第80話「記録と感情の同居、あるいは馴染み始めた境界線」
朝のルーティンを確認した。
起床。コーヒー。ノートの確認。出勤。
変わらないはずだった。
でも今朝、出勤前にスマホを確認した回数が、いつもより多かった。
理由はわかっていた。
陽菜からのメッセージを確認しようとしていた。
実際にはメッセージはなかった。
でも確認していた。
これは記録の精度に影響する行動だった。
蓮は少し考えた。
「記録者として、公私混同は避けるべきだ」
そこまでは正しかった。
「だが」
声に出した。
「陽菜さんの存在は、もはや俺のシステムのOS(基盤)そのものになっている」
OSが変われば、全ての処理が変わる。
それは公私混同ではなく、基盤の更新だった。
以前は「異常値」として処理していたドキドキが、今朝から「必要なエネルギー源」として定義し直されていた。
定義が変われば、エラーは出ない。
蓮はコートを着た。
鞄を持った。
出発した。
事務所に入った瞬間、コーヒーの香りがした。
陽菜が淹れていた。
それだけだった。
【生命維持フォルダ:活性化】
それだけで活性化した。
以前は「ドーパミン等の神経伝達物質の影響」と分析していた反応が、今は「陽菜さんがここにいる」という事実の確認として機能していた。
分析が、感知に変わっていた。
「おはようございます」陽菜が言った。
「おはようございます」
「コーヒー、もうすぐ出来ます」
「ありがとうございます」
普通の会話だった。
普通の、毎日の会話だった。
でも、同じ言葉が、先週より温かかった。
言葉の温度が、変わっていた。
桐島が来た。
「おはよう」桐島は言った。
「おはようございます」
桐島は二人を見た。
何も言わなかった。
でも、コーヒーを受け取りながら、小さく「そうか」と言った。
何がそうなのか、聞かなかった。
わかっていたので。
午前中から、電話が続いた。
「Margin Notesさんですか。案件をお願いしたいのですが」
一本目は製造業の会社だった。
創業者の手記が倉庫から出てきた。
八十年前の手書きの記録だった。
解読と、社史への統合を依頼したいということだった。
「お受けします」陽菜は電話で答えた。「担当者が伺います」
二本目は個人からだった。
亡くなった祖父が残した日記を読んでほしいということだった。
「古い方言が多くて、家族には読めなくて」という声だった。
「承ります」陽菜は言った。
三本目は地方の図書館からだった。
地域の古い記録の散逸を防ぎたいということだった。
電話が終わるたびに、陽菜はホワイトボードに案件を書き足した。
蓮はそれを見ながら、データを整理していた。
「次の依頼は」陽菜はホワイトボードを見た。「古い蔵から出てきた日記のデジタル化です。個人の方からです」
「わかりました」蓮は答えた。「……その日記の持ち主も」
「なんですか」
「孤独を終わらせたいと願っているでしょうか」
陽菜は少し蓮を見た。
「どういう意味ですか」
「俺たちが復元する記録は、全部、誰かが残したものです。残した理由がある。読んでほしい理由がある。それを読む人間が現れるまで、ずっと待っていた記録です」
陽菜はホワイトボードを見た。
「記録は、待つことができる」
「はい」
「人間は待てないけれど、記録は待てる」陽菜は続けた。「だから、残すことに意味がある」
蓮はそれを聞いた。
「今の言葉、Margin Notesのコンセプトに追加していいですか」
「どうぞ」
陽菜はスマホにメモした。
「『記録は、待つことができる』」
「合わせると」蓮は言った。「記録することは誰かの孤独を終わらせること。そして、記録は待つことができる」
「完璧です」陽菜は笑った。
桐島が「お前ら、仕事しながらいちゃついてるじゃないか」と言った。
「いちゃついていません。コンセプトを整理しています」
「同じに見える」
「見え方の問題です」
「そうか」桐島は書類に戻った。
夕方になった。
案件の整理が一段落した。
陽菜が立ち上がった。
蓮のデスクに来た。
何かを置いた。
見ると、小さな花だった。
白い、小さな花だった。
「何の花ですか」蓮は言った。
「コブシです。春の花です」陽菜は言った。「事務所に色が欲しいと思って」
「ありがとうございます」
「気に入りましたか」
蓮は花を見た。
白かった。
小さかった。
デスクの端にあるだけで、周りの空気が少し変わった。
「デスク上の彩度が上がりました」蓮は言った。
「そんな表現もできるんですね」陽菜は笑った。
「正確な表現です。ただ」
「ただ」
「正確な表現が、一番正しい表現とは限らないことを、最近学んでいます」
陽菜は少し間を置いた。
「では、どう言えばよかったですか」
蓮は少し考えた。
「嬉しかったです」
陽菜はしばらく蓮を見た。
「……合格です」
陽菜が自分のデスクに戻った。
桐島が「本当にいちゃついてる」と言った。
「いちゃついていません」
「今の会話が違うと言うなら、俺の目が節穴だ」
蓮は答えなかった。
否定しなかった。
【記録:202X年4月1日 17:44】
デスク上の彩度:十五パーセント上昇(コブシの花、一輪)。
陽菜との距離:維持。
心の距離:計測不能。
夜、事務所を閉める前に、蓮はノートを開いた。
今日の記録を確認した。
案件の数が増えていた。
日記の依頼。手記の解読。社史の編纂。
全部が、誰かの「待っていた記録」だった。
その隣に、今日の個人的な記録があった。
コーヒーの香り。コブシの花。陽菜の笑顔。
桐島のツッコミ。
全部が並んでいた。
以前のノートには、仕事の記録だけがあった。
今日のノートには、仕事と、それ以外が、混在していた。
「記録することが、どんどん楽しくなっている」
声に出して言った。
自分で言って、少し驚いた。
楽しい、という言葉が、こんなに自然に出てきたのは、いつからだろう。
ノートを閉じた。
コブシの花が、デスクの端にあった。
明日も咲いているだろうと思った。
その「明日」が、今夜は楽しみだった。
第80話 了
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