第72話「最初の案件、あるいは名前のない感情」
木箱が届いた。
古い木だった。
蓋に、かすれた墨字があった。
「〇〇家文書」
蓮は蓋を開けた。
埃の匂いがした。
その下に、インクの匂いがした。
古い紙の匂いだった。
三年前のシュレッダー資料とは違う匂いだった。
あの時のインクの匂いは、冷たかった。
今日のインクの匂いは、違った。
何が違うのか、まだ言葉にならなかった。
「どのくらいありますか」陽菜が覗き込んだ。
「目視で百二十点前後です。明治から昭和にかけての文書が中心のようです」
「全部読めますか」
「崩し字の部分は時間がかかります。でも、当時の文体のパターンを参照すれば、解読できます」
陽菜は木箱を見た。
「百年以上前のものが、ここにあるんですね」
「はい」
「それを今日、私たちが触っている」
蓮は少し間を置いた。
「そうですね」
それだけのことだったが、今日は少し違う感触だった。
資料を一点ずつ広げた。
スキャンした。
解読した。
一枚目は土地の証書だった。
明治三十年代。筆跡が几帳面だった。
二枚目は家の間取り図だった。
当時の建築様式。
三枚目は手紙だった。
開いた瞬間、字が崩れていた。
急いで書いたような字だった。
蓮は読み始めた。
【アーカイブ復元:進捗十二パーセント。未判読文字:二百四十四字。推測アルゴリズム:当時の慣用句を優先適用】
一行目。
二行目。
止まった。
「〇〇ハ元気デスカ。コチラハ皆息災デス。早ク帰ッテ来テクダサイ。子供ガ父ノ顔ヲ忘レソウデス」
蓮は字を見た。
崩れていたが、読めた。
読んだ後、少し間があった。
記録が走らなかった。
珍しかった。
「どうしましたか」陽菜が言った。
「手紙があります」
「何が書いてありますか」
蓮は声に出して読んだ。
「〇〇ハ元気デスカ。コチラハ皆息災デス。早ク帰ッテ来テクダサイ。子供ガ父ノ顔ヲ忘レソウデス」
陽菜は少し間を置いた。
「……いつ頃の手紙ですか」
「大正の終わり頃です。封筒の印字から判断して」
「関東大震災の前後ですね」
「はい」
陽菜は手紙を見た。
字が、揺れていた。
書いた人間の手が、揺れていたのかもしれなかった。
木箱の中に、もう一束あった。
紐で束ねられていた。
開くと、手紙が十数通あった。
差出人と受取人が、同じ二人だった。
〇〇から、〇〇へ。
〇〇から、〇〇へ。
交互に来ていた。
往復書簡だった。
蓮は順番を確認した。
時系列に並べた。
最初の手紙は大正十年だった。
最後の手紙は昭和二十年だった。
二十四年間。
「二十四年分あります」蓮は言った。
「全部、この二人の往復ですか」
「はい」
陽菜は束を見た。
「読んでいいですか」
「依頼の範囲内です」
陽菜は最初の手紙を開いた。
蓮は次の手紙を読んだ。
しばらく、二人は静かに読んだ。
蓮が途中で止まった。
「これを見てください」
陽菜が来た。
一枚の手紙だった。
昭和の初め頃の字だった。
「待ッテイマス。生キテ帰ッテ来テクダサイ。貴方ガ帰ル場所ハ、ここデス」
陽菜は読んだ。
しばらく動かなかった。
「すごいですね」陽菜は言った。
「何がですか」
「二十四年間、ずっと書き続けた」陽菜は手紙を見た。「戦争があって、震災があって、それでもずっと。待っていますって、書き続けた」
蓮はその手紙を見た。
「元気デスカ」という字があった。
「待ッテイマス」という字があった。
「帰ッテ来テクダサイ」という字があった。
繰り返し、同じ言葉が出てきた。
違う言葉を知らなかったのではない、と蓮は思った。
これ以上の言葉が必要なかったのだ。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「記録って、時間を止める魔法みたいですね」
蓮は陽菜を見た。
「時間を止める」
「この人たちが書いた瞬間の気持ちが、百年後の今日も、こうして伝わっている」陽菜は手紙を見た。「インクが紙に残っている間は、その瞬間が続いている」
蓮は少し考えた。
「俺が三年前から記録してきたことも、同じですか」
「同じだと思います」陽菜は蓮を見た。「あなたが覚えていることは、その瞬間がずっと続いているということです」
蓮はその言葉を聞いた。
記録した。
でも今日は、記録する前に、何かが動いた。
胸の、少し奥の方で。
夕方、陽菜が帰った。
「また明日」と言って、コートを着て出ていった。
事務所に一人になった。
桐島も今日は早く帰っていた。
静かだった。
蓮はデスクに座った。
木箱の資料が残っていた。
でもすぐには手をつけなかった。
ノートを開いた。
昨夜書いた陽菜の横顔のスケッチがあった。
「0」の数字があった。
その隣に、今日見た手紙のフレーズを書いた。
『待ッテイマス』
『帰ル場所ハ、ここデス』
書いた。
眺めた。
このフレーズを書いた人間は、百年前に何を感じていたか。
蓮には、データとして説明できなかった。
でも、何かが伝わってきた。
言葉にならないものが。
胸の鼓動を確認した。
【記録:202X年3月24日 21:17】
心拍数:平常時より十パーセント上昇。
原因:陽菜の発言の反芻。「記録は時間を止める魔法」。
分類しようとした。
止まった。
「幸福」とは少し違った。
「信頼」でもなかった。
「整理不能」は、59話で解消していた。
今夜のこれは、また別のものだった。
もっと、胸の奥が熱くなる感触だった。
三年間、全部に分類をつけてきた。
でも今夜の感触は、既存のどの分類にも入らなかった。
【分類:未定義(一時的に最優先フォルダへ保留)】
蓮はノートを見た。
『待ッテイマス』という字があった。
百年前の誰かが書いた言葉だった。
この言葉を書いた人間も、こういう感触を持っていたのかもしれなかった。
言葉にならないものを、それでも言葉にしようとした人間。
蓮は窓の外を見た。
夜の街があった。
「名前をつけなければならない」
声に出して言った。
誰も聞いていなかった。
でも、言った。
未定義のままにしておける感触ではなかった。
この感触には、名前があるはずだった。
まだ見つかっていないだけで。
蓮は窓の外を見続けた。
街の光が、今夜は少し揺れて見えた。
光が揺れているのではなく、見ている側が揺れているのかもしれなかった。
【記録:21:33】
名前のないフォルダ、新規作成。
保存件数:本日から開始。
命名予定:未定。
でも、いつか名前がつく。
そう思いながら、ノートを閉じた。
第72話 了
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