第8話「引き継ぎという名の記録」
引き継ぎ資料の作成を、蓮は淡々と進めた。
担当案件の一覧、各取引先の担当者名と特徴、過去の商談履歴、注意すべきポイント。全て頭の中にある情報を、文字に起こしていく作業だった。
同僚たちには単なる「丁寧な引き継ぎ」に見えるだろう。でも実際は違った。
蓮は全ての案件に、日付と経緯を細かく記載した。誰がいつ何を決定したか。誰のアイデアがどの案件に使われているか。全ての事実を、淡々と文書に残した。
感情はない。ただの記録だ。
でもこの記録は、後で意味を持つかもしれない。
木曜日の朝、総務部長に呼ばれた。
「篠原くん、退職の件だけど」
「はい」
「黒川部長から話は聞いた。引き留めは難しいか?」
「はい、決めたことです」
総務部長は少し困った顔をした。五十代の温厚な人物で、蓮とは直接の接点は少ないが、悪い印象はなかった。
「君がいなくなると営業部は正直きついよ。黒川部長も本音では相当焦ってると思う」
「引き継ぎはしっかりやります」
「そうじゃなくてね」総務部長は声を落とした。「君、今まで正当に評価されてたかい?」
蓮は少し驚いた。予想外の一言だった。
「……どういう意味ですか」
「いや、社内でね。君の仕事ぶりを見てる人間はちゃんといるってこと。上の方にも」
蓮は総務部長の顔を見た。この人は何を知っているのか。何を言おうとしているのか。
「ありがとうございます」
それだけ答えた。
総務部長は少し残念そうな顔をして「そうか、わかった。引き継ぎよろしく頼む」と言って席を立った。
蓮はその会話を頭の中に刻んだ。
(二〇〇〇年〇月〇日、午前十時十五分。総務部長・小沢、面談。発言内容:「君の仕事ぶりを見てる人間はちゃんといる。上の方にも」)
覚えた。
その夜、蓮は桐島に連絡した。
『順調か』
『はい。引き継ぎ資料を作りながら、思ったより色々なものが見えてきました』
『色々?』
蓮は少し考えてから打った。
『三年分の仕事が、全部頭に入っています。誰が何をしたか、誰が何を言ったか。全部』
しばらく返信がなかった。それから既読がついて、短い返信が来た。
『それ、いつか使えるぞ』
蓮はスマホを置いた。
窓の外は静かだった。遠くに街の灯りが見える。
使える。
桐島の言葉が頭の中で繰り返された。怒りのためじゃない。復讐のためでもない。ただ事実として、全てが頭の中にある。それだけだ。
それだけで、十分かもしれない。
金曜日、蓮は第一弾の引き継ぎ資料を黒川に提出した。
黒川はページをめくりながら、少し顔色が変わった。
「……これ、全部お前が作ったのか」
「はい」
「田端商事のここ、鈴木部長が打ち合わせで言ってたこと全部入ってるじゃないか」
「議事録を参考にしました」
議事録には残っていない内容も入っている。蓮の記憶から直接起こした情報だ。でもそれを言う必要はない。
黒川はしばらく資料を見て、それから蓮を見た。
「お前、本当に辞めるのか」
「はい」
「……もったいないな」
それだけ言って、黒川は資料をデスクに置いた。
もったいない。
三年間、一度も言われなかった言葉だった。
蓮は「ありがとうございます」と言って、自分のデスクに戻った。
感慨はなかった。ただ静かに、終わりが近づいている感覚だけがあった。
第8話 了
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