第75話「平穏の波紋、あるいは記録されない約束」
封筒は、瀬川商事の社紋が入っていた。
前回の招待状と同じ封筒だった。
でも、中身は違った。
依頼書だった。
陽菜が開いた。
読んだ。
「新規事業における過去類似案件の失敗事例アーカイブとリスク抽出」
蓮も読んだ。
「予測ではなく、記録の依頼ですね」
「はい」陽菜は言った。「お父様は、うちの仕事をわかって依頼してきた」
「昨夜の話を、受け取っていたということですか」
「そうだと思います」陽菜は依頼書を置いた。「お父様なりの、敬意の形です」
蓮は書類を見た。
条件が書いてあった。
報酬額。期間。成果物の定義。
全部、普通の取引だった。
特別扱いではなかった。
「引き受けますか」
「はい」陽菜は答えた。「プロとして」
陽菜は代表者欄にサインした。
蓮はそれを見た。
陽菜の署名が、書類の上に入った。
「Margin Notes」という社名の隣に。
【記録:202X年〇月〇日】
瀬川商事との新規案件、受諾。
分類:正式取引。
内容:予測を介さない、純粋な記録支援。
新しい仕事が始まった。
昼前、桐島が言った。
「法務局に行ってくる。登記の追加書類が必要だそうだ」
「どのくらいかかりますか」
「午後いっぱいかかるかもしれない。手続きが面倒で」桐島はコートを着た。「二人で仕事しておけ。頼む」
「わかりました」
桐島が出ていった。
事務所に、蓮と陽菜の二人が残った。
最近はいつも桐島もいた。
二人だけの時間は、振り返れば久しぶりだった。
しばらく、キーボードの音だけがした。
蓮は失敗事例のデータを整理していた。
陽菜は別の書類を作っていた。
一時間ほど、そのまま続いた。
静かだった。
でも今日の静けさは、仕事の静けさだった。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「一つ聞いていいですか。仕事と関係ない話です」
「はい」
陽菜はキーボードから手を離した。
「蓮さんの最優先フォルダには、仕事以外のことも入っていますか」
蓮は少し止まった。
「入っています」
「どんなものですか」
「陽菜さんの記録が最優先フォルダにあります。それ以外には」蓮は少し考えた。「高梨さんとの記録。桐島さんとの記録。田辺社長の笑顔。老人が泣いた日の記録」
「子供の頃のことは」
蓮は少し間を置いた。
「あります」
「記録していますか」
「覚えています。全部」
「楽しかった記憶もありますか」
蓮はしばらく答えなかった。
窓の外を見た。
「あります」蓮は言った。「母と公園に行った記憶があります。唐揚げを作ってもらった記憶があります。それは本物の記録として残っています」
「でも」
「でも、その後の記録も全部残っています。上書きできません」
陽菜は少し間を置いた。
「重いですね、それは」
「重いかどうか、長い間わからなかった」蓮は続けた。「全部同じ重さで記録されていたので。でも最近、少し違いがわかってきました」
「どう違いますか」
「楽しかった記録は、思い出す時に温かいです。苦しかった記録は、重さがあります。同じ記憶でも、感触が違う」
陽菜は蓮を見た。
「それは、最近気づいたことですか」
「はい。陽菜さんと一緒にいるようになってから、感触の違いがわかるようになりました」
陽菜は少し目を細めた。
「陽菜さんの記録は、どんな感触ですか」
蓮は少し考えた。
「温かいです。それと」蓮は言いかけた。
「それと」
「もう一つ何かがありますが、まだ分類できていません」
陽菜はキーボードに手を戻した。
「そうですか」
「気になりましたか」
「気になりますが」陽菜は言った。「今は聞きません」
「なぜですか」
「自分で見つけてほしいので」
蓮は陽菜を見た。
陽菜は画面を向いていた。
口元が少し動いていた。
笑っているのか、何かを考えているのか、今日はわからなかった。
夕方、仕事が一段落した。
陽菜がコーヒーを淹れた。
二人分。
「一つ、提案があります」陽菜は蓮の前にカップを置きながら言った。
「なんですか」
「今度の土曜日、散歩に行きませんか」
「散歩」
「仕事ではありません。ただの散歩です」
「行き先は」
「決めていません。気の向くまま」
蓮は少し間を置いた。
「記録しながらでいいですか」
「ノートは持ってこないでください」陽菜は言った。「カメラも。スマホでのメモも、できれば」
「それは」蓮は言いかけた。
「記録しなくていい時間を作ってほしいんです」陽菜は続けた。「56話で私が言ったことを、覚えていますか」
「記録しなくていいです。感じていてください」
「そうです」陽菜は笑った。「それを、土曜日にやってみましょう」
蓮はしばらく考えた。
「うまくできるかどうか」
「できなくてもいいです。途中でノートを出したくなったら、我慢してください。我慢できなかったら、私に言ってください」
「陽菜さんが代わりに何かするんですか」
「話しかけます。記録より面白いことを言うか、あなたが記録を忘れるか、どちらかになると思います」
蓮は少し間を置いた。
「……どちらになるか、興味があります」
「私も」陽菜は答えた。
コーヒーを飲んだ。
「土曜日、決まりました」
「はい」
「楽しみですか」
蓮は少し考えた。
「楽しみという言葉が合っているかどうか」
「合っていると思います」陽菜は言った。「あなたが楽しみだと感じるものは、今日より増えています。それは確かです」
蓮は答えなかった。
でも、否定しなかった。
夜、事務所を閉めた。
帰りに、スマホのカレンダーを開いた。
土曜日の欄があった。
何も書いていなかった。
入力しようとした。
「散歩」とでも書こうとした。
止めた。
何も書かない欄として、残しておこうと思った。
記録のない日。
予定のない日。
その空白が、今夜は少し輝いて見えた。
蓮はカレンダーを見続けた。
土曜日の欄。
空白のまま。
【記録:202X年〇月〇日 21:33】
土曜日の予定:空白。
備考:記録を禁止された行動。
蓮は少し止まった。
記録を禁止された行動を記録している。
矛盾していた。
でも今夜は、その矛盾が嫌いじゃなかった。
【追記:心拍数、安定。理由:不明。でも安定】
カレンダーを閉じた。
土曜日まで、あと四日だった。
第75話 了
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