第82話「桐島の引退宣言、あるいは手渡されるバトン」
午前中から、桐島が整理をしていた。
引き出しを開けては、書類を確認していた。
古いファイルが、シュレッダーに入っていた。
刻まれる音がした。
蓮はその音を聞きながら、仕事を続けていた。
でも、少し気になっていた。
【桐島さんの行動、通常時と乖離あり。清掃活動にしては範囲が広すぎる。整理の対象が、日常的な書類ではなく、長期保管のファイルに集中している】
蓮は桐島を見た。
桐島は黙って作業していた。
表情は穏やかだった。
でも、いつもと違う静けさだった。
「桐島さん」蓮は言った。
「なんだ」
「何かありますか」
「大掃除だ」
「今の時期に」
「いつでもいい」桐島は言った。「気になったらやる」
蓮は少し考えた。
予測が走った。
拠点の移動か。環境の変化か。
でも今日は、その先を考えるのが怖かった。
陽菜も桐島を見ていた。
二人の目が合った。
陽菜が小さく首を振った。
今は聞かなくていい、という意味だった。
三人は、それぞれの仕事を続けた。
シュレッダーの音が、断続的に聞こえていた。
終業の時刻が近づいた頃、桐島が立ち上がった。
「ちょっといいか」
蓮と陽菜を見た。
「二人とも」
「はい」陽菜が答えた。
三人がソファの方に集まった。
桐島は椅子を引いた。
座った。
両手を膝の上に置いた。
「話がある」
「はい」
桐島はしばらく黙っていた。
珍しかった。
桐島が沈黙することは、あまりなかった。
「俺の役目は、そろそろ終わりだ」
陽菜が止まった。
蓮は桐島を見た。
表情を分析しようとした。
できなかった。
分析が、追いつかなかった。
「引退ということですか」陽菜は言った。
「正式には来月から、顧問という立場にする」桐島は続けた。「名前は残す。でも毎日ここに来ることはなくなる」
「なぜですか」
「理由を聞くか」桐島は少し笑った。「陽菜さんらしい」
「聞かせてください」
桐島は部屋を見渡した。
事務所を、一通り見た。
「お前ら二人を見ていて、気づいた」桐島は言った。「今日の午前中、あの瀬川商事の案件を二人でやっていた。俺は何もしていなかった。でも、仕事は完璧に回っていた」
「桐島さんが基盤を作ってくださったから」陽菜は言った。
「基盤を作るのが俺の仕事だった。でも基盤が出来たなら、俺はもう必要ない」桐島は続けた。「お前らには、俺がいなくてもこの場所を守れる。守るどころか、俺がいない方が動きやすい部分もある」
「そんなことは」
「ある」桐島は言った。「俺は邪魔じゃないが、余分だ。余分なものは、早めに整理するのが俺の流儀だ」
陽菜は何か言おうとした。
桐島が手を上げた。
「感謝の言葉はいらない。俺が決めたことだ」
蓮は桐島を見ていた。
ずっと、見ていた。
「桐島さん」蓮は言った。
「なんだ」
「一つだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「俺を最初に雇った時、何を考えていましたか」
桐島は少し間を置いた。
「目が死んでいなかった」桐島は言った。
「目が」
「お前を最初に見た時、体は限界だったが、目は生きていた。全部を見ている目だった。あんな目のやつを、放っておけなかった」
蓮はその言葉を聞いた。
「それだけですか」
「あとは」桐島は続けた。「俺がいつか笑えるようになるまで、隣にいようと決めた。それだけだ」
「いつか笑えるようになるまで」
「合格だ、篠原」桐島は言った。「今日のお前は、笑っている。それで十分だ」
陽菜の目が、少し潤んだ。
蓮は答えられなかった。
何かが来ていた。
胸の奥に、何かが来ていた。
言葉にならなかった。
「泣くなよ」桐島は言った。
「泣いていません」蓮は言った。
「目が潤んでいる」
「……データの処理で目が乾燥していました。回復しています」
桐島が笑った。
陽菜も笑った。
桐島が立ち上がった。
デスクに戻った。
引き出しを開けた。
何かを取り出した。
戻ってきた。
ノートだった。
古いノートだった。
表紙が少しくたびれていた。
表紙に、文字があった。
「観察記録」
それだけだった。
「お前に渡したいものがある」桐島は蓮に差し出した。
蓮は受け取った。
「これは」
「お前が他人を記録するように、俺もお前を記録してきた」桐島は言った。「三年前、お前が来た最初の日から。毎日じゃないが、気になった日には書いた」
蓮はノートを見た。
「俺の記録、ですか」
「そうだ。これが俺の三年間だ」
蓮は表紙に手を置いた。
くたびれた表紙だった。
でも、重かった。
書いた日付の数だけ、重かった。
「見ていいですか」
「持ち帰って読め。ここで読むのは恥ずかしい」
「桐島さんが恥ずかしいんですか」
「そうだ」
蓮は少し間を置いた。
「ありがとうございます」
「礼はいい」桐島はコートを手に取った。「今日は早めに帰る。明日は普通に来る。来月から変わる。それだけだ」
桐島がコートを着た。
鞄を持った。
「陽菜さん」桐島は言った。
「はい」
「こいつを、よろしく頼む」
「はい」陽菜は答えた。「桐島さんもお元気で」
「俺は頑丈だ」
桐島がドアに向かった。
ドアを開けた。
振り返った。
事務所を一度だけ見た。
「いい場所になったな」桐島は言った。
それだけ言って、出ていった。
ドアが閉まった。
事務所に二人が残った。
しばらく、何も言わなかった。
「大丈夫ですか」陽菜が言った。
「はい」蓮は答えた。「でも、少し整理が必要です」
「何の整理ですか」
「桐島さんの言葉の整理です。データが多すぎて、処理が追いついていません」
陽菜は蓮の隣に来た。
蓮は膝の上にノートを持っていた。
「読みますか、今夜」
「家で読みます。ここでは、桐島さんが言っていた通り、読めません」
「なぜですか」
「泣くかもしれないからです」
陽菜は少し間を置いた。
「泣いてもいいですよ」
「記録者として、感情の制御は」
「泣いてもいい場所が、少しずつ増えることが、成長だと思います」陽菜は言った。「桐島さんが、そういう場所を作ってくれたんじゃないですか」
蓮はノートの表紙に触れた。
くたびれた表紙。
桐島の三年間が入っている表紙。
「桐島さんは俺を記録していた」蓮は言った。「俺が他人を記録するように」
「そうですね」
「俺が記録することの意味を、桐島さんが教えてくれていたんかもしれません。俺が記録されることで」
陽菜は蓮の隣で、ノートを見た。
「読んだら、教えてください。何が書いてあったか」
「全部教えます」蓮は言った。「俺の記録ですから、俺以外が見ても構わない」
「では、明日聞かせてください」
「はい」
【記録:202X年4月〇日 18:41】
桐島謙二、引退表明。来月から顧問へ。
「合格だ、篠原」という言葉、受領。
未知のデータ受領:桐島の観察記録、一冊。
手の震え:微細に発生。
原因:感謝と、喪失と、継承が同時に来たため。
ノートの表紙を、蓮はそっと撫でた。
桐島の三年間が、手のひらに伝わってきた。
第82話 了
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