそうな顔で噛み締めていた。本人は気づいていないだろうが。あいつはよく噛む。急いで食べない。ちゃんと味わっている。数字だけ見ているやつの食い方じゃない」
蓮は止まった。
飯を食べている自分を、桐島が見ていた。
食べ方まで、記録されていた。
「ちゃんと味わっている」
そんなことを、自分は意識していなかった。
でも、桐島の目には映っていた。
「壊れた時計を直そうとする指先は、誰よりも優しかった」
一行があった。
三年前、事務所の古い置き時計が止まった日のことだった。
蓮が試しに分解して、直そうとした日があった。
うまくいかなくて、桐島に止められた記憶がある。
その時の、自分の指先を、桐島は見ていた。
ページをめくった。
時系列で書かれていた。
毎日ではなかった。
でも、節目の日には必ず書いてあった。
「今日、瀬川の娘が来た。頭がいいやつだ。でも目が計算している。篠原と同じ種類の孤独がある。二人を一緒にしておいたら、何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。どちらにしても、見ていたい」
陽菜が来た日の記録だった。
蓮は少し笑った。
桐島は最初から、何かを見ていた。
「瀬川の娘が来てから、篠原の計算速度が落ちた。いや、違う。計算する前に『迷う』ようになった。以前は全部、計算してから動いていた。今は、迷ってから動く。いい傾向だ」
蓮は止まった。
「いい傾向だ」
自分では、あの頃の迷いを「エラー」として記録していた。
陽菜を見ている時に処理が遅くなることを、異常値として処理しようとしていた。
桐島には、それが「いい傾向」として見えていた。
エラーが、祝福されていた。
「あいつが初めて笑った。小さく、口の端だけ。本人は気づいていないかもしれない。俺は見た。記録しておく。この日は大事な日だ」
蓮は少し間を置いた。
初めて笑った日。
いつの日付だったか確認した。
あの頃だった。
陽菜が、蓮の記憶を「芸術品」と呼んだ少し後だった。
自分では気づいていなかった。
でも、桐島が見ていた。
ページを読み続けた。
帝都物産との対決の記録があった。
「篠原が今日、永瀬の口座を読み上げた。全国放送で。俺も見ていた。あいつの声は揺れなかった。でも、生放送が終わった後、事務所のトイレで三分間、黙っていた。俺は声をかけなかった。あの三分間は、あいつのものだ」
蓮は止まった。
あの三分間のことを、蓮は覚えていた。
記録には残していなかった。
でも桐島は、外から記録していた。
「エドワードとの件が終わった日、篠原は陽菜さんと屋上にいた。俺は早めに帰った。見送る必要はなかった。あの二人は、俺が見ていなくても大丈夫だと思った。初めてそう思った日だ」
屋上で、二人で夜景を見た日だった。
桐島が早く帰った理由が、今日初めてわかった。
最後のページに来た。
最近の日付だった。
「こいつは一人じゃない。もう大丈夫だ。俺の仕事は終わった。あとは、こいつが自分で記録していく」
一文があった。
それだけだった。
蓮はその一文を読んだ。
もう一度読んだ。
「こいつは一人じゃない」
三年前、あの事務所に来た時、蓮は一人だった。
段ボール一つで、一人だった。
今は違った。
陽菜がいた。
高梨がいた。
田辺社長がいた。
佐々木さんがいた。
そして桐島が、ずっとそこにいた。
【記録:202X年4月〇日】
桐島の観察日記、読了。
結論:俺は、俺が思っていたよりもずっと愛されていた。
修正した。
「愛されていた」ではなかった。
「愛されている」だった。
現在進行形だった。
桐島は引退しても、ノートを渡した。
渡したということは、記録が続くということだった。
蓮はノートを閉じた。
表紙を見た。
「観察記録」という文字。
くたびれた表紙。
三年分の重みがあった。
蓮は少し、目が熱くなった。
「泣くかもしれない、と陽菜さんに言った」
声に出した。
「予測通りでした」
翌朝、事務所に着いた。
扉の前に立った。
把手を持った。
開けた。
陽菜がいた。
いつも通りだった。
「おはようございます」蓮は言った。
「おはようございます」陽菜は言った。「読みましたか」
「読みました」
「どうでしたか」
蓮は少し考えた。
「俺は、俺が思っていたより、ずっと多くのものを受け取っていました」
陽菜は蓮を見た。
目が少し違った、と陽菜は思ったかもしれなかった。
晴れやかだった。
昨日より、少し軽かった。
「桐島さんは今日、来ますか」陽菜は言った。
「来ると言っていました」
「来たら、ありがとうと言いますか」
「言います」蓮は答えた。「でも、今は」
「今は」
蓮はデスクに向かいながら、心の中で言った。
桐島さん、ありがとうございました。
三年間、見ていてくれて。
俺が気づかなかったものを、全部記録していてくれて。
声には出なかった。
でも、確かに言った。
【記録:202X年4月〇日 09:04】
桐島の観察日記、全件照合完了。
俺が自分を「データ処理機械」と定義していた三年間に、桐島は俺を「人間」として記録し続けていた。
その差分が、今日の俺を作っている。
コーヒーの香りがした。
陽菜が淹れていた。
「どうぞ」陽菜がカップを持ってきた。
受け取った。
飲んだ。
今日のコーヒーの味は、いつもより少し深かった。
桐島のノートを読んだ後だから、かもしれなかった。
あるいは、ただそういう朝だったから、かもしれなかった。
どちらでも、よかった。
第83話 了
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