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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第六章「新しい記録」

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第80話「記録と感情の同居、あるいは馴染み始めた境界線」

朝のルーティンを確認した。

起床。コーヒー。ノートの確認。出勤。

変わらないはずだった。

でも今朝、出勤前にスマホを確認した回数が、いつもより多かった。

理由はわかっていた。

陽菜からのメッセージを確認しようとしていた。

実際にはメッセージはなかった。

でも確認していた。

これは記録の精度に影響する行動だった。

蓮は少し考えた。

「記録者として、公私混同は避けるべきだ」

そこまでは正しかった。

「だが」

声に出した。

「陽菜さんの存在は、もはや俺のシステムのOS(基盤)そのものになっている」

OSが変われば、全ての処理が変わる。

それは公私混同ではなく、基盤の更新だった。

以前は「異常値」として処理していたドキドキが、今朝から「必要なエネルギー源」として定義し直されていた。

定義が変われば、エラーは出ない。

蓮はコートを着た。

鞄を持った。

出発した。

事務所に入った瞬間、コーヒーの香りがした。

陽菜が淹れていた。

それだけだった。

【生命維持フォルダ:活性化】

それだけで活性化した。

以前は「ドーパミン等の神経伝達物質の影響」と分析していた反応が、今は「陽菜さんがここにいる」という事実の確認として機能していた。

分析が、感知に変わっていた。

「おはようございます」陽菜が言った。

「おはようございます」

「コーヒー、もうすぐ出来ます」

「ありがとうございます」

普通の会話だった。

普通の、毎日の会話だった。

でも、同じ言葉が、先週より温かかった。

言葉の温度が、変わっていた。

桐島が来た。

「おはよう」桐島は言った。

「おはようございます」

桐島は二人を見た。

何も言わなかった。

でも、コーヒーを受け取りながら、小さく「そうか」と言った。

何がそうなのか、聞かなかった。

わかっていたので。

午前中から、電話が続いた。

「Margin Notesさんですか。案件をお願いしたいのですが」

一本目は製造業の会社だった。

創業者の手記が倉庫から出てきた。

八十年前の手書きの記録だった。

解読と、社史への統合を依頼したいということだった。

「お受けします」陽菜は電話で答えた。「担当者が伺います」

二本目は個人からだった。

亡くなった祖父が残した日記を読んでほしいということだった。

「古い方言が多くて、家族には読めなくて」という声だった。

「承ります」陽菜は言った。

三本目は地方の図書館からだった。

地域の古い記録の散逸を防ぎたいということだった。

電話が終わるたびに、陽菜はホワイトボードに案件を書き足した。

蓮はそれを見ながら、データを整理していた。

「次の依頼は」陽菜はホワイトボードを見た。「古い蔵から出てきた日記のデジタル化です。個人の方からです」

「わかりました」蓮は答えた。「……その日記の持ち主も」

「なんですか」

「孤独を終わらせたいと願っているでしょうか」

陽菜は少し蓮を見た。

「どういう意味ですか」

「俺たちが復元する記録は、全部、誰かが残したものです。残した理由がある。読んでほしい理由がある。それを読む人間が現れるまで、ずっと待っていた記録です」

陽菜はホワイトボードを見た。

「記録は、待つことができる」

「はい」

「人間は待てないけれど、記録は待てる」陽菜は続けた。「だから、残すことに意味がある」

蓮はそれを聞いた。

「今の言葉、Margin Notesのコンセプトに追加していいですか」

「どうぞ」

陽菜はスマホにメモした。

「『記録は、待つことができる』」

「合わせると」蓮は言った。「記録することは誰かの孤独を終わらせること。そして、記録は待つことができる」

「完璧です」陽菜は笑った。

桐島が「お前ら、仕事しながらいちゃついてるじゃないか」と言った。

「いちゃついていません。コンセプトを整理しています」

「同じに見える」

「見え方の問題です」

「そうか」桐島は書類に戻った。

夕方になった。

案件の整理が一段落した。

陽菜が立ち上がった。

蓮のデスクに来た。

何かを置いた。

見ると、小さな花だった。

白い、小さな花だった。

「何の花ですか」蓮は言った。

「コブシです。春の花です」陽菜は言った。「事務所に色が欲しいと思って」

「ありがとうございます」

「気に入りましたか」

蓮は花を見た。

白かった。

小さかった。

デスクの端にあるだけで、周りの空気が少し変わった。

「デスク上の彩度が上がりました」蓮は言った。

「そんな表現もできるんですね」陽菜は笑った。

「正確な表現です。ただ」

「ただ」

「正確な表現が、一番正しい表現とは限らないことを、最近学んでいます」

陽菜は少し間を置いた。

「では、どう言えばよかったですか」

蓮は少し考えた。

「嬉しかったです」

陽菜はしばらく蓮を見た。

「……合格です」

陽菜が自分のデスクに戻った。

桐島が「本当にいちゃついてる」と言った。

「いちゃついていません」

「今の会話が違うと言うなら、俺の目が節穴だ」

蓮は答えなかった。

否定しなかった。

【記録:202X年4月1日 17:44】

デスク上の彩度:十五パーセント上昇(コブシの花、一輪)。

陽菜との距離:維持。

心の距離:計測不能。

夜、事務所を閉める前に、蓮はノートを開いた。

今日の記録を確認した。

案件の数が増えていた。

日記の依頼。手記の解読。社史の編纂。

全部が、誰かの「待っていた記録」だった。

その隣に、今日の個人的な記録があった。

コーヒーの香り。コブシの花。陽菜の笑顔。

桐島のツッコミ。

全部が並んでいた。

以前のノートには、仕事の記録だけがあった。

今日のノートには、仕事と、それ以外が、混在していた。

「記録することが、どんどん楽しくなっている」

声に出して言った。

自分で言って、少し驚いた。

楽しい、という言葉が、こんなに自然に出てきたのは、いつからだろう。

ノートを閉じた。

コブシの花が、デスクの端にあった。

明日も咲いているだろうと思った。

その「明日」が、今夜は楽しみだった。


第80話 了 


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