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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第六章「新しい記録」

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第75話「平穏の波紋、あるいは記録されない約束」

封筒は、瀬川商事の社紋が入っていた。

前回の招待状と同じ封筒だった。

でも、中身は違った。

依頼書だった。

陽菜が開いた。

読んだ。

「新規事業における過去類似案件の失敗事例アーカイブとリスク抽出」

蓮も読んだ。

「予測ではなく、記録の依頼ですね」

「はい」陽菜は言った。「お父様は、うちの仕事をわかって依頼してきた」

「昨夜の話を、受け取っていたということですか」

「そうだと思います」陽菜は依頼書を置いた。「お父様なりの、敬意の形です」

蓮は書類を見た。

条件が書いてあった。

報酬額。期間。成果物の定義。

全部、普通の取引だった。

特別扱いではなかった。

「引き受けますか」

「はい」陽菜は答えた。「プロとして」

陽菜は代表者欄にサインした。

蓮はそれを見た。

陽菜の署名が、書類の上に入った。

「Margin Notes」という社名の隣に。

【記録:202X年〇月〇日】

瀬川商事との新規案件、受諾。

分類:正式取引。

内容:予測を介さない、純粋な記録支援。

新しい仕事が始まった。

昼前、桐島が言った。

「法務局に行ってくる。登記の追加書類が必要だそうだ」

「どのくらいかかりますか」

「午後いっぱいかかるかもしれない。手続きが面倒で」桐島はコートを着た。「二人で仕事しておけ。頼む」

「わかりました」

桐島が出ていった。

事務所に、蓮と陽菜の二人が残った。

最近はいつも桐島もいた。

二人だけの時間は、振り返れば久しぶりだった。

しばらく、キーボードの音だけがした。

蓮は失敗事例のデータを整理していた。

陽菜は別の書類を作っていた。

一時間ほど、そのまま続いた。

静かだった。

でも今日の静けさは、仕事の静けさだった。

「蓮さん」陽菜が言った。

「はい」

「一つ聞いていいですか。仕事と関係ない話です」

「はい」

陽菜はキーボードから手を離した。

「蓮さんの最優先フォルダには、仕事以外のことも入っていますか」

蓮は少し止まった。

「入っています」

「どんなものですか」

「陽菜さんの記録が最優先フォルダにあります。それ以外には」蓮は少し考えた。「高梨さんとの記録。桐島さんとの記録。田辺社長の笑顔。老人が泣いた日の記録」

「子供の頃のことは」

蓮は少し間を置いた。

「あります」

「記録していますか」

「覚えています。全部」

「楽しかった記憶もありますか」

蓮はしばらく答えなかった。

窓の外を見た。

「あります」蓮は言った。「母と公園に行った記憶があります。唐揚げを作ってもらった記憶があります。それは本物の記録として残っています」

「でも」

「でも、その後の記録も全部残っています。上書きできません」

陽菜は少し間を置いた。

「重いですね、それは」

「重いかどうか、長い間わからなかった」蓮は続けた。「全部同じ重さで記録されていたので。でも最近、少し違いがわかってきました」

「どう違いますか」

「楽しかった記録は、思い出す時に温かいです。苦しかった記録は、重さがあります。同じ記憶でも、感触が違う」

陽菜は蓮を見た。

「それは、最近気づいたことですか」

「はい。陽菜さんと一緒にいるようになってから、感触の違いがわかるようになりました」

陽菜は少し目を細めた。

「陽菜さんの記録は、どんな感触ですか」

蓮は少し考えた。

「温かいです。それと」蓮は言いかけた。

「それと」

「もう一つ何かがありますが、まだ分類できていません」

陽菜はキーボードに手を戻した。

「そうですか」

「気になりましたか」

「気になりますが」陽菜は言った。「今は聞きません」

「なぜですか」

「自分で見つけてほしいので」

蓮は陽菜を見た。

陽菜は画面を向いていた。

口元が少し動いていた。

笑っているのか、何かを考えているのか、今日はわからなかった。

夕方、仕事が一段落した。

陽菜がコーヒーを淹れた。

二人分。

「一つ、提案があります」陽菜は蓮の前にカップを置きながら言った。

「なんですか」

「今度の土曜日、散歩に行きませんか」

「散歩」

「仕事ではありません。ただの散歩です」

「行き先は」

「決めていません。気の向くまま」

蓮は少し間を置いた。

「記録しながらでいいですか」

「ノートは持ってこないでください」陽菜は言った。「カメラも。スマホでのメモも、できれば」

「それは」蓮は言いかけた。

「記録しなくていい時間を作ってほしいんです」陽菜は続けた。「56話で私が言ったことを、覚えていますか」

「記録しなくていいです。感じていてください」

「そうです」陽菜は笑った。「それを、土曜日にやってみましょう」

蓮はしばらく考えた。

「うまくできるかどうか」

「できなくてもいいです。途中でノートを出したくなったら、我慢してください。我慢できなかったら、私に言ってください」

「陽菜さんが代わりに何かするんですか」

「話しかけます。記録より面白いことを言うか、あなたが記録を忘れるか、どちらかになると思います」

蓮は少し間を置いた。

「……どちらになるか、興味があります」

「私も」陽菜は答えた。

コーヒーを飲んだ。

「土曜日、決まりました」

「はい」

「楽しみですか」

蓮は少し考えた。

「楽しみという言葉が合っているかどうか」

「合っていると思います」陽菜は言った。「あなたが楽しみだと感じるものは、今日より増えています。それは確かです」

蓮は答えなかった。

でも、否定しなかった。

夜、事務所を閉めた。

帰りに、スマホのカレンダーを開いた。

土曜日の欄があった。

何も書いていなかった。

入力しようとした。

「散歩」とでも書こうとした。

止めた。

何も書かない欄として、残しておこうと思った。

記録のない日。

予定のない日。

その空白が、今夜は少し輝いて見えた。

蓮はカレンダーを見続けた。

土曜日の欄。

空白のまま。

【記録:202X年〇月〇日 21:33】

土曜日の予定:空白。

備考:記録を禁止された行動。

蓮は少し止まった。

記録を禁止された行動を記録している。

矛盾していた。

でも今夜は、その矛盾が嫌いじゃなかった。

【追記:心拍数、安定。理由:不明。でも安定】

カレンダーを閉じた。

土曜日まで、あと四日だった。


第75話 了 


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