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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第六章「新しい記録」

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第82話「桐島の引退宣言、あるいは手渡されるバトン」

午前中から、桐島が整理をしていた。

引き出しを開けては、書類を確認していた。

古いファイルが、シュレッダーに入っていた。

刻まれる音がした。

蓮はその音を聞きながら、仕事を続けていた。

でも、少し気になっていた。

【桐島さんの行動、通常時と乖離あり。清掃活動にしては範囲が広すぎる。整理の対象が、日常的な書類ではなく、長期保管のファイルに集中している】

蓮は桐島を見た。

桐島は黙って作業していた。

表情は穏やかだった。

でも、いつもと違う静けさだった。

「桐島さん」蓮は言った。

「なんだ」

「何かありますか」

「大掃除だ」

「今の時期に」

「いつでもいい」桐島は言った。「気になったらやる」

蓮は少し考えた。

予測が走った。

拠点の移動か。環境の変化か。

でも今日は、その先を考えるのが怖かった。

陽菜も桐島を見ていた。

二人の目が合った。

陽菜が小さく首を振った。

今は聞かなくていい、という意味だった。

三人は、それぞれの仕事を続けた。

シュレッダーの音が、断続的に聞こえていた。

終業の時刻が近づいた頃、桐島が立ち上がった。

「ちょっといいか」

蓮と陽菜を見た。

「二人とも」

「はい」陽菜が答えた。

三人がソファの方に集まった。

桐島は椅子を引いた。

座った。

両手を膝の上に置いた。

「話がある」

「はい」

桐島はしばらく黙っていた。

珍しかった。

桐島が沈黙することは、あまりなかった。

「俺の役目は、そろそろ終わりだ」

陽菜が止まった。

蓮は桐島を見た。

表情を分析しようとした。

できなかった。

分析が、追いつかなかった。

「引退ということですか」陽菜は言った。

「正式には来月から、顧問という立場にする」桐島は続けた。「名前は残す。でも毎日ここに来ることはなくなる」

「なぜですか」

「理由を聞くか」桐島は少し笑った。「陽菜さんらしい」

「聞かせてください」

桐島は部屋を見渡した。

事務所を、一通り見た。

「お前ら二人を見ていて、気づいた」桐島は言った。「今日の午前中、あの瀬川商事の案件を二人でやっていた。俺は何もしていなかった。でも、仕事は完璧に回っていた」

「桐島さんが基盤を作ってくださったから」陽菜は言った。

「基盤を作るのが俺の仕事だった。でも基盤が出来たなら、俺はもう必要ない」桐島は続けた。「お前らには、俺がいなくてもこの場所を守れる。守るどころか、俺がいない方が動きやすい部分もある」

「そんなことは」

「ある」桐島は言った。「俺は邪魔じゃないが、余分だ。余分なものは、早めに整理するのが俺の流儀だ」

陽菜は何か言おうとした。

桐島が手を上げた。

「感謝の言葉はいらない。俺が決めたことだ」

蓮は桐島を見ていた。

ずっと、見ていた。

「桐島さん」蓮は言った。

「なんだ」

「一つだけ、聞いていいですか」

「どうぞ」

「俺を最初に雇った時、何を考えていましたか」

桐島は少し間を置いた。

「目が死んでいなかった」桐島は言った。

「目が」

「お前を最初に見た時、体は限界だったが、目は生きていた。全部を見ている目だった。あんな目のやつを、放っておけなかった」

蓮はその言葉を聞いた。

「それだけですか」

「あとは」桐島は続けた。「俺がいつか笑えるようになるまで、隣にいようと決めた。それだけだ」

「いつか笑えるようになるまで」

「合格だ、篠原」桐島は言った。「今日のお前は、笑っている。それで十分だ」

陽菜の目が、少し潤んだ。

蓮は答えられなかった。

何かが来ていた。

胸の奥に、何かが来ていた。

言葉にならなかった。

「泣くなよ」桐島は言った。

「泣いていません」蓮は言った。

「目が潤んでいる」

「……データの処理で目が乾燥していました。回復しています」

桐島が笑った。

陽菜も笑った。

桐島が立ち上がった。

デスクに戻った。

引き出しを開けた。

何かを取り出した。

戻ってきた。

ノートだった。

古いノートだった。

表紙が少しくたびれていた。

表紙に、文字があった。

「観察記録」

それだけだった。

「お前に渡したいものがある」桐島は蓮に差し出した。

蓮は受け取った。

「これは」

「お前が他人を記録するように、俺もお前を記録してきた」桐島は言った。「三年前、お前が来た最初の日から。毎日じゃないが、気になった日には書いた」

蓮はノートを見た。

「俺の記録、ですか」

「そうだ。これが俺の三年間だ」

蓮は表紙に手を置いた。

くたびれた表紙だった。

でも、重かった。

書いた日付の数だけ、重かった。

「見ていいですか」

「持ち帰って読め。ここで読むのは恥ずかしい」

「桐島さんが恥ずかしいんですか」

「そうだ」

蓮は少し間を置いた。

「ありがとうございます」

「礼はいい」桐島はコートを手に取った。「今日は早めに帰る。明日は普通に来る。来月から変わる。それだけだ」

桐島がコートを着た。

鞄を持った。

「陽菜さん」桐島は言った。

「はい」

「こいつを、よろしく頼む」

「はい」陽菜は答えた。「桐島さんもお元気で」

「俺は頑丈だ」

桐島がドアに向かった。

ドアを開けた。

振り返った。

事務所を一度だけ見た。

「いい場所になったな」桐島は言った。

それだけ言って、出ていった。

ドアが閉まった。

事務所に二人が残った。

しばらく、何も言わなかった。

「大丈夫ですか」陽菜が言った。

「はい」蓮は答えた。「でも、少し整理が必要です」

「何の整理ですか」

「桐島さんの言葉の整理です。データが多すぎて、処理が追いついていません」

陽菜は蓮の隣に来た。

蓮は膝の上にノートを持っていた。

「読みますか、今夜」

「家で読みます。ここでは、桐島さんが言っていた通り、読めません」

「なぜですか」

「泣くかもしれないからです」

陽菜は少し間を置いた。

「泣いてもいいですよ」

「記録者として、感情の制御は」

「泣いてもいい場所が、少しずつ増えることが、成長だと思います」陽菜は言った。「桐島さんが、そういう場所を作ってくれたんじゃないですか」

蓮はノートの表紙に触れた。

くたびれた表紙。

桐島の三年間が入っている表紙。

「桐島さんは俺を記録していた」蓮は言った。「俺が他人を記録するように」

「そうですね」

「俺が記録することの意味を、桐島さんが教えてくれていたんかもしれません。俺が記録されることで」

陽菜は蓮の隣で、ノートを見た。

「読んだら、教えてください。何が書いてあったか」

「全部教えます」蓮は言った。「俺の記録ですから、俺以外が見ても構わない」

「では、明日聞かせてください」

「はい」

【記録:202X年4月〇日 18:41】

桐島謙二、引退表明。来月から顧問へ。

「合格だ、篠原」という言葉、受領。

未知のデータ受領:桐島の観察記録、一冊。

手の震え:微細に発生。

原因:感謝と、喪失と、継承が同時に来たため。

ノートの表紙を、蓮はそっと撫でた。

桐島の三年間が、手のひらに伝わってきた。


第82話 了


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