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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第六章「新しい記録」

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第74話「和解の儀式、あるいは数式の外側」

招待状は封書で届いた。

瀬川家の紋章が入った封筒だった。

陽菜は開けた。

高級レストランの名前が書いてあった。

日付と時間。

最後に、義隆の手書きの署名があった。

「話がしたい。二人で来てほしい。義隆」

陽菜はしばらく封書を見た。

「どうしますか」蓮は言った。

「行きます」陽菜は答えた。「ただ」

「ただ」

「仕事としてではなく、私自身の意志で行きたい」陽菜は言った。「以前は、父に呼ばれたら行かなければならなかった。でも今回は、行くと決めた」

「違いは何ですか」

「以前は義務でした。今回は選択です」

蓮はそれを聞いた。

「今のあなたなら、対等に話せます」

陽菜は蓮を見た。

「そう思いますか」

「はい。陽菜さんは三週間で変わりました」

「私が変わったんですか」

「陽菜さんがずっと持っていたものが、表に出てきました」

陽菜は少し間を置いた。

「……記録しておいてください、その言葉」

「しました」

陽菜は招待状を持ったまま、少し笑った。

「蓮さん、一つ教えてください」

「なんですか」

「父が好むワイン、覚えていますか。帝都物産の件の頃の資料に、何か出ていませんでしたか」

蓮は記憶を走らせた。

「瀬川商事の接待記録に、義隆会長の嗜好としてブルゴーニュの〇〇年が挙げられていました。当時の会食費の内訳から」

「そういう情報まで」

「全部入っています」

陽菜は笑った。

「当日、そのワインを選んでいいですか」

「もちろんです」

「父に、驚かれますね」

「陽菜さんが覚えていた、という形にしてください。俺から聞いた、とは言わなくていいです」

陽菜は少し間を置いた。

「なぜですか」

「父と娘の会食です。俺の記憶より、陽菜さんの記憶の方がいい」

陽菜はしばらく蓮を見た。

「……ありがとうございます」

レストランは静かだった。

格式のある場所だった。

照明が落ち着いていた。

テーブルに三人が座った。

義隆が先に来ていた。

「来てくれたか」義隆は言った。

「はい」陽菜は答えた。

「篠原くんも」

「お招きありがとうございます」

義隆はメニューを開いた。

「今日は食事をしよう。難しい話は後で」

「わかりました」

料理が来た。

ワインが来た。

ソムリエがラベルを見せた。

陽菜が見た。

「これでお願いします」陽菜は言った。

義隆がラベルを見た。

少し止まった。

「お前、これを覚えていたのか」

「昔、父が好きだとおっしゃっていた気がして」

義隆はしばらく陽菜を見た。

何かを考えていた。

「そうか」義隆は言った。

それだけだった。

でも、声のトーンが少し変わっていた。

食事が始まった。

蓮は料理を食べながら、義隆の表情を記録した。

計算している目だった。

でも、今日は違う計算をしていた。

娘を見る目だった。

デザートが来た頃、義隆が口を開いた。

「篠原くん、一つ聞いていいか」

「はい」

「君の能力を、瀬川商事の未来のために使わないか」義隆は言った。「市場分析、競合調査、リスク管理。君の記憶力があれば、あらゆる判断を最適化できる。条件は君が決めていい」

蓮は義隆を見た。

「ありがとうございます。一つだけ、お聞きしてもいいですか」

「どうぞ」

「予測と記録の違いを、どうお考えですか」

義隆は少し眉を動かした。

「同じではないのか」

「違います」蓮は答えた。「予測は、まだ起きていない未来を計算しようとします。記録は、すでに起きたことを正確に残します。エドワードは予測で人を動かそうとした。でも、予測は外れます。記録は外れません」

「つまり」

「予測よりも、今起きていることを記録することに価値があると気づきました。過去の正確な記録が積み上がれば、未来を計算する材料になります。でも、その計算をするのは俺じゃなくていい」

義隆は少し考えた。

「記録することが君の仕事であって、判断することは別の人間がやる、ということか」

「はい。俺は記録します。陽菜さんが計算します。それが今の俺たちの形です」

義隆はワインを飲んだ。

「陽菜」義隆は娘を見た。「お前はどう思っている」

陽菜はグラスを持ったまま、义隆を見た。

「お父様、私たちはもう、あなたの計算の一部ではありません」

義隆は止まった。

「一部ではない、というのは」

「瀬川商事の戦略の駒として働くのではなく、独立した立場で記録を価値に変えることが、私たちの仕事です」陽菜は続けた。「瀬川商事との取引はします。でも、それは対等な取引です」

義隆はしばらく陽菜を見た。

「お前が、そこまではっきり言えるようになったとは」

「変わりました」

「何が変えた」

陽菜は少し間を置いた。

「先日、百年前の往復書簡を見つけました」陽菜は言った。「戦争を挟んで、二十四年間、ただ『待っています』と書き続けた手紙でした。その末裔の老人が、初めて曾祖父母の記録を知って、泣いていました。『これで家族がバラバラじゃなくなった』と言っていました」

義隆は何も言わなかった。

「あの老人の笑顔が、私たちの会社の理由です」陽菜は続けた。「市場の予測ではなく、誰かの孤独を終わらせること。それが私と蓮さんがやることです」

テーブルが静かになった。

「お父様」陽菜は言った。「私は、蓮さんの隣で余白を記録し続けます。それが私の計算が出した、最良の答えです」

義隆は陽菜を見た。

長い時間、見ていた。

蓮は義隆の表情を記録した。

【記録:瀬川義隆。表情の変化。目の周辺の筋肉、わずかに弛緩。口元、閉じたまま柔らかくなった。分類:降参、あるいは安堵。娘の自立を確認】

義隆がワインを持ち上げた。

「乾杯しよう」義隆は言った。

「何にですか」陽菜が言った。

「お前たちの仕事に」義隆は答えた。「それと、俺が間違えた計算を認めることに」

三人がグラスを合わせた。

音が鳴った。

小さな音だった。

でも、今夜一番の音だった。

帰り道、夜風が冷たかった。

でも、冷たさが気持ちよかった。

「疲れましたか」蓮は言った。

「少し。でも、いい疲れです」陽菜は言った。「今日の疲れは、初案件の後の疲れに似ています」

「終わった後の感触がいい、ということですか」

「そうです」

二人は並んで歩いた。

「蓮さん」陽菜が言った。

「はい」

「今日、ありがとうございました」

「俺は何もしていません」

「していました」陽菜は続けた。「ワインのことも。それから、父との会食の前に言ってくれた言葉も。今のあなたなら対等に話せる、という言葉が、今日の私を作っていました」

蓮は少し間を置いた。

「陽菜さんが作ったものです」

「あなたが記録してくれたから、私は信じられました。自分のことを」

夜風が吹いた。

陽菜の髪が揺れた。

蓮はそれを記録した。

今夜の夜風の温度も。

陽菜の声のトーンも。

全部。

「次は」陽菜が言った。

「次?」

「次のMargin Notesの話です。お父様が今夜、いくつか案件の相談をしたいと言っていました。正式な依頼として来るはずです」

「それとは別に」蓮は言った。

「別に?」

「今日の義隆会長の表情を記録しました」

「どんな表情でしたか」

「父親の顔でした」蓮は答えた。「計算ではなく、誇りと寂しさが混ざっていました」

陽菜は少し間を置いた。

「……父が誇りに思ってくれたんですか」

「見えました」

陽菜は前を向いた。

しばらく歩いた。

「記録してください」陽菜は言った。「それも、最優先フォルダに」

「しました」

二人の距離が、一歩分だけ近かった。

気づいていたかどうかは、どちらも言わなかった。

【記録:202X年〇月〇日 22:44】

瀬川義隆、和解確認。

陽菜の自立、記録済み。

帰り道の距離:平常時より近い。

分類:未定義フォルダへ追加。


第74話 了


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