第74話「和解の儀式、あるいは数式の外側」
招待状は封書で届いた。
瀬川家の紋章が入った封筒だった。
陽菜は開けた。
高級レストランの名前が書いてあった。
日付と時間。
最後に、義隆の手書きの署名があった。
「話がしたい。二人で来てほしい。義隆」
陽菜はしばらく封書を見た。
「どうしますか」蓮は言った。
「行きます」陽菜は答えた。「ただ」
「ただ」
「仕事としてではなく、私自身の意志で行きたい」陽菜は言った。「以前は、父に呼ばれたら行かなければならなかった。でも今回は、行くと決めた」
「違いは何ですか」
「以前は義務でした。今回は選択です」
蓮はそれを聞いた。
「今のあなたなら、対等に話せます」
陽菜は蓮を見た。
「そう思いますか」
「はい。陽菜さんは三週間で変わりました」
「私が変わったんですか」
「陽菜さんがずっと持っていたものが、表に出てきました」
陽菜は少し間を置いた。
「……記録しておいてください、その言葉」
「しました」
陽菜は招待状を持ったまま、少し笑った。
「蓮さん、一つ教えてください」
「なんですか」
「父が好むワイン、覚えていますか。帝都物産の件の頃の資料に、何か出ていませんでしたか」
蓮は記憶を走らせた。
「瀬川商事の接待記録に、義隆会長の嗜好としてブルゴーニュの〇〇年が挙げられていました。当時の会食費の内訳から」
「そういう情報まで」
「全部入っています」
陽菜は笑った。
「当日、そのワインを選んでいいですか」
「もちろんです」
「父に、驚かれますね」
「陽菜さんが覚えていた、という形にしてください。俺から聞いた、とは言わなくていいです」
陽菜は少し間を置いた。
「なぜですか」
「父と娘の会食です。俺の記憶より、陽菜さんの記憶の方がいい」
陽菜はしばらく蓮を見た。
「……ありがとうございます」
レストランは静かだった。
格式のある場所だった。
照明が落ち着いていた。
テーブルに三人が座った。
義隆が先に来ていた。
「来てくれたか」義隆は言った。
「はい」陽菜は答えた。
「篠原くんも」
「お招きありがとうございます」
義隆はメニューを開いた。
「今日は食事をしよう。難しい話は後で」
「わかりました」
料理が来た。
ワインが来た。
ソムリエがラベルを見せた。
陽菜が見た。
「これでお願いします」陽菜は言った。
義隆がラベルを見た。
少し止まった。
「お前、これを覚えていたのか」
「昔、父が好きだとおっしゃっていた気がして」
義隆はしばらく陽菜を見た。
何かを考えていた。
「そうか」義隆は言った。
それだけだった。
でも、声のトーンが少し変わっていた。
食事が始まった。
蓮は料理を食べながら、義隆の表情を記録した。
計算している目だった。
でも、今日は違う計算をしていた。
娘を見る目だった。
デザートが来た頃、義隆が口を開いた。
「篠原くん、一つ聞いていいか」
「はい」
「君の能力を、瀬川商事の未来のために使わないか」義隆は言った。「市場分析、競合調査、リスク管理。君の記憶力があれば、あらゆる判断を最適化できる。条件は君が決めていい」
蓮は義隆を見た。
「ありがとうございます。一つだけ、お聞きしてもいいですか」
「どうぞ」
「予測と記録の違いを、どうお考えですか」
義隆は少し眉を動かした。
「同じではないのか」
「違います」蓮は答えた。「予測は、まだ起きていない未来を計算しようとします。記録は、すでに起きたことを正確に残します。エドワードは予測で人を動かそうとした。でも、予測は外れます。記録は外れません」
「つまり」
「予測よりも、今起きていることを記録することに価値があると気づきました。過去の正確な記録が積み上がれば、未来を計算する材料になります。でも、その計算をするのは俺じゃなくていい」
義隆は少し考えた。
「記録することが君の仕事であって、判断することは別の人間がやる、ということか」
「はい。俺は記録します。陽菜さんが計算します。それが今の俺たちの形です」
義隆はワインを飲んだ。
「陽菜」義隆は娘を見た。「お前はどう思っている」
陽菜はグラスを持ったまま、义隆を見た。
「お父様、私たちはもう、あなたの計算の一部ではありません」
義隆は止まった。
「一部ではない、というのは」
「瀬川商事の戦略の駒として働くのではなく、独立した立場で記録を価値に変えることが、私たちの仕事です」陽菜は続けた。「瀬川商事との取引はします。でも、それは対等な取引です」
義隆はしばらく陽菜を見た。
「お前が、そこまではっきり言えるようになったとは」
「変わりました」
「何が変えた」
陽菜は少し間を置いた。
「先日、百年前の往復書簡を見つけました」陽菜は言った。「戦争を挟んで、二十四年間、ただ『待っています』と書き続けた手紙でした。その末裔の老人が、初めて曾祖父母の記録を知って、泣いていました。『これで家族がバラバラじゃなくなった』と言っていました」
義隆は何も言わなかった。
「あの老人の笑顔が、私たちの会社の理由です」陽菜は続けた。「市場の予測ではなく、誰かの孤独を終わらせること。それが私と蓮さんがやることです」
テーブルが静かになった。
「お父様」陽菜は言った。「私は、蓮さんの隣で余白を記録し続けます。それが私の計算が出した、最良の答えです」
義隆は陽菜を見た。
長い時間、見ていた。
蓮は義隆の表情を記録した。
【記録:瀬川義隆。表情の変化。目の周辺の筋肉、わずかに弛緩。口元、閉じたまま柔らかくなった。分類:降参、あるいは安堵。娘の自立を確認】
義隆がワインを持ち上げた。
「乾杯しよう」義隆は言った。
「何にですか」陽菜が言った。
「お前たちの仕事に」義隆は答えた。「それと、俺が間違えた計算を認めることに」
三人がグラスを合わせた。
音が鳴った。
小さな音だった。
でも、今夜一番の音だった。
帰り道、夜風が冷たかった。
でも、冷たさが気持ちよかった。
「疲れましたか」蓮は言った。
「少し。でも、いい疲れです」陽菜は言った。「今日の疲れは、初案件の後の疲れに似ています」
「終わった後の感触がいい、ということですか」
「そうです」
二人は並んで歩いた。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「今日、ありがとうございました」
「俺は何もしていません」
「していました」陽菜は続けた。「ワインのことも。それから、父との会食の前に言ってくれた言葉も。今のあなたなら対等に話せる、という言葉が、今日の私を作っていました」
蓮は少し間を置いた。
「陽菜さんが作ったものです」
「あなたが記録してくれたから、私は信じられました。自分のことを」
夜風が吹いた。
陽菜の髪が揺れた。
蓮はそれを記録した。
今夜の夜風の温度も。
陽菜の声のトーンも。
全部。
「次は」陽菜が言った。
「次?」
「次のMargin Notesの話です。お父様が今夜、いくつか案件の相談をしたいと言っていました。正式な依頼として来るはずです」
「それとは別に」蓮は言った。
「別に?」
「今日の義隆会長の表情を記録しました」
「どんな表情でしたか」
「父親の顔でした」蓮は答えた。「計算ではなく、誇りと寂しさが混ざっていました」
陽菜は少し間を置いた。
「……父が誇りに思ってくれたんですか」
「見えました」
陽菜は前を向いた。
しばらく歩いた。
「記録してください」陽菜は言った。「それも、最優先フォルダに」
「しました」
二人の距離が、一歩分だけ近かった。
気づいていたかどうかは、どちらも言わなかった。
【記録:202X年〇月〇日 22:44】
瀬川義隆、和解確認。
陽菜の自立、記録済み。
帰り道の距離:平常時より近い。
分類:未定義フォルダへ追加。
第74話 了
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